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ふみまろの因数分解①丸裸になる平等とは?(山賊ふみまろ)『暇』2023年7月号

「コイツとは話にならねえ!全く馬鹿なやつだ。」なんて一度は思ったことはありませんか?相手は会社の上司ですか?友達?あるいは恋人?家族?はたまた街中であなたから見て変な行動をしている人?色々な人に対してそのようなことを心の内で思ってしまうことは誰しも経験したことがあると思います。私は相手に対してそのようなことを思った時にリスペクトの欠如を実感します。人が存在するためには絶対的にリスペクト、所謂自尊心が必要だと思います。
あなたも人に見下された態度を取られたら自尊心が欠如し、ストレスで頭がイカれると思いませんか?相手の家庭環境が複雑なものであり、家にいるだけで自尊心を削がれていた場合はあなたの常識が相手に通じない状況が生まれます。自尊心がある人とない人では価値観が決定的に異なるため、理解し合うのが難しいのです。そのため他者への理解を深めるというのは大変難しいものだと日々思っています。このような状況に陥ってしまう全ての原因はストレスであると私は考えています。仕事、友人、恋人、家族、金などがストレスの例として挙げられますが、大きく共通しているのは人間関係だと考えられます。もしかしたら、東京に住んでる人間の多くは仕事に関する人間関係、あるいは通勤時に多くのストレスを受けているかもしれませんね。満員電車のサラリーマンの方たちの表情は歴戦の戦士のような顔つきですからねぇ。大きな抑圧に耐えに耐え、当たり前まで落とし込んでしまったと思われます。
とすると、社会人である方たちはストレスの大元である仕事から離れて暇になれば、必然的にストレスは減ることになります。人と理解し合うためには、このストレスという荷物を降ろさなければなりません。ぜーんぶストレスが悪いのだ!全人類暇になろう!「暇」をやる。ということで、他者の状況を理解するためには一度「暇」を体で感じてみる必要がありますねぇ〜。

今まで体感したことのない暇、厚木で体感出来ます。というのも、厚木の住民は暇であるため、風呂をやっています。何を言っているのか分からないでしょう。とにかく暇で風呂をやっているんです笑。この意味不明な言葉を因数分解でもしてみますか〜。
容易に想像は出来ると思いますが、風呂をやるとは風呂に入る、に近い意味合いを含んでいます。風呂に入ってリラックスし、気を許している精神状態を私は「風呂をやる」と言っているのです。そして暇、これは一般的には朝起きてから明確な義務と呼べる行為を迫られない状況を指すと思います。厚木には高齢者の方たちが多く住んでるということで、こういった暇が街にあります。しかし、この類の暇だけではないというのが味噌です。
人でひしめき合っている東京と異なり、厚木には広大な空間が溢れかえっています。都心で生活している人なら分かると思いますが、吉祥寺、渋谷、下北沢、新宿など人口密度が高い街では歩くペースに制限がかかります。急に止まったら後ろの人の迷惑ですし、亀みたいに歩いてたらせかせかと追い抜かれて「あの人の邪魔しちゃったかな?」などと街を歩くだけで他者に迷惑をかけていないかどうかを考えてしまいます。厚木は街づくりが広々としているのに加え、街を歩いてる人間の数が多くないです。そのため自由に街を歩くことが出来ます。これが厚木の持つ最大の魅力である、「暇」の精神です。仕事をしていない「暇」な状態と似たような開放感がある精神状態で街中を歩くことが出来ます。人はそのような暇に直面すると、精神が開放されるように私は思えます。開放された心は怒りの閾値を上げてくれる作用があり、生きづらさやストレスを人間の脳みそから奪い取ることが出来るんですよねぇ〜。楽、この一言に限ります。歩きながら風呂をやる、暇をやる、こんな具合です。

また、暇で風呂をやっている他にも間合いが独特な街です。「間合いだぁ?こいつは馬鹿なことを言ってやがる。」そう思いませんでした?あなた笑。冒頭で述べた状況がここに存在しますねぇ〜笑。冗談です笑。とにかく間合い、これは気まずさ、心の距離のことを指しています。例えば、二人で食事に行った時に片方が先に料理が提供されました。そのような状況では一瞬なんとも言えない気まずい空気が流れることがあります。「先に食べて良いのかな?それとも待つ?相手は今何を考えているの?」そういった空気のことを私は気まずい、と認識しています。そういった時は、料理を先に提供された側が誰に言うでもなく「いただきますですねぇ〜」と同調の意味を込めた頂きますを口から発射すれば、それを聞いた人間は気まずさを感じることがなく次の料理を待つことが出来ると思います。「お先に頂きます」と言ってしまうと待つ側はしばらく食べられないのが確定してしまい、先に頂く人は申し訳無さを感じます。一方、待つ人は先に頂く人が申し訳無さを感じているのを実体験から予想できるので、相手に申し訳ないと思わせて申し訳ない、と感じてしまうことでしょう。先程の「いただきますですねぇ〜」はあまり申し訳無さを人に感じさせないため、気まずい空気が流れません。これが間合いに対する処理方法の一種の例です。そういった間合いに対する処理方法が街全体に散りばめられており、厚木の人と会話すればだんだんと間合いというものを感覚で理解することが出来ると思います。気まずくなり、その空気感を厚木に住んでる人間がどのように解決していくのかを、街を歩いて人と会話することで理解することが出来ます。
そういった厚木にある独特の間合いが生まれた背景として、厚木の広大な空間が関係していると思います。第2パラグラフでも似たようなお話はしましたが、東京で頻繁にある気まずさを体感するために必要なのでもう一度お話します。厚木は基本的に街全体が広く、空間に溢れています。一方、東京は狭くて人口密度が高いため空間があまりないです。その典型的な例としては、喫煙所が挙げられます。喫煙者の方なら分かると思いますが、狭い喫煙所で目線をどこにやったら良いか分からない時がありませんか?多くの人はスマホを見て茶を濁していますが、スマホがなかった場合はなんとも言えない気まずい空気感が流れると思います。非喫煙者の方は狭いエレベーター内での空気感、の方が感覚的に分かると思います。その空気感の原因となるのが空間的広さの欠如です。これが欠如することによりパーソナルスペースが侵害されるという中々しんどい状況が生み出され、かつ相手は話したことのない他人なのであまり話しかける人はいないでしょう。それ故なんとも言えない気まずい空間がそこに流れてしまいます。厚木にはこのような空間はありません。喫煙所はもちろん、その他の街全体の空間が広々としているため、目のやり場に困る程他人からパーソナルスペースを侵害される、という状況が生まれません。厚木の間合いが独特なものになる理由というのはこれなのです。
上にある通り、厚木という街はストレスが少ない街なのです。少なくとも私のフィールドワークからはそのような顔を見ることが出来ました。そして冒頭で口に出していたストレス、に話を戻してみることにします。厚木という街はストレスが少なく、暇に溢れているため他者を思いやる優しい心を持った方たちが多くいらっしゃいます。この優しい心が東京にはないのです。朝の駅でスイカのチャージが足りなくて目の前の人が立ち止まった途端に始まる舌打ち、肩をぶつけてくるぶつかりおじさん、などなど皆時間に追われて忙しない日々を過ごしていることでしょう。それが東京という街の顔です。みなさんは何か可及的速やかに済まさなければならない目的があり、その目的のために家のドアを開け街へと足をそろそろと運ぶことでしょう。東京という街は時間で人間を縛っているのです。一方、厚木は時間の呪縛から解き放たれているため、時間の流れがゆるりとしています。厚木を歩いている人たちの歩き方はせかせかしていないのです。コンビニでは客の後ろに人が並んでいないため、店員が急いだり焦って仕事をしている様子は見受けられませんでした。そればかりか、店員が客に一言二言の雑談を持ちかける程の心の余裕を見ることが出来ました。私も店員に話しかけられ、ゆるりと雑談をしました。そういったこともあり、厚木という街の時間の流れ方がゆったりしているなぁ〜と感じた次第です。広々とした空間により間合いをやる、暇をやる、風呂をやる、などが出来るのです。
今の日本はストレス社会であり、そのような状況下で人は平等に会話することが出来ない、と私は感じます。これじゃあ風呂をやれないよ!と言わずにはいられません。さて、このストレスですが、日本に限らず、人が生きている上で一定以上人間を襲うものだと思いませんか?ストレスから人は逃れることが不可能であるという事実がある以上、国が責任を持って国民に教育の機会を与えるべきだと思います。今の日本の教育に対する姿勢は、社会人になるために必要な知識を与えることのみに重きを置いているように思えます。学生を経て社会人になった方たちは、そういった知識を活用し、社会に貢献することと思われます。そして社会に出た途端に、学生の時では経験したことのないストレスに襲われる人たちは少なくないはずです。そのような新社会人の方たちも、社会の中で風呂に入ったような精神状態で人と会話したい、互いに理解し合ってリラックスしたい、と考えているのではないでしょうか。社会と同様に人間の精神構造は非常に複雑である、という事実を政府の方たちがきちんと受け止めているとは、私は思えないです。若者に仕事に必要な知識を与えることは十分に実現していると思います。しかし、生きていくために必要な精神のコントロール技術はまだ与えるに至っていないです。生きていくためには、ストレスを軽減し自分の精神をコントロールすることがとても大切です。風呂に入ったようなリラックスした精神状態は、人間の精神構造をある程度理解することで得られるように感じます。そのため、人間の精神に関する知識を学校で教わることはとても重要です。こういったことが、日本の今後の課題であるように私は思えてなりません。
日本の現状を憂いてしまいましたが、暇によって心の呪縛が解き放たれた先に見えるもの、それは丸裸になって人と話すということです。風呂に入ったような精神状態で街中を歩き、人と話すのです。まずリラックスして、腹を割ってリスペクトの心を持って人と会話するのです。そういった会話を会社の上司や友達、恋人、家族、自分が関わりを持っている全ての人間とすることが出来れば、生きづらさを感じることはないと私は感じます。人前で裸、つまりは自分の弱みのようなものですよね。そういった人に見せたくない己の恥を捨てた会話を、私は丸裸になる平等と呼んでいます。こういった人間関係が自分が勤めている会社で常識となれば、とっても働きやすくてストレスがない会社になると思いませんか?この考えがもっと世間に認められていけば、日本全体の雰囲気がラフな感じになると思います。人をリスペクトし、恥を捨て丸裸になる平等の関係値を、読者の方々がこの先の人生で多くの人と築き上げていけることを心から祈っております。

【筆者プロフィール】山賊ふみまろ
1998年12月13日生まれ。新宿育ち西東京市在住の大学4年。20年近く新宿で育った後、西東京に移り住む。高校の留年、浪人を経て2019年に日本大学に入学。浪人している期間に自己の幸福について考える。この期間にYouTubeを始め、現在チャンネルの登録者数は6万人程。大学ではキックボクシング部に所属するも、雰囲気に馴染めず1年で退部。退部した後に協栄ボクシングジムに入会していたが、足の怪我のため退会。現在リハビリ期間中。

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