つぶやき①

※このつぶやきは重い内容を含むため、精神状態が不安定な方はお読みいただかないことを推奨いたします。


初めまして、×です。
読み方は特に決めていないので、バツでもカケルでもご自由にお読みください。自分の中にあるモヤモヤを整理したくて、noteを始めました。

初めてのつぶやきなので、
私について簡単な自己紹介をさせていただいた後に、本題へ移りたいと思います。※全部で4300文字程度のそこそこ長い文章です。



自己紹介


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私は、看護学を専攻している大学1年生です。

母親はうつ病、父親は統合失調症を患っており、父親は精神障碍者手帳2級を取得しています。
私が大学生になってから父親とは半別居状態で、普段は母親と2人で暮らしています。両親が顔を合わせる機会が減ったので、最近は穏やかな時間が増えました。

上記のことから感付いた方もいらっしゃるかもしれませんが、私は機能不全家族で育ち、主に心理的虐待を受けていました。

私自身も1年間だけ精神科に通っていたことがあり、その時は双極性障害と診断されていました。結局きちんと治っていないのにも関わらず病院に行かなくなってしまったので、現在の状態は分かりません。



また、私には同じような境遇をもつ恋人がいます。
遠距離なので頻繁には会えませんが、いつも私を奮い立たせてくれる素晴らしい存在です。恋人からの刺激もあってnoteを始めたところもあります。


趣味はお絵描きとキックボクシングです。
最近はぬいぐるみも作りました。

好きな音楽はクラシックやゲームのbgm、ボカロです。
特にボカロの中でもmaretuさんや青谷さんの曲が好きです。
青谷さんの『げんかいがすぎる』がおすすめなので、よければ聞いてみてください。
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以上が私の自己紹介になります。
これからどうぞよろしくお願いいたします。:-)


では、本題に移ります。




『生きているだけで丸儲けなんです』


これは私が、とある病院にいらっしゃる看護師長さんから言われたことです。皆さんも一度は、これと似たような言葉を聞いたことがあると思います。


「そんなわけないよなー」と、これを聞いた私はどうしても考えてしまいます。

何か素晴らしいことができるから、存在することを許されているような気がしてしまいます。
逆に、何もせずベットで転がっている自分や、課題や試験で中途半端な評価をいただいている自分に対しては、「お前は存在してはいけない人間なんだ」と何度も責めてしまいます。


自分の人生を振り返ってみても、
・幼稚園の頃は絵が上手だった(自分で言うのもなんですが…)
・小学生の頃は絵が上手で勉強もそこそこできた
・中学生の頃も絵が描けて勉強もできていた
から存在することを許されていたような気がします。
後は、両親のストレス発散のために存在していた気もしますが…………


やはり、高校生になってから今までのように上手くできなくなったことで、次第に落ちぶれていったのでしょう。
私の中には、優生思想が強くあるのかもしれません。

他の人命に対しては「命の選別をするなんておこがましい」などと思いながら、自分に対しては「この自分は生きていて良い」「この自分は生きていてはダメだ」という命の選別をしているようです。
自分に対して出来ないことを、他人に対して出来るのでしょうか。



……….とはいっても、自分に対して「生きているだけで素晴らしいんだ」とは思えません。生きているだけで素晴らしい!幸せ!HAPPY!なわけないです。

ただ、「自分は生きていても良いんだ」という自信は欲しいです。
患者さんがその自信を持てるようにサポートしていくのが、医療従事者の役割でもあるのかもしれません。

毎日「死にたいなー」と現実逃避しつつ、本当は生きたいんです。
理想の自分と現実の自分のギャップにずっと苦しんでいるだけで……


なら理想の自分のハードルを下げてみよう!という話に移っていきますが、
長いことぼんやり生きてきて、理想の自分像すら忘れてしまいました。

私は何のために生きて、何のためなら死ねるのでしょうか……………
最後にこの話題について考えて、今日は終わりにしたいと思います。



『何のために生きて、何のためなら死ねるのか』


これは、ハーバード大学の教授がTech Supportという番組でお話していた内容の一部です。とても面白かったので、よろしければ下記のリンクからご覧ください。
ハーバードの教授だけど「幸せについて」質問ある? | Tech Support | WIRED Japan (youtube.com)


皆さんはこの質問に対してどうお答えになるでしょうか。


ひと昔の前の私なら、「恋人のために生きて、恋人のためなら死ねる」と言いそうですが、最近はそうもいきません。
恋人はもう、私がいなくても1人で十分生きていけるぐらい立派に成長していますから、もっと自分中心に生きても良いのではと考え始めています。
それに、その方が恋人のためにもなるとも考えています。



思い返してみれば、私が自分自身について考えるようになったのは高校1年生の時なので、約3年前になります。
高校生になってから一気に無気力状態になり、自分の状態を知りたくて精神医学の本を読んでは、自分なりに考えていました。
そして、大学受験が近付いていくうちに自分の進路について考え始め、精神医学をもっと深く知りたいなと思い、医学科を志望するようになりました。


ただ、私の自己紹介を読んでいただいた方はお気付きでしょうが、結局学力が足らず医学科は断念しました。ですが、それでも医療系の大学には行きたいと思い、共通テスト後に志望学科を看護学科へ変えました。

結局、無事大学から合格をいただけましたが、大学入学後から半年経ってこんな記事を書いている時点で笑えてきます。
なぜ私はそこまで医学科に執着しているのでしょうか。医学科をめざしていたのは、単に大人たちの機嫌を取るためではなかったのでしょうか。


私が今でも医学科を考えてしまう理由の1つに、「解剖図が好きだから」というものがあります。

大学入学後1番始めに、解剖学の講義がありました。
愉快な解剖学者さんからご教授いただいたのですが、その当時、講義を受けている時のわくわくどきどきしたこの気持ちを前にも体験したことがあったかもしれないと気付きました。

それが、中学生の頃に生物基礎の教科書に載っている図を見た時でした。
その図は人体の内臓がおおまかに描かれているものでしたが、その図を見た瞬間、変な言い方かもしれませんが一目惚れしてしまい、その図が乗っているページを開いてはどきどきしていました。
確かに高校3年生の頃も、解剖図を「美しいな~」と思いながら2時間ほど眺めていましたし、もしかしたら私はそういうものが好きなのかもしれません。

こういった自分の好きなものと、お仕事中に出会えたら幸せですよね。
ついつい、解剖学者や外科医、病理医などに憧れてしまいます。

これは少々サイコパスじみている気がしますが、医学科を考えてしまう理由はまだ他にもあります。




2つ目は、「看護師に向いていないかもしれない」と考えてしまったからです。

実は今月、とある病院へ研修させていただきました。(まだ何の技術も教わっていないため、ほぼ見学させていただいただけです)

そこへ私を含め3人で研修に行ったのですが、メンバー2人のコミュニケーション能力が高すぎて、私はうなずくことしかできませんでした。
それでも諦めずに何度も話しかけるよう心がけていましたが、非常に気まずかったことをよく覚えています。


もちろんどんな職種であれ、コミュニケーション能力があるに越したことはありませんが、患者さんの最も身近な存在として私が居てもお役に立てないどころが、距離が近いがゆえにいずれ深く傷つけてしまうかもしれないと恐れるようになりました。
私自身が傷つきたくないという思いから来ているのかもしれません。


とはいえ私は、患者さんと1番距離が近い存在になりたいわけではなく、どちらかというとそこから1歩引いたところで患者さんを支えていきたい派です。縁の下の力持ち的な立場が、私の特性を生かしやすい場所だと今は認識しています。
それをいったら看護師こそ縁の下の力持ちなのではないかと言われそうですが、まあ確かにそうなのですが…………………


結局は私がもっと医学的なことをやりたいだけです。
ケアよりもキュアをやりたい派なだけです。
両親の言動を見ていて、両親の脳はどのような形をしていてどんな風に働いているのかなと考えてしまうくらいです。
私はそういった機能面を気にしてしまう人間らしいです。
(眠い!何を言っているのか分からなくなってきました)

なので、看護学生としての実習が本格的に始まったらきっと、
治療面に特化したいと考えるようになるのではないかと推測しています。
その方が好きなことに近いので、長く続けられるかもしれません。


そしていずれは、今の自分自身の状態を正確に把握し、自分の力で治療できるようになりたいです。治療だけではどうにもならない部分が多そうな気がしていますが…………自分のことはできる限り自分でどうにかしたいです。

一時期通っていた精神科の病院で、先生の態度が素っ気なく感じられてから怖くて行けていませんでしたが、自分で自分自身の治療ができたら変に傷付かずに済みます。


自分は最大の敵であり、唯一の理解者でもありますから。
苦しい状況下にある時くらい、自分だけでも自分自身の味方でいないと。


私は、自分の中にあるこの違和感を大切にしたいです。
これが私の本当の声なのかもしれません。


私は、私自身の可能性を信じてみたいです。



それが出来て初めて、患者さんの可能性を信じられるようになるのかもしれません。




話しがだいぶ逸れてしまいましたが、
これまでの話をふまえて今の私なら「自分のために生きて、自分のためなら死ねる」と、ハーバード大学の教授の質問に答えます。

誰かのために生きようとしなくていいんです。
私はもっと、自分のために必死に生きるべきです。

それが誰かのためになるのかなどと、今は考えなくてもどうにかなります。
考えたところで病むだけです。




最後に

皆さんの貴重なお時間を使ってここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。


深夜に半分意識が飛んでいる状態で、淡々と思いついたことを書き散らしただけですが、ここでのつぶやきが何か皆さんのお役に立てれば幸いです。


私も今は穏やかな気持ちですが、明日には沈んでいるでしょう。
その時はよろしくお願いいたします。

またお会いしましょう。
















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