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終わりから始まる2010年代のポップスクロニクル 〜SEKAI NO OWARI『SEKAI NO OWARI 2010-2019』より〜

現在・22歳の音楽好きの私は、小学1年くらいから、色んなポップスを好んで聴くようになった。テレビで流れるヒット曲から、ラジオで流れた面白そうな曲とか、ジャンル問わずに様々なものに触れ続けていた。

私が小学1年となると、その年は西暦2005年だ。こんなこと言うのも、変なのだが、最近のテレビでやる「懐かしのヒットチャート」みたいなランキングでやる曲に、2000年代の曲も多くなった気がする。それを「懐かし」と括られてしまうのが、時に胸を締め付けてくる。私からしたら「この曲、リアルタイムで聴いてたのにな…」という気持ちになるからだ。それが、ひょっとしたら同世代とのギャップになったり、私の趣味が早熟過ぎたのかと感じたりする要因なのだが…

話がいきなり変な方向に転がりそうになったから、軌道を戻すのだが、2020年は個人的な印象として、アニバーサリーイヤーとなるアーティストが多い1年だったな、という肌触りを覚える。それは、例年と比べてベスト盤を買うことが多かったという感覚から、そんなことを感じていたんだと思う。どの作品のキャッチコピーにも「〇〇周年記念」という言葉をよく見たような気がするし。

私の年齢、そして経験論から言うと、「15周年とか10周年なんて、リアルタイムで聴いていたよな」というアーティストが、年々増えてくる。デビュー曲をなんとなくで聴いていたけど、翌年になると一気に話題になって、人気を拡大させた人たちを何度見たことか、なんて感じてしまう。

特に、そのアーティストのベスト盤を手に取った時なんか、そんなことを強く思う。今回取り上げるアーティストも、そんな感覚を与えてくる1組だ。

2021年、SEKAI NO OWARIがメジャーデビュー10周年を迎えた。今回は、そのベスト盤の話をしていきたい。

セカオワの10年間

今回レコメンドするベストアルバム『SEKAI NO OWARI 2010-2019』は、予定であれば2020年5月27日にリリースされるはずだったが、昨今のウイルス拡大により、販売が延期されていた。ウイルス拡大は、予定していた初のドームツアーの中止にまで追い込んでしまった。そんな5月から9ヶ月経った2021年2月10日、遂にベスト盤がリリースされた。

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これにより、元々「デビュー10周年」として活動する予定は、「メジャーデビュー10周年」という形で活動することに。彼らは、2010年にミニアルバム『EARTH』でインディーズデビューし、脚光を浴びた。その年の12月には
インディーズながら渋谷公会堂(当時、渋谷C.C.Lemonホール)でのワンマンライブの成功を収めていた。

翌2011年8月、シングル『INORI』でメジャーデビューを果たす。同年11月には、メジャーデビューから3ヶ月という速さで日本武道館公演を開催した。同じ月にリリースされた楽曲「スターライトパレード」は、ラジオを中心に人気を拡大させていた。

それ以降の歴史を語るのは、少し長くなりそうなので割愛しよう。彼らの人気が爆発し、現在の地位に至るまでの経緯は、周知の通りだ。

個人的な印象だが、今の20代前半から高校生の人たちは、彼らの音楽が青春を彩ったという人が多いのではなかろうか? 私は、中学の同級生にセカオワ好きの子が多かったというイメージを持っている。私が中学2年だった2012年に出たアルバム『ENTERTAINMENT』を持ってる友達は多かったし、翌13年に発表された楽曲「RPG」は映画のヒットも相まってテレビでひっきりなしに流れていた。私が初めて買ったセカオワのCDは「RPG」の初回盤だった。買って2年くらい経ったWALKMANにすぐに入れて、1日中聴いた記憶があるくらいに。

2014年、高校1年のときに、かの「Dragon Night」が大ヒットした。カーキ色のジャケットを着れば「ドラゲナイ意識してる?」みたいに言われるほど、その曲の浸透力は半端なかった。大学に入った2017年には、映画主題歌になった「RAIN」が話題となった。今までのファンタジー路線から一転した王道ポップスは、彼らの音楽がより幅広い層に浸透した印象を与えたのだった。

、、、というくらいに、私の成長や思い出を振り返ると、そこにはセカオワの音楽があったと言ってもいいくらいに、セカオワは私の人生を彩ってるような気がする。「〇〇のときに△△聴いたよね」といえるアーティストなんて、稀な印象を覚える。私のことを語るたびに、音楽が出てくるっていうことに、この10年間というものを思うのだった。

こんな思いがあるからこそ、ライブで観たときの嬉しさや感動は言葉にできないものだった。初めて観たのは、2019年に行われた全国ツアー・SEKAI NO OWARI TOUR 2019「The Colors」だった。曲ごとに思い出や印象深いことを思い出して、人生で最も涙が溢れたライブでした。

10年間の変化・音楽と拡散性

この10年間を思うと、日本のポップスの聴かれ方は大きく変化した。CDと配信が共存した(それでもCDがメインストリームだった)2010年と、定額制音楽配信サービス(サブスク)が主流となり、CDの売り上げが大きく傾く2020年。こういう聴かれるフォーマットの変化も見えるのだけど、時代により受け入れられる音楽というものも変化しているような印象を覚える。

2020年にヒットした音楽をここで一回振り返ると、YOASOBI「夜に駆ける」や瑛人「香水」など、サブスク発のヒットは多かったように思える。ただ、ここでいう「サブスク発」という言葉で、その音楽を括ってしまうというのは、なんかもったいない話に思えてくる。曲ごとを分析していくと、どれもヒットしているのだが、その方向性が多様に富んでいるということが見えてくる。

例えば、先ほどもあげたYOASOBIやyama、ヨルシカやずっと真夜中でいいのに。とかの音楽は、インターネット発という文化の中で発展したとみられるのだが、音楽をよく聴いていくと、曲の世界観がはっきりしているということが見えてくる。YOASOBIやヨルシカは典型的な例で、小説をもとに曲を作り上げるというフォーマットは、音楽としても楽しめる他、それを一つのストーリーとしても、世界観ごと楽しむという音楽の聴き方を提示したと言えるだろう。このような曲は、「世界観が面白い!」という声が多く、共有したくなるような魅力に包まれているように思える。

一方、瑛人やひらめ、優里や川崎鷹也といったサブスク発(どちらかといったらTikTok発と言うべきかも?)は、先ほどとは打って変わって、私小説的な音楽が印象的な歌詞が強いポップスと言えるだろう。こういう曲というのは、身近に経験するような景色が多く歌われていることから、共感を得ることが多いように思える。恐らく、こういうヒットというのは2021年も多く出てくるのではないかな、なんて思う。

こういう「サブスク発」という言葉の中には、このような独自性や親近性でを歌うものも多い一方、王道のポップスで勝負してヒットを生む人も多いということは言うまでもない。Official髭男dismやあいみょん、マカロニえんぴつや緑黄色社会といった人たちが作る音楽は、耳馴染んだバンドサウンドだったり往年のポップスを現代風にアレンジしたりと、いわば既存のポップスに独自性を絡めて話題を生む人が多いように思える。

こういう変化が多様的になったのは、2020年という1年になってから顕著に出てきたのではないかと思える。これは、NHK紅白歌合戦に選考基準の中に「サブスクのヒット」が加味され、あいみょんや米津玄師が初出場した「サブスク元年」と言えるような2018年以降、俗に言うメインストリームとアンダーグラウンドの境界線が取っ払われ、「いいものはいい」と言えるような曲の聴かれ方やフォーマットが成り立ったということだ。

個人的な肌触りだが(当時小学6年)、2010年はまだこの境界線というものははっきりしていたような印象を覚える。当時はまだ、ボーカロイドの初音ミクは今ほどの大衆権を得てはいなかったように感じるし、テレビに出ないようなロックバンドもアンダーグラウンドの代表格みたいな位置づけで、「好きな人は好き」という感覚がはっきりしたような印象を、私は覚える。

しかし、2010年のヒットチャートを見ていくと、メインストリームとアンダーグラウンドの境界線がなくなる伏線と言えるような要素は多かったように思える。SNSの多様化がそのキーワードとなる。YouTubeの日本国内での利用者の増加やTwitter、Facebookといったサービスの普及など、SNSというものは、2010年代を振り返るうえで、とても大きなキーワードといってもおかしくはない。

SNSというものがもたらした大きな要素は、拡散することが容易になったということではないだろうか?例えば、学校で「これよかったよ!」とか言って仲のいい友達やセンスのいい誰かから面白いものを知って、試してみるということが、小学生や中学生のときはあったように思える。こういうことって、かつては「口コミ」という形で人から人へと伝染して話題が広がっていった。

現在だと、そういう「口コミ」の要素はほぼほぼSNSで賄うことができる。誰かのTweetがいいねやリツイートといった形で可視化され、何が面白いのかハッキリと見え、自らの目の前に現れる。今でいう「バズる」ということは「口コミ」の要素に似た側面があると言えるだろう。

「共感性」と「共有性」

この10年間の音楽や社会的な変化の中で、顕著になったものがある。それは「共感性」と「共有性」が大きなキーワードが重要性を帯びてきたということだ。この2つは、今の音楽に共通する要素であるように感じられる。

まず、共感性というものから見ていこう。
音楽的に言うと、歌詞に関する側面が強いと言えるだろう。その例として、近年のカバー曲の話題をあげてみよう。

唐突にそんな話題を振ってしまったが、この10年間、特にこの2,3年ってカバーブームみたいなものが多い印象を覚える。中島みゆきや平井堅、スピッツといった70年代から2000年代の楽曲のカバーがここ数円顕著になった。多くのテレビ番組でも、「カバー曲特集」を組むなど、その勢いは衰えることはない。わかりやすい例を挙げるのなら、Little Glee Monstarがアカペラで平原綾香「Jupiter」や中島みゆき「ファイト!」のカバーをしたことや、宮本浩次や森内寛樹、Toshlといった男性アーティストがカバーアルバムを発表するといったことがある。

ここで「どうしてカバーというものが話題になるのだろう?」と私は疑問を抱く。私からしたら、その曲は本人が歌った音源や映像があるだけで満足なのに、なぜカバーが受け入れられてるのだろう?と疑問を抱いてしまった。

そこには、そのシンガーの歌唱力の高さという側面が大きくあるのだが、その基本的な要素として「曲自体に共感させられる」というものがあるんじゃないかなと考える。例えば、中島みゆき「ファイト!」は、リリースは1983年と、今から37年前のことであるのだが、その歌詞に描かれている葛藤や立ち向かう思いに、2021年という今にも通じる要素があり、多くの共感を生んでいる。似たような要素が、他のカバーにもある。太田裕美「木綿のハンカチーフ」をカバーした宮本浩次は、テレビ番組で「改めて聴くと、すごく切ない曲なんですよ」と、その曲に共感したことを語っている。

過去のヒット曲の再評価の中には、このような「改めて聴くと、良いな」と思うような側面が多い。そんな共感性というものが、カバー曲という形で表れているのではないかと思える。

近年のヒット曲にも、そんな側面は多い。上記にあげた瑛人「香水」にあるような分かれた人のことを思い出してしまう瞬間とか、あいみょん「ハルノヒ」にあるような心象風景みたいに、共感性が心を震わせて、音楽が届くという部分は、この時代においては大きいのではないかと感じる。

続いて、共有性というものを見ていきたい。
これに関しては、近年のライブシーンをじっくりと見ていきたいと思う。

2015年以降、ライブでの撮影OKというライブが多くなった。元々、海外アーティストのライブでは、公演中の撮影が容認されているケースが多く、スマホ片手にライブを楽しむ景色は海外(特にアメリカ・ヨーロッパ)では一般的なものであった。日本でも、その溶暗形を取り入れるアーティストも出てきた。浜崎あゆみやゆず、Mrs. GREEN APPLEなどの日本人アーティストも、ライブ時の撮影を許可している。その流れは、セカオワも同じである。2013年に行われたライブ『炎と森のカーニバル』以降、動画の撮影はNGだが、個人的な思い出として、公演中の写真撮影を許可している。

日本国内では、権利的な関係上、撮影を許可しないライブが多い。しかし、そんな中でライブ中の写真撮影を許可していることには、SNSでの拡散性というものが関係している。例えば、ゆずが2018年に行った全国ツアー『YUZU ARENA TOUR 2018 BIG YELL』では、撮影した写真に「#BIGYELL」とつけて、TwitterやInstagramに投稿することを推奨していた。ここには、ライブ時のエンターテイメント性の強さを楽しんでもらうことや、それを共有してもらい、アーティストの活動を宣伝してもらう、ひとつのコマーシャルとしての機能がそこにはあった。

ライブに限らず、SNSをもちいた楽曲の共有というのは、近年は多いのではないかと思える。例えば、アルバムのプロモーションとして、「〇日の△時にアルバムの1曲目を再生して、感想を投稿してください!」みたいな企画をするアーティストも多い。そこには、アルバムの宣伝と言う側面もあるのだが、楽曲の良さをファン同士で語り合うことができ、それにより盛り上がりを作れるという効果が生まれる。このように、作品を共有して楽しむという形は、SNSというフォーマットがあったから成り立つことかもしれない。ライブの写真を投稿してもらうことや、同時視聴でトレンド入りをしたりということは、SNSが持つ側面を活用したからこそなせる業だろう。

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(↑SEKAI NO OWARI TOUR 2019「The Colors」2019.08.09 静岡エコパアリーナ公演より)

このような、「共感性」と「共有性」というものが、SNSの拡大により、今の時代の大きなキーワードとなったというわけだ。

セカオワが歩んだ10年間

セカオワが10年間で生み出した音楽に共通していることって、この「共感性」と「共有性」の両立というものじゃないかな、と思える。曲の中に、自然とそういう側面を散りばめることができたから、今に至ったのではないかと思えるのだ。

初期からこの「共感性」と「共有性」の2つが、バンドの音楽には強く存在していた。「スターライトパレード」や「眠り姫」のようなファンタジーな世界観が共有を呼び、曲は多くの人に知れ渡った。

「共感性」というものは、初期の曲、特にアルバム『ENTERTAINMENT』の収録曲には多く存在するトピックなのではないかと思える。「天使と悪魔」の中にあるような正義と悪の価値観の問題や「Fight Music」にあるような挑む勇気だとか、そんな言葉の中に共感を覚える人が当時は多かったと思う。セカオワが当時話題になった理由のひとつに、そんな歌詞に投影される価値観に共有する人が多かったことがあるんじゃないかな、と思っていて。

一方の「共有性」は、2nd Album『Tree』で最も強くなったのじゃないかなと思う。大ヒット曲「Dragon Night」では、歌詞やメロディのキャッチ―さやMVでのファッションなどが注目され、セカオワ旋風と言えるような話題が巻き起こった。

音楽だけでなく衣装やイメージといった、曲の周りを取り囲む要素までプロデュースを図り、バンドは今まで以上に大きくなっていった。そこには、セカオワの4人が音楽の世界観やライブでのエンタメ性を総合的に演出し、作品を作り上げる側面を強めたといった理由がある。当時行ったライブやMVに独自性が濃くなったことがその要因だ。アニメ映画の主題歌になった「RPG」以降、MVにおけるアート性が強くなった。曲自体のヒットもそこにはあったのだが、そういった側面において、この曲はセカオワの新たな指針となったと言えよう。

前述にもあったように、この頃にはライブ中の写真撮影を許可しており、バンドの音楽やエンタメ性は、SNSを中心に広く拡散していった。こういった、MVやライブといった包括的な音楽活動において、セカオワは共有したくなる魅力を強めていったわけだ。

2019年に発表されたアルバム『Eye』と『Lip』の2枚とも、セカオワがこれまでに有してた共感するような言葉や共有したくなるような世界観がそこには織り交ぜられていた。聴いて前作と比べると、これまでにあった「共感性」と「共有性」がよりブラッシュアップされ、その中に普遍的なポップスという部分が強くなっていった印象を覚える。2018年の平昌オリンピックの放送テーマソングに起用された「サザンカ」や映画主題歌となった「RAIN」では、プロデューサーに小林武史を迎えている。これにより、バンドサウンドを超えたポップスとしての純度が曲の中で高まっていった。ポップス色の強い『Lip』は、ポップスとしての普遍性や音楽性の幅が広くなった様子が見られる1枚だった。このベスト盤では、「YOKOHAMA blues」や「イルミネーション」でその一部を堪能できる。

同日発売された『Eye』は、セカオワの持つダークな部分が際立った1枚となった。「LOVE SONG」や「ANTI-HERO」の詩世界や全体的な悪や正義の境界線をさまよう音像は、セカオワの真骨頂といってもいいはずだ。

ここで見ていくと... なんかセカオワが歩んできた音楽の道のりって、2020年にヒットに共通する要素がとても多いような印象を覚える。共感性と共有性の強さ、ポップスとしての純度の高さ... そんな要素が凝縮されたのが、セカオワの10年間の音楽だったように見える。セカオワの10年間が積み上げてきたものは、今はスタンダードとして、2020年のヒット曲に通ずる側面になっていったのだと思う。

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終わりから始まるバンドの歴史

このnoteを呼んでいる人には周知の事実かもしれないが、SEKAI NO OWARIはCDデビューを果たす前に、自らのライブハウス・club EARTHを作り上げ、そこでライブをして活動してきたバンドだ。音楽は、曲が作られ、そして人前で鳴らされて完成する生き物のようなものだ。

バンドを結成する人の多くって、自らの曲を作ることから始まることが多いような印象を覚える。その前には好きなバンドの曲をコピーしたりカバーしたりして、その後に「自分たちの曲を作ろう」と思ってオリジナルを作る、というイメージがある。そして、それを人前に立って歌う。そうして行き着く場所がライブハウスといったステージなのだ。つまり、バンドのひとつのゴールというものが、ステージであるように思える。組んで曲を演奏して、人前でライブをする。それが、よくある話に思える。

しかし、彼らは音を鳴らす前に自らのステージを作ってしまった。それって、パラドックス的なことと言われてもおかしくないような気がする。何故なら、ステージとはひとつのゴールであり、終着点。つまりは、終わりの場所でもあるわけだ。そこから、バンドが始まることには、言ってしまえば矛盾のようなものがある気がしてしまう。

ただ、セカオワは違った。バンド名にあったように、「終わりから始める」ということに、彼らは挑んでいった。このことは、今にも続くようなバンドの精神ではないかなと思えてくる。

2010年当時、アンダーグラウンドやメインストリームの違いや境目がはっきりしていた中で、2010年以降の音楽シーンはその境界線がゼロになっていた時代だった。タイアップを用いずとも、ヒットは多く生まれる時代になっていった。セカオワの歩んできた道というものは、その境界線がなくなっていく過程そのものであった。元々、アンダーグラウンドだった音楽がメインストリームになったように、セカオワの音楽にもそんな色を帯びていた。当時はやりだしたEDMを取り入れたり、ファッションやビジュアルイメージ全体をポップス市場というメインストリームで大々的にやり、多くの人たちを巻き込んでいった。このような、新しいバンド像や音楽スタイルを、セカオワは何もない場所から生み出していった。

終わりから始まった音楽は、新しい音楽となり、スタンダードとなっていった。セカオワが歩んだ音楽の歴史が、2010年代のポップスクロニクルに思えるのは、技術革新がそれを平行してもたらしたことと同時に、バンドの音楽が巻き込んでいったものにそんな側面があるように感じたからなのだ。

2020年代、サブスクという新しい世界線が主流になったシーンの中で、セカオワはどのような音楽で攻めていくのか? 10年後、知る世界はどんなものなのだろうか? ポップスクロニクルは終わらない。そんなことを、今までの軌跡を聴いていくと確かに感じることができる。

このベスト盤は、そんな1枚なのだ。

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