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【つの版】ウマと人類史:中世編13・契丹西夏

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1004年、契丹と宋は澶淵の盟を結び、宋が契丹へ毎年絹や銀を贈るかわりに両国の間に平和が訪れます。ここらで契丹国についてもう少し詳しく見ていきましょう。

◆カネで買った◆

◆平和◆

契丹五京

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『遼史』地理志によると、大契丹国/遼朝には五つの京がありました。すなわち上京臨潢府(内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)、東京遼陽府(遼寧省遼陽市)、南京析津府(燕京、北京市)、中京大定府(赤峰市寧城県)、西京大同府(山西省大同市)です。各々は広大な道を統括し、その下に6府・156州(軍/城含む)・209県・52部族・60属国がありました。東西は海(日本海)から金山(アルタイ山脈)まで、南北は白溝から臚朐河(ヘルレン川)にまで及び、万里に渡って広がる大帝国でした。

 上京臨潢府は太祖耶律阿保機が皇都と定めた場所で、918年に築城され、938年に上京臨潢府と改名されました。ここは契丹の本土であり、かつての烏桓の地で、シラムレン(潢水)に臨むことから臨潢府の名があります。管轄範囲(上京道)はモンゴル高原全体に及び、23の州に分けられました。

 東京遼陽府はかつての遼東郡襄平県で、遼東公孫氏が拠点としました。のち高句麗・唐の支配を受け、安東都護府は平壌からここへ移されています。919年に契丹が東平郡を置き、928年には渤海の故地に建てた東丹国の都を、天福城/忽汗城(渤海国の上京龍泉府、黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)からここに遷して南京としました。東丹国は渤海遺民を多数抱えており、しばしば反乱して自立しています。938年、南京は東京と改められ、遼陽府が置かれます。東京道には遼陽府・黄龍府(夫余府/忽汗城)の二府があり、マンチュリア全土の10州を管轄しました。要はもとの渤海国の地です。

 937年、燕雲十六州を獲得した遼朝は、翌年幽州(北京)を南京幽都府と改めました。チャイナ本土から見れば北京でも、モンゴル高原からは南京です。1012年に「燕は天の星宿でいう『析木之津』である」として析津府と改められます。南京道はもとは燕雲十六州一帯を統括していましたが、のち西京が分割され、6州11県を管轄することになりました。安禄山も都を置いたこの都市は、チャイナとマンチュリア・モンゴリアの結節点として重要であり、金・元・明・清から中華人民共和国に至るまで首都が置かれています。

 中京大定府は1007年に赤峰市南部の寧城県に建設された都市で、西遼河の支流ラオハ・ムレン(土河)の北岸にあり、北には七金山(九頭山)、西には馬盂山がありました。中京道は凌源市・朝陽市・承徳市を含む遼西地方の10州9県を管轄しており、もとの奚(庫莫奚)の地です。契丹と同種族であった奚族は、この頃にはほぼ契丹と同化していました。

 1044年、聖宗の子・只骨(興宗)により雲州が大同府に昇格し、西京となりました。これは1038年に夏国(西夏)が宋から独立して君主が皇帝を称したのち、1044年に宋と和議を結んで契丹と戦ったため、西方の防備を固める必要があったからです。西京道は現在の張家口市・大同市・朔州市・ウランチャブ市・フフホト市にまたがる1府2州9県を管轄し、かつての鮮卑拓跋部による代国の領域に相当します。南は宋、西は西夏と接する要衝です。

南北両面

 匈奴から鮮卑・柔然・突厥・ウイグルに至るまで、モンゴル高原の騎馬遊牧民の帝国は漠北に首都を置き、東はマンチュリア、西はアルタイや天山を支配しましたが、契丹の領域はかなり東南に偏っています。発祥地の赤峰市を離れることなく東西に拡大したためこうなったのですが、南は北京・大同など長くチャイナ側であった地域・都市を含んでおり、渤海国も狩猟農耕民や都市定住民が多数を占めていました。五胡十六国や北魏はこうした状態を管理するため、遊牧民と定住民を別々の法律で統治する体制をとりました。

 契丹もこれを真似、遊牧民には北面官が古来の法律を適用し、定住民には南面官が唐の制度を模倣した法律を適用しました。北面官の大于越府(のち北枢密院)は軍事・政治の両権を握る最高機関で、南面官は軍権を持たず、定住民は遊牧民の支配下に置かれることになります。しかし千年を超えるチャイナの文化・文明は遊牧民にとっても魅力的で、人口的にも少数であった契丹の皇族や貴族は急速に漢化(チャイナ化)し、尚武の風を失っていったのです。渤海国も西暦700年頃から200年以上繁栄し、その前の高句麗まで遡れば千年にも及ぶ文明国ですから、契丹の歴史が長いと言っても文化の蓄積は足元にも及びません(高句麗が楽浪郡を接収した313年から数えれば700年ぐらいですが)。

 こうして文明国となった契丹ですが、国内には多数の異民族を抱えていました。漢人・渤海人は言うに及ばず、マンチュリア中北部には靺鞨北部の女真ジュルチン、大興安嶺北部にはモンゴルの先祖の室韋がおり、モンゴル高原にもウイグルやクルグズの残党が中小の部族連合を作って群雄割拠しています。契丹の統治はこれらに羈縻支配を及ぼした程度で、五京や国境周辺以外の支配権はまだまだ緩いものでした。

西夏建国

 目を西へ向けてみましょう。宋と契丹の間に、西夏という国が出現しています。これは唐代に出現したタングート(党項)というチベット系の民族が黄河中流域に建てたもので、いまここを「寧夏」というのは「夏を安寧にした」というチャイナ的な視点からの命名です。

『旧唐書』西戎伝の党項羌条によると、彼らは漢代の西羌の別種です。魏晋ののち西羌は微弱となり、チャイナに臣属したり山野に逃げ隠れたりしていましたが、北周が宕昌鄧至といった羌族の小国を滅ぼしたのち、党項が始めて強くなりました。その境界は、東は松州(四川省アバ・チベット族チャン族自治州、青海地方の南隣)、西は葉護(突厥の西域を統治するヤブグのことか)、南は舂桑・迷桑などの羌族、北は吐谷渾(青海地方)に接し、東西三千里に及んだといいます。チベット高原北部、崑崙山脈にいたのです。

 彼らは拓跋氏を諸部族の長とし(鮮卑拓跋部の支族とされますが、本当かどうかは不明です)、犛牛(ヤク)・馬・ロバ・羊などの牧畜を行って生活していました。遊牧はせず土着定住していますが、家屋も衣服も牛尾や羊毛から作り、農耕を行わず、他国から大麦を求めて酒を作る程度です。気候は甚だ寒く、夏5月(新暦6月)にようやく草が生え、秋8月(新暦9月)には霜雪が降ります。習俗は武を尊び、法令や文字や賦役(税)はなく、互いに掠奪し、仇討ちを行わない者は体を不潔に保ちます。同姓では婚姻しませんが父子兄弟が死ねばその配偶者を娶り、死者は火葬し、老人が死ねば寿命だとして哭泣しません。

 北周や隋には従ったり朝貢したりしていましたが、629年に唐の招きを受けて朝貢し、酋長たちに州の刺史の印綬を授けて羈縻支配を施しました。634年に唐が吐谷渾を攻撃した時、吐谷渾王の娘婿の拓跋赤辞が降伏したので、唐の太宗は彼を西戎州都督に任命して李姓を賜いました。のち吐蕃が盛んになると圧迫されて分散し、赤辞は部族を率いて唐の慶州(甘粛省慶陽市)へ移住し、平西公に封じられました。吐蕃では彼らと残党を弭藥(ミニヤク、服属した者たち)と呼んでいます。

 党項の諸部族は次第に増え広がり、20万人あまりにもなって、今の寧夏やオルドス地方へ住み着きました。安史の乱の時、吐蕃は彼らを誘って唐に背かせ、寧夏や長安を脅かしています。799年、党項は夏州(楡林市統万城)を征服し、そこに住み着いた者は平夏部と名乗りました。党項は遠近の商人を招き寄せて絹や羊・馬の交易を行い、富み栄えるようになったのです。

 なぜここを夏州と呼ぶかというと、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃が夏国を建て、首都をここに置いたためです。匈奴は上古のチャイナの王朝であるの淳維の末裔とされたため、国号をそう名付けたのでしょう。

 黄巣の乱が起きると、拓跋重建の子・思恭は唐を支援して功績を上げ、夏国公に冊立されて夏州節度使を拝命し、李姓を賜いました。その子孫は定難軍節度使・夏国公・西平王として夏綏銀宥静の五州を支配し、唐が滅ぶと後梁・後唐・後晋・後漢・後周・宋から冊立を受け、半自立政権を保ちます。

 982年、宋が五州を返還するよう彼らに求めたため、節度使李継捧の族弟李継遷は契丹と手を組んで反宋活動を行います。契丹の聖宗は彼を定難軍節度使、夏綏銀宥静五州観察使、特進検校太師・都督夏州諸軍事に冊立し、宋を北から脅かしました。1002年に李継遷は宋の霊州(銀川市)を攻め取って西平王に冊立され、霊州に西平府を置いてオルドスから河西回廊に至る領域を支配します。しかし宋側の吐蕃族の首領・潘羅支の攻撃で大敗を喫して負傷し、1004年に息子の徳明を後継者として逝去しました。

 徳明は宋と遼の両国に臣従して冊立を受け、1032年まで30年近く在位して国を安定・興隆させました。1005年には宋より毎年銀1万両・絹1万匹・銅銭2万貫・茶200斤を受け取ることを条件に和睦しています。

 子の元昊は即位すると宋からの独立を宣言し、唐から賜った李姓、宋から賜った趙姓、北魏系の拓跋姓を棄てて「嵬名」という新たな姓を名乗りました。また名を「曩霄」と改め、1038年には自らを世祖始文本武興法建禮仁孝皇帝と号し、建元して天授礼法延祚元年とし、国号を「大夏」、首都を興慶(銀川市)とします。やたらとキアイが入っていますね。宋はこの政権を西にいることから「西夏」と呼びました。

 李元昊あらため嵬名曩霄は、宋から離反して契丹と同盟し、契丹と同じく非漢人の王朝であることを強調するため西夏文字を作りました。まだ完全には解読されていませんが、漢字や契丹文字を変形させたものらしく、漢人を意味する文字は「小+虫」という差別的な形です。宋は彼らの侵攻に手を焼きますが、西夏も宋からの交易品が停まったせいで経済的に立ち行かず、1044年に和約します。これにより、宋と西夏は君と臣とされ、宋は毎年銀5万両、絹13万疋、茶2万斤を贈ることになりました。また契丹はこれに乗じて宋に領土の割譲を求めましたが、宋は毎年の絹と銀を10万ずつ上乗せすることで和約しています。

 いくら宋がカネモチといえど、契丹と西夏の両国への毎年のミカジメ料はバカにならず、両国に対する防衛のための軍事費もかさんできます。騎馬遊牧民が万単位の騎兵を動員できるのに対し、定住民は数こそ多けれ練度の低い歩兵が多数ですから、正面からぶつかれば騎兵に勝てません。そこでカネを支払って平和を買い取り、文明国として科学技術を発達させ、火薬兵器などを開発して対抗せざるを得なかったのです。

 火薬は唐代のチャイナにおいて、おそらく煉丹術の副産物として発明されました。850年頃の『真元妙道要路』には硝石・硫黄・炭を混ぜると燃焼や爆発を起こしやすいことが記述されています。そしてちょうど1044年、曾公亮らが官撰軍事書『武経総要』を著して黒色火薬の製法を公表しています。この頃の火薬兵器は投擲して火災を起こさせるもので、火炎瓶や手榴弾の先祖にあたり、投石機(砲)で城や船の中へ投げ込むという大砲やミサイルめいた運用法も既に行われています。この技術はモンゴル帝国によって西洋へ伝来し、世界には火器の時代がやってくるのです。

◆THEE MICHELLE◆

◆GUN ELEPHANT◆

 こうして、西暦1000年代のユーラシア東部には契丹・宋・夏の三国が鼎立し、緊張を含みつつも一応の平和が訪れました。ではその頃、中央ユーラシアや中東・欧州はどうなっていたのでしょうか。

【続く】

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