【親子 de ブログ】不登校を楽しむ!?SNS時代の母親の在り方とは。
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《ご挨拶》
こんにちは、寧々です。
このnoteでは…
【子供が不登校に直面した時どう楽しみながら回復していくのか】と
【母親が直面するたくさんの出来事】について書いていきます。
実際に不登校の悩みを持たれている方、不登校体験について興味のある方、子育てに生かしたい方に向けて、実際の体験をもとに、不登校の日々をどう明るく楽しく乗り切ってきたのかを記事にしました。
無料部分だけでも充分お読みいただける内容になっていると思います。少しでも、不登校の子育てに役立つことを願い書きました。不登校でない方にとっても、子育ての中で参考になる部分があると考えています。
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《ご注意・お読みになる前に》
長男に降り掛かったスクハラといじめ、母親が受ける辛い出来事についても書いてあります。
つらい気持ちになる可能性のある方は、読むことをお勧めしません。
『それでも読んでも良いよ』といってくださるかたには、お読みいただけたらと思います。
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《表記について》
本文中で使用する『母親』については、『母親=育てる人』と考えていただけましたら幸いです。しかし、経験上『母親=自分』でもあります。その矛盾はお許しください。
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☑読者様からの感想
丁寧な感想をありがとうございます!とても励みになります!
これからも、子育ての日々を頑張っていきます!
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《まえがき》
■ SNSで未来を拓く子供たち
ビジネスマインドを持ち、たくましく生き抜こうとする子供たち。彼らを見ても悲壮感はありません。リスペクトする人々から学び取り、自分のレシピを加えて未来をアクティブに切り拓いています。
彼らに触発されて親の世代も頑張ろうと思うことが多々あります。
■ 母親の未来も変化し続けている
急速に変化する子供たちの環境に母親も必死についていかなくちゃ、とスマホを持ち始めて9年。
・Twitter ・Instagram ・Facebook ・YouTube
・Amazon ・iTunes ・LINE ・Google
横文字の存在が当たり前になって、子供たちとの会話の中でも、常に登場するようになりました。Twitterが一番最初に始めたSNSだったのですが、その頃は子育ての大変な時期で、家庭に閉じこもって誰にも会わず、誰とも話さず。そんな生活の中で、唯一、外の世界を垣間見ることができる貴重な場所でした。
現在も実はあまり変わらない生活をしていますが、子供たちの成長とともに子供たちと情報共有することの大切さを感じています。
子供たちが関わる世界についていくために、自分も常に変化して、取り入れていくよう心がけています。
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《寧々家のスペック》
小学校3年生から不登校になった長男(現在高3)と現在不登校真っ只中の次男(中1)と寧々の3人暮らし。
写真が趣味のひとつでもある長男と母のコラボで今回の画像を撮りました。
時々現れる『ある日のメニュー』では、長男と次男が作ったごはんを主に載せています。
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《本文》
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■はじめに■
『不登校は辛く苦しい』という思いで受け止めることほど危険なことはありません。
もちろん、親は子供の不登校という突然の出来事に驚き、混乱しますが、不登校は現実です。
現実をありのままに受け止めていくしかありません。
その渦中で、不登校の子供を支える側は、どのように子供の回復の手助けをしていけば良いのでしょうか。
不登校には様々な段階があります。子供により、それぞれの時期の長さはまちまちです。大まかにまとめると以下のような流れをたどります。
1>行き渋り期
『行き渋り期』は不登校の始まりの時期です。朝起きられない、家から出られない、体調不良など、様々なうったえが始まります。中には、うったえること無く、なんだか様子がおかしいとだけ感じ、突然不登校になることもあります。
2>葛藤・混乱期
心理的な後退や倦怠などで生活が不規則になります。不登校になるまで頑張ってきた子供の心が一度崩壊した状態になります。
学校に行かなくてはならないけれど、行けない。という葛藤を繰り返します。
3>感情放出期
登校しなければという周囲の心理的要求に反発して、怒りを表すこともあります。
4>慢性期
つらい状態が少し落ち着き、外の世界との距離を認識して、外の世界に少し目を向けるようになります。
まだ心に葛藤が多く、見守る側は、子供が何に意識を向けているのかを知り、回復に向けて子供の回復の芽を探し育てる期間が続きます。
5>回復期
少しずつ外の世界に出られるようになり、短時間や少ない日数での学校への登校を再開できるようになってきます。
6>乗り越え期
学校生活や社会生活を再開しますが、不安定でもあります。完全に乗り越えるには長い時間がかかることもあります。
これらを踏まえて、それぞれの段階で子供を支えることが望ましいです。
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【1】不登校を楽しむってどういうこと?
『できないことはできない』と割り切り、
『どこに、どのように、回復していくか』を探し、
子供と一緒に考えること。
それが不登校を楽しむ考え方です。
■不登校を楽しめない時期もある■
不登校の始まりでは子供の心は窮地に追い込まれています。
『心が乱れ』『不安におちいり』『親や周りを恐れている』
そのことが原因で、通常の生活が送れなくなることがあります。
この段階でのテーマは『子供の退路を断つな』です。
【気をつけたい反応】
・体調不良の訴えや、明らかな心身の不調
・登校できず、原因も話せずふさぎ込む
そのような状態は放置せず、子供の様子をよく観察し、精神的に問題を抱えている場合は然るべき機関でカウンセリングなどを受けることをお勧めします。この際気をつけるのは、カウンセリングの現場で子供が再びハラスメントを受けないこと。合わないと思ったら、別の病院などを探しましょう。
不登校について、はっきりとした原因があれば対応し、無ければ子供のそのままを受け入れることが大切です。
不登校になりたての子供から、その状態になったのはどうしてかや、心の状態がどうなのか知ることができたなら、メモなどにして残しましょう。
【子供の不登校について】
・原因があるのか
・心理的なものか
・暴力を受けたのか
・原因が分からないのか
という部分が重要になります。
原因が分からないと話したとしても、子供は自分のせいだと思っていたり、恥ずかしいと感じていたり、また、親に心配をかけないよう振る舞うことがあります。注意深く観察し記録します。
精神的に追い込まれていることが分かる場合は、早い段階で信頼のおける医師を探すことをお勧めします。私は医師を選ぶ際には、すぐに診断を下したり、投薬のみに頼る病院を避けました。しかし、これについてはそれぞれのご家族で比較検討し、探してみて下さい。
子供は自分の状態に混乱し、大きな不安を抱えています。学校に行けなくなったことで自分を責めている場合もあるでしょう。だからこそ、育てる側も混乱し不安になりますが、子供のうったえを真剣に受け止め、寄り添って、解決の方法を探して行きましょう。
子供の逃げ場を作り、安心して過ごせるようにすることが大切です。
なにより、子供が安心して家庭で過ごすのに大切なのは、
『大丈夫だよ、よく言ってくれたね!』
などの、子供の状態や気持ちを受け入れる、母親(あるいは、父親)の愛ある言葉かけなのです。
■子供の不登校の楽しみ方■
『不登校だから楽しんではいけない』ということはありません。
『楽しんでよい』のです。
不登校になると、生活が激変します。周りの子供たちが普通にできることができない状態になります。それがゆえに、子供も見守る側も、引け目を感じて、外に出ることができなくなりがちです。
しかし、学校に行っていない時は孤独に引きこもって、落ち込んで暮らさなくてはならないのでしょうか。
そんなことはありません!
できないことに心を囚われて苦しむ時間は短いほうが良いのです。
『大丈夫だよ。今は休んで、できることを探していこうね!楽しもうね!』
この言葉は、折りに触れ何度でも子供に言って欲しい言葉です。
不安な時、子供は楽しむということを忘れています。楽しんではいけないと考えていることもあります。何度でも不安を取り除いてあげて下さい。
見守る側がどんと構えて、子供のありのままを受け入れ、その上で、楽しくなれることを一緒に見つけていってください。
【不登校を楽しむ・勝手に3ヶ条】
・『楽しんでいい』
・『人は人、自分は自分でいい』
・『勉強は自分のペースでいい』
親にとって勉強の遅れはとても気になります。勉強を遅らせたくなくて、何度も登校を促すのは、最初の段階では状態を悪化させると考えましょう。しかし、これは子供の精神状態と親の教育方針が大きく関係してくるところです。可能であれば登校刺激を続けます。
長男の時はこの段階で、無知な私は、学校や家族、親族の意向を聞き入れて、形だけの登校をし、大きな失敗をしました。本当に行けない時は、無理は避けましょう。
常に、子供の心の状態が最優先なのです。
不登校では困ると考える周りの意見は、二の次で良いのです。
人生での大きなつまづきの一つになりうる不登校。
大切なのは【子供が健全な心の状態で生きること】です。
不登校になっても、子供の心が健やかな状態に保たれ、未来を見て生きるちからを失わないことが大切なのです。
【不登校になりたての子供にかけたい言葉】
『あなたが大切だ』
『一緒に頑張ろうね』
『焦らなくていいよ』
見守る側が、自分の命をかけて寄り添う態度を曲げないことが、子供の心を救います。
子ども自身が、他人の意見に惑わされず、自分の意見を持って、選ぶ。そうすることで、自分を再構築し始めます。
不登校の始まりは、見守る側にとっても、不安でどうしたら良いのか分からない時ではありますが、子供の選択が人道的に間違っていなければ、行動をサポートし、子供の回復と成長の芽を育てていく役割を担いましょう。
■学校が全てだが全てではないということ■
義務教育の期間、たくさんの子供にとって学校へ行くことが生活のほぼ全てです。しかし、学校に行けない子供たちもたくさんいます。その理由も様々です。
学校に行けないことは罪悪ではありません。
学校に行けない子供の周囲の大人の言葉や態度が、子供を責めていると感じ取ると、子供は心を閉ざします。
子供を取り巻く大人たちにはそれぞれに意見の相違はあるとは思いますが、関わる全ての人が一貫した態度で子供への対応をし続けることが重要です。
・動けない日、辛い日は休ませる。
・無理に頑張らせない。
・『大丈夫だよ』を伝える。
もちろん、回復した後には、色々と大変だったり、頑張らなくてはならないことも増えるかもしれません。それでも見守る側は、子供には自分の決断に自信と責任を持てるように導く言葉をかけ続け、回復の種を蒔き、楽しむ機会を増やしていきましょう!
『学校だけが全てではありません』
不安でも、強がりでも、いいのです。子供の前で断言するだけです。
子供の心を救いましょう。
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⚫ある日のメニュー⚫
『お鍋 de グラタン』の日
ホタテ・マカロニ・キノコ・ブロッコリーでグラタンを作って食べました。チーズは偏頭痛持ちの母のために、大豆とココナッツオイルのものを使いました。
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【2】『不登校?だから!?』のマインドの大切さ!
無言の圧力。言葉の圧力。たらい回し。無視。
不登校になると、学校や公の機関、ママ友、家族、親族からたくさんの冷酷な態度を取られます。母親にとってその態度は『母親落第』を意味し、そんな態度に出会う度に、心が切り裂かれます。
■頑張って頑張って最後に小学校がくれたもの■
不登校が分かり、一週間だけ子供を休ませましたが、その後は、元配偶者、元義母の強制的な登校の要求や、学校などの要請により、母親同伴での登校が始まりました。小学校3年生から6年生まで日々学校へ親子で通いました。『おばちゃんは学校の人?』と聞かれるほどに。笑
本当によく頑張りました。
始めのうちは、長男は学校への不安感がとても強く、学校へ1ミリも入ることができませんでした。
【学校に足を踏み入れるまでにしたこと】
・校門を通ることができず、1ミリでも、1センチでも、と足を踏み入れるはたらきかけをする。
・一歩でも1センチでも、教室に足を向けるようはたらきかける。
・一歩でも1センチでも、教室に足を踏み入れるようはたらきかける。
初めのうちは、長男は他の大人を拒否していたので、母親の言葉しか届きませんでした。
登校再開当初から保健室登校をしていましたが、状態が悪く、学習させても、途中で泣き叫びながら大きな机の下に身を隠したり、背後から大人が近づくことを恐れ泣き叫ぶなどの異常な行動の連続。その行動に対応できるのは母である自分だけ。
心が折れそうでした。
それでも、毎日、学校へ通う努力は惜しみませんでした。
間違った努力でした。
この時に子供にとって本当に必要だったのは、休ませることだったのに……。
色々なアレコレを頑張って、ついに小学校の卒業式の日。体育館の2階で私は長男と卒業式を見る予定にしていました。そういう話し合いを学校としていました。
しかし、自分はおそらく、都合よくあしらわれていたのでしょう。
長男の不登校と、不登校になった理由が発覚した当時の前校長の後を引き継いでいた校長。人柄が悪そうには感じない人でした。しかし、学校・教育委員会の関係者です。卒業式当日は市長が来賓として来ることになっていました。
誰が発案者かは分かりません。
卒業式開始の一時間ほど前に言い渡された言葉に驚きと困惑が浮かびました。
『欠席ですと言います。それで良いですか』と。
同じ空間に居るのに、です。
子供の存在が消された瞬間でした。
長男に問うと『それでいい』と言ったので、了承しましたが、消された子供の存在が悔しくて、私は卒業式に参加することはできませんでした。
決断までの時間を短くすることで、親に反論させない鮮やかさ。
完敗です。
毎日毎日、知恵をしぼり命をかけた結果が、これか。と、悲しみしかありませんでした。
そう言えば、父親(元配偶者)は卒業式に来なかった。なぜだったのかしら。
■頑張ったから最初に中学校がくれたもの■
中学の入学式では、小学校の卒業式での事情を聞き対応に疑問を持ってくださった校長先生のご判断で、名前を呼んでいただくことができました。返事は無くてもあっても良いですよ、と。
子供の存在が復活した瞬間でした。
卒業式も同じように、ご対応いただきました。
感謝しかありません。
中学の校長先生は、素晴らしい方で、子供の特性に合った外部のボランティアの方を引き合わせてくださいました。
この頃から、子供の状態が少しずつ改善したと感じています。
今でもその方とは交流があり、これから先の人生でも、子供自ら交流を続けてくれることを願っています。
高校を卒業し進学することが決まった長男。長男の特性の芽を育てるチャンスを与えてくださったことに心から感謝しています。
■不登校?だから!?■
子供が不登校になった時、多くの場合母親が子供に寄り添います。
その中で、相談する先で母親が虐待を疑われたり、無能のレッテルを貼られたり、そんなことが普通に起こってきます。
子供のことを相談をする時に関わる機関については、不登校の原因の重要度によって変わります。下記のような人々や組織の関わりが発生します。
・スクールカウンセラー
・スクールソーシャルワーカー
・児童相談所
・警察
・教育委員会
・病院
などなど。
どこを訪ねても、最初に向けられるのが『学校行けないのは、母親のせいなんじゃないの?』という態度で接してくる人々の心理と視線です。
その心理と視線を母親は感じ取り、自信を喪失していきます。
母親自身も、家族や親族も、その他の関わる人々も忘れがちですが、母親と子供は一つの存在ではありません。別々の存在です。
母親を責め立て、自分達に被害が及ばないように守ろうとする周囲の態度は、母親、更には子の心を傷つけます。
【母親を傷つける周囲の状態】
・元配偶者や、元義家族の無理解。
・学校関係者への不信感。
・周囲の人々の冷たさ。
私はこれらに晒されることで、人を信じることができなくなり、周囲の人間に対しては完全に『笑顔』を消しました。1ミリも笑えなかったし必要を感じなくなりました。
唯一子供の前でだけ、口元を微笑ませていました。
『不登校?だから!?』のマインドで、不条理に立ち向かうのです。
始めはハッタリで良いのです!笑
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【3】不登校で心が歪むことも…その理由はなに?
不登校におちいった子供がだんだんと心を病むのは、肯定されない自分の状態に不安をつのらせるからとも考えられます。
だからこそ周りの大人からの言動には注意が必要です。
■それでいいんだよと言わないから迷う■
学校に行けないことに否定的な重圧を感じたり、心身が不調で前向きになれない時、子供の心は迷います。
『このままではいけない、でもできない』
学校に行ってほしい周囲の態度や心理状態はダイレクトに子供の心に届きます。でも、どうしても子供は学校に行くことができません。
不登校の初期段階では特に、子供に掛ける言葉は慎重に選びましょう。
不登校の子供の周囲の大人が忘れてはならないことは、
『あなたの決断を尊重します』
という心構え。
子供に対して、それをちゃんと言葉にして伝え続けることです。
■正解がわからないから悩む■
親にとっても、子供にとっても『不登校のままで良いのか』は答えの出ない問題です。また再び通えるようになるのか。もう通うことはできないのか。
それゆえに、『どうしたらよいのか』という気持ちが常に心に重くのしかかり、見守る側と子供の精神を蝕みます。悩ましい状態です。長く続けば続くほど、落ち込んだまま、子供も親も引きこもりがちになります。
しかし、その時その時で、変化しながらも、答えを導き出し続けるのです。
・今の状態はこうだから、それでいい。
・このまえとは変化したから、今はこうしよう。
子供に寄り添う一人の大人が、子供と対話し、子供が自分で答えを見出せるような言葉をかけて、一緒に考えていきましょう。
■辛くてもその選択が正解でいい!■
繰り返しになりますが、不登校の状態は本人もそうですが、家族にとっても辛いものです。
でも、行かないと選択するしか無かったならば、それが『正解』なのです。
子供が自分で答えを見出して、心を楽に保てるように、
『こうしなければならない』
という観念を取り去って、心を自由にしてあげて下さい。きっと、その先に、新しい世界が拓けます!
不登校をすぐに受け入れることは難しいかもしれませんが、できないことを追いかけず、できることを探してみて下さい。
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⚫ある日のメニュー⚫
『シーフドカレー』の日。
グラタンでホタテが美味しいことに気づき、カレーにも入れてみました!
辛目のカレーの方が、シーフードには合うのかな?
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【4】不登校を恐れる必要はない!
学校へ行くことは、そうするのが当たり前で大勢の人たちができること。
それができなくなることは、子供にとって、とても強いストレスになります。
それは何故か。
できなくなったことを知りながら、できるように周りが要求するからです。
強制的に教室に戻すことも一つの選択肢です。それで耐えられる状態ならその方法がベストです。
どの方法を選ぼうと、それぞれが正解です。
教室に戻すには、当然ながら、教室が子供にとって、安全であることが大前提です。
■不登校は一つの状態に過ぎない■
不登校は長い人生の中の一つの状態にすぎません。確かに、学校に行けなくなったという事実は当初、見守る側にも子供にも、不安感と絶望感を生みます。
その思いは時間の経過とともに、諦めになり、その諦めの時間が過ぎたあとには、別の何かを探そうという気持ちを生み出せるようになります。
焦る気持ちや、なかなか回復しないもどかしさで時には冷静ではいられなくなることもありますが、その気持ちをこらえて淡々と進む先に、長い長いトンネルの出口が見え始めるのです。
子供の好きなこと、できること、やってみたいこと、興味の持てること。それらを見出だせる行動を子供に選択させて行きましょう。
大切なのは、不登校の状態であることを忘れるくらいに好きなものを探すということです。
・写真や動画を撮る
・絵を描く
・パソコンを知る
・勉強をする
まずは好きなことならなんでも、ほんのすこしでも挑戦してみるのです。
好きなことができると、子供は自分でそのことについて調べ始めます。
言葉を理解し➡新しい知識を得➡行動し➡結果を得る
最高のルーティンではありませんか。
学習自体が滞っていたとしても、子供が好きなことを伸ばす過程で身につけていくスキルは、長い目で見ると、専門的な分野を獲得できる可能性を秘めているのです。
■不登校は豊かさのきっかけづくり■
好きなことが見つかり、一日の大半の時間を費やせるようになったら、だんだんとその『好き』をグレードアップさせていきます。
時々、状況を確認しながら、なにか必要なものはあるか、分からないことはないかを子供のスピードに合わせ聞き出します。
そのうちに、子供自ら、今やっていることを教えてくれるようになります。
心に余裕を持って、子供が自分から話す言葉を見つけたときには、『うんうん』とゆっくり、じっくり、子供の言葉を聞きましょう。嬉しくてお母さんも思わず笑顔になりますね!
次の目標が決まったら、子供と一緒に必要なものを探したり、揃えたり、できる限りでしていきます。
■生活力を身につけることの大切さ■
不登校になってしばらくは、なかなか生活が整いません。
でも、つらくて何も手につかない時期を乗り越えたら、少しずつ子供の目を生活に向けて、小さなことから始めていきましょう。
自分の生活を自分の力でできるようになることが最終目標です。
・清掃
・せんたく
・炊事
・買い物 ……などなど。
買い物は『対人』が入るので、最初は難しい場合があります。
身の回りのことから始めてだんだんと外へと目を向けさせます。
【我が家では5歳から包丁を持たせる=料理に参加する】ことをしてきました。不登校になってからも、落ち着き始めた頃から料理を再開しました。
小さなことから始めて、一つの料理を完成させるまで、たくさんのことを考え、実行しています。
料理することも先ほどと同じように、ルーティンに当てはめられます。
作るものを決め➡買い物に行き➡材料を切り➡調理し➡食べる➡おいしい
最高のルーティンです!(^^)b
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【5】不登校の時こそお母さんが楽しく!美しく!
心痛が重なると、母親は自分のことはおろそかになります。
が………。
お母さんも、楽しんで良いのです。キレイでいましょう。子育て以外の何かを楽しみましょう。
そんな気にはなれない。そう思うのは当然です。私も、数年間、現実に押しつぶされて楽しい気持ちにはなれませんでした。
不登校の始まりには、自分の時間が無くなったり、心が揺らいだりすると思います。でも、子供の状態が落ち着き始めたら、自分だけの時間を少しでも取るようにして、気持ちの全てが子供のことで埋め尽くされないようにしてみてください。
例えば、スキンケアだけは続ける、とか。美容院に行く、とか。好きなことをやめずに、楽しみましょ!
■ヒトカラ歌いまくりました。100点とれんけど■
私が長男の不登校の間に得た楽しみは、【ヒトカラとSplatoon】でした。
【ヒトカラ】は自宅の子供のゲーム機で、子供が学校の保健室にいられるようになってから、15分、30分、1時間と離れられるようになってから、いつでも迎えに行けるように待機していた時期の、小さな時間つぶしと気分転換の方法でした。
歌が大好きな私には、採点して結果を見ることができることは、とても楽しいものでした。
初めのうちは、一曲歌えば迎えの電話が来ていましたが、そのうちに歌える曲の数が増えました。いつ電話で呼び出されるか…。状態が悪くなっていないか…。子供が離れた時にどうなっているだろうかと、心配な気持ちがおおきかったのですが、歌っている間は気になりながらもやり過ごすことが簡単になり、悩み多い時間を少しでも『無』で居るために役立ちました。
通院のために片道5時間以上、一日の拘束時間が15~17時間の運転の間、思い悩まないために歌を歌っていました。現在は眠気予防です♪
【Splatoon】はインクを泳ぐイカのゲームですが、流動的な参加者の心理を推理し、裏をかくことができたり、裏をかかれたりがとても楽しかったです。楽しすぎて、少し依存傾向でしたが、これもまた、判断力と自分の感情を感じることができる面白さがありました。瞬時の判断だけでなく、イカだけに、イカりを表す訓練になりました。笑
■『子供とお母さんは別のひと』と心得る■
子供と母親は別々の人と人です。
にもかかわらず、刷り込みのように子供と母親をセットで考えて取り扱われることばかりで、精神的に追い詰めらることがたくさん起こりました。
母子分離のためにも、それを唯一しないでくれたのが、現在通っている病院でした。子供の受けているカウンセリングの内容について説明されることはなく、母親にとって心に負担のかからない状態で通院することができています。
家庭や親族との関わりの中でも、母親と子供を一つで考えて投げかけてくる言葉を切り捨てました。子供たちとの日々の生活と休日については、父親は一緒に遊ぶことはあまりありませんでしたし、ワンオペ育児で幼少期から母子が離れづらい環境で過ごしていましたので、言葉かけには注意を払いました。
それでも、やはり、周りの人々には、不登校になったのは母親のせい、なのです。受け入れがたい問題です。
子供と母親は、別々の存在です。
■辛くても淡々とお母さんの人生を生きる■
自分の子供が安心して過ごせるはずの学校で回復し難いつらい体験をし、子供の心が壊れた時、母親の心には、深い悲しみや不安、喪失など、色々なものが湧きあがってきます。
スクハラやいじめに遭って、笑顔が消え、正気を失った我が子を前にした時、最初に思ったのは『産み直してあげられたらどんなにいいか』という思いでした。
恐怖や絶望を学校という一番安全でなくてはならない場所で味わい続けた子供の気持ちを思うと、辛くてたまりませんでした。
しかし、大学のカウンセリングルームに通い始めてすぐの頃、初雪に両手を広げて笑顔を見せた長男。本当に久しぶりに消えていた笑顔を見せた時、得も言われぬ喜びの感情が湧いてきました。
『待て。希望は子供の中に残されている。もうすこしだけ、あそこまで行こう』
私は絶望という考えを改めました。
『少しだけでも進めば良いんだ。絶対に諦めない』
そんな言葉が胸の中に浮かびました。
それでも、まだまだ感情も揺らいでいる自分がいます。
このことで、母親の心の回復の大切さを知りました。
『お母さんが元気が無いと、子供の元気が無くなる』
という大嫌いな言葉の意味をようやく理解したのでした。
ちょっとした目先の意味に捉えていましたが、もっと広く、大きな意味で理解しなくてはならない言葉だったようです。
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⚫ある日のメニュー⚫
『大きな野菜のカレー』の日。
でっかい具が美味しい!(^^)b
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【6】子供とハイヒールでサッカーしよ!
我が家はずっとワンオペ育児でした。それがゆえに、次男は大変な時を常に母親と長男と一緒にすごして来ました。保育園の年中の頃の不登校の始まりのことを今でも覚えています。
一人では年齢の差がある次男の求める遊びをしてあげることがどうしてもできませんでした。長男は当初精神的に非常に不安定で、家を出ることができず、私から離れることもできませんでした。
次男は外に出て遊びたい。でも、叶わない。
それが年単位で続くのです。
長男を優先するしかない時期でしたが、今でも次男には本当に申し訳なく思っています。
■兄弟が一緒に過ごすためには■
長男が自宅から出られない時間が続くと、次男の心が次第に荒れていきます。年齢差が大きい分、始めのうちは素直に理解しようとしてくれていましたが、長男が中学校に入学後、小学校2年生の次男に、4月から7月ごろまで行き渋りがありました。
これはおそらく、毎日小学校に兄とともに母親も登校していたために、中学校へと行ってしまった私と長男に、学校に一人取り残されたような気持ちになったのではないかと思っています。
毎朝次男に同行しての登校をしていくうちに、次男なりの解釈で落ち着いて、夏休み前には自力で行けるようになるまで回復しました。
この出来事は母親にとっては子供が二人同時に不登校になるのではと、精神的な負担感は大きかったです。不登校の子供を中学校と小学校両方抱えることは、やはり避けたかったです。
誰も助けてくれない状況での一人での完全なワンオペ育児。
次男の行き渋りが始まって、数日朝の同行を手伝ってくれて、父親として行動してくれるのではと少し期待もしましたが、そのうち関わろうとしなくなり、子供たちの準備など、大変な時間帯でも起きて来ること無くなりました。
元配偶者は私たち母子を次第に無視するようになりました。
中学校に入ってからの長男は小学校の時とは違い、不安定さが増してだんだんと状態が重たくなって行きました。
が、負けてはいられません。助ける気のない人々を心の中からどんどん切って、捨てていきました。つまり、私の中では元配偶者も同じでした。
『一人でやりきってやる』
そんな思いが私を動かす原動力でした。
次男は友達が欲しいタイプの子で、自宅には毎日のように友達が来ました。長男がずっと自宅にいましたが、良い友達で、ちゃんと受け入れてくれていました。
次男は小学校5年生になってからサッカーを好きになり、毎日友達とするようになりました。休日には友達は習い事などで遊べなかったので、母、長男、次男で公園などで一緒にサッカーをするようになりました。長男は参加すると言うよりは、その場に居る、という感じからのスタートでした。
父親はサッカー経験者でしたが、ほとんど一緒にしたことはありませんでした。
次男と私で夕食の買い物に行こうと家を出たのに、広場でサッカーがしたいという時には、代えの靴も無く、スカートにハイヒールでサッカーをすることもありました。
そのうちに長男も参加するようになって、最近では長男と次男がボールを蹴り合うことも増えました。
現在はサッカーだけでなく、自宅で過ごすときにも、子供のように(まだ年齢的には子供ですが)ふざけ合っている姿を見ることができるようになりました。
■子供と子供が過ごせるようになること■
兄弟の中で一人が学校に行かない状態で有る時に、もう片方は頑張らなくてはならなくなるわけですが、我が家もそうでしたが、長男の不登校からの回復が終わる頃、次男が不登校になりました。
来るべきときが来たんだなと思いました。
だからこそ、
『長男は休ませて、次男は無理やり連れて行く』
ということは避けました。
兄弟への対応に差をつけたくはありませんでした。次男が学校へ行けないと言った最初こそ、やはり、混乱し、ショックで数日立ち直れない状態になりましたが、対応を同じにするべきだという考えが初めからあり、その思いに従いました。
確かに不登校になった経緯は長男のほうが深刻で、回復が難しいほどの痛手を受けました。しかし、次男は長男の不登校の始まりから、理解できないことを理解せざるを得ず、遊びたくても遊べず、たくさんのものやことを我慢して来ました。だから、私の中では、兄弟二人が同じように被害を受け、同じように苦しい思いをしたのだと考えています。
それゆえに、短時間で次男の不登校を受け入れました。
この時期に離婚したことも、要因にあるかもしれません。
ある日のドライブで次男が言いました。
『パパは嫌い』
その言葉について、なぜそう思うのかを聞くと、私が仕事でいない休日や買い物で外に出ているとき、私が自室に居るときなどに、父親からの高圧的な言葉掛けを何度も受けて居ると告白してきました。正直驚きでした。私が居るときにはそんなふうでは無かったからです。
それからは注意深く父親を観察し、私が自宅にいて離れているときにどのような言葉をかけているのか聞くようにしました。その中で、何度も馬鹿にしたり、きつい言い方をしていることが分かりました。私は次男と父親は仲が良いのだと思っていました。大きな勘違いでした。
次男への高圧的な言動を父親にやめるよう何度も言いました。しかし、いっときは収まっても、またすぐきつい物言いが始まるようでした。
『長男には言わないのに次男にきつく言ったら、嫌われてると子供は思うよ?』
なんだと、という反応を返されましたが『本人がそう感じているよ』と伝えました。
父親は長男には言葉掛けの表現に気をつけるよう何年もかけて何度も言って来たこともありきつい口調で話すことはありませんでしたが、次男には辛くあたるなどを繰り返していたのでした。全くもって信じられないことでした。
離婚後すぐに次男が不登校に入り、不安の中で私、長男、次男での生活が始まりました。
長男は高校3年生になり、進学を決めなくてはならない重要な一年です。
次男は中学校へ入り、ようやく私も自分のすべきことができる!そう思った矢先のことでした。
もちろん、長男の不登校の経験があるとは言え、次男が不登校になることが分かったときには、少なからず心が混乱しました。
保護者である私の不登校を受け入れるまでの時間が短かったことと、長男とともに通院でのカウンセリングをできるように病院にご配慮いただいて、次男は週1回1時間の登校再開までがとても短く、意欲的に登校しています。
今では兄弟二人がそれぞれの距離感を保ちながら、家庭の中で、それぞれに自立しながら生活しています。
次男は、不登校についてはっきりした原因が分からないようでした。
不登校の最初の頃は、次男は何かを言われることをとても恐れているようでした。ちょっとした学校に関する私の言動に、泣いたりしていました。
その姿をみて『早目に腹をくくらねば』と思いました。
私は、早急に自分の気持ちを整えて、ひとつにしました。
それから、
『今は休もう』
『自分の中でできる範囲を決めて、自分でコントロールしたらいいんだよ』
と表明し、次男が自分の力で回復していってくれることを祈りながら、日々援助し続けています。
長男と次男が一緒に居られる時間もそんなに長くはありません。だからこそ、同じ屋根の下で、子供と子供が互いを尊重し、仲良く笑顔で暮らすことは、本当にありがたく嬉しいことです。
家の中で、自分について何を言われるのかビクビクと怯える必要もありません。対話することを重視する生活は、きっとこの先の子供たちの人生にはプラスになると信じます。
■穏やかな生活を取り戻す■
子供たちが互いに不安を感じず、穏やかに暮らすことは、本当に大切なことであり、子供たちが不登校から回復していくための一つの段階として、必須です。
毎日の暮らしの中でできることを増やしながら、楽しむ。
とても大切なことです。
そうしていくことで、子供たちが自分の未来に希望を持ってくれることを切に願います。
今では、長男も次男も、食事を自分で作れるようになり、洗濯も掃除も自分でするようになりました。大きな回復を遂げています。
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⚫ある日のメニュー⚫
『ホットドッグ』の日。
焦げたけど、美味しかった!(^^)w
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