見出し画像

【つの版】倭国から日本へ02・継体と百済

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦507年丁亥、倭国の大王に越前出身の傍系王族である男大迹(ヲホド)王、すなわち継体天皇が即位しました。彼は現在まで続く皇室の直系先祖であり、雄略天皇亡き後混乱していた倭国を受け継ぎました。その治世はどのようなものだったのでしょうか。『日本書紀』継体紀を読んでいきます。

◆王◆

◆朝◆

百済人の返還

日本書紀巻第十七 男大迹天皇 繼體天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_17.html

継体2年(508年)10月、武烈天皇を傍丘磐杯丘陵に葬ります。12月、耽羅(済州島)が初めて百済と国交を通じました。

三年春二月、遣使于百濟。[百濟本記云「久羅麻致支彌、從日本來。」未詳也。]括出在任那日本縣邑百濟百姓、浮逃絶貫三四世者、並遷百濟附貫也

継体3年(509年)2月、倭国は百済へ使者を派遣しました。『百済本記』によると「日本(倭国)から久羅麻致支彌(車持君、関東の上毛野氏の分家)が来た」とあります。彼が派遣されたのは「任那の日本(倭国)の県邑で、百済の百姓(人民)の逃亡者や戸籍のなくなった者(絶貫)を三世、四世にまで遡って調べ、百済に送り返す」ためでした。

西暦509年から4世代(120年)遡ると389年です。391年辛卯年に倭国が韓地(朝鮮半島南部)に進出し、任那(弁辰)を中心として大勢の倭人が住み着いてから120年が経過していました。「任那の日本の県邑」とは在韓倭人の集落で、混血者や百済など周辺諸国からの逃亡者も暮らしていたのです。

任那日本府」と日本書紀に書かれたものは「任那倭国府」ないし「任那倭府」で、こうした在韓倭人の権益を保護し、時に軍事力を行使して近隣諸国と交渉を進めるための倭国の出先機関でした。併合して王家を取り潰して総督府を置いたのではなく、今で言えば在韓米軍基地と米国大使館を合わせたようなものです。当時は国際法や人権など知ったことではありませんが、あまり阿漕なことをすれば交易や国交に差し障りますから公平さは必要です。

そこから「在留百済人やその子孫を百済へ送り返す」などということをしたのは、百済と倭国の協議によります。百済は高句麗に敗れて国力が半減していますし、倭国は国内がごたついていて半島にまで手が回りません。そこでこうした措置を行い百済の国力を回復させたのですが、在韓倭人社会では在留百済人を失って混乱が起き、倭国の権益はさらに減少しました。

継体4年(510年)は記録がなく、継体5年(511年)には河内楠葉宮(大阪府枚方市)から山背筒城宮(山城国綴喜郡、京都府京田辺市)に遷都します。京田辺市は枚方市と東西に隣り合っており、少し東へ遷ったに過ぎません。北の京都盆地、南の奈良盆地、南西の河内平野の中間地点にあり、木津川や巨椋池を通じた内陸水系は琵琶湖にまで繋がっています。

任那割譲

継体6年(512年)4月、穗積臣押山を百済へ遣わし、筑紫国の馬40匹を贈りました。4世紀末に半島から馬が移入されて130年が経過し、倭国でも馬を飼育するようになっていたのです。12月、百済は返礼の使者を遣わしますが、この時上奏して「任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県を譲り受けたい」と要請しました。

これらはほぼ全羅道の栄山江流域で、昔の馬韓の南部です。この地域には、倭から伝来した前方後円墳が分布しています。東の任那加羅(金官国)や弁韓(慶尚南道)とは離れていますが、倭国の力を借りて弁韓諸国がこの地に勢力を広げたのでしょう。

押山は哆唎国守でしたが、この時こう意見を述べます。「この4県は百済に近く、日本(倭国)とは遠いため、百済に賜るのが最善です。我が国が併合すると将来危ういでしょう」。重臣の大伴金村らも賛同したので、物部麁鹿火を遣わして難波館にいる百済の使者に伝えさせました。ただ麁鹿火の妻が強く反対したため、別人を遣わして使者に伝えたといいます。この事は国内に不満を引き起こし、「大伴と穂積は百済から賄賂を受け取ったのだ」という噂が流れるほどでした。

継体7年(513年)6月、百済は将軍の姐弥文貴と州利即爾を遣わし、穂積押山に副えて五経博士段楊爾を贈りました。また別に上奏して「伴跛(はへ、慶尚北道星州)国が私の国(百済)の己汶(こもん、全羅北道南原市)の地を略奪しました。どうか元に戻されますように」と要請しました。11月、姐弥文貴は新羅・安羅・伴跛の使者らを伴って朝庭に来たので、己汶と滞沙(たさ、慶尚南道河東郡、蟾津江河口部)を百済に与えました。伴跛国は使者を遣わして珍宝を献上し、己汶を乞いましたが許可しませんでした。そこで伴跛国は武力をもって奪還を図ります。

継体8年(514年)3月、伴跛国は各地に城柵を築き、狼煙台や武器庫を設置して日本(倭国)との戦いに備え、兵を率いて新羅を攻撃しました。継体9年(515年)2月、姐弥文貴らの帰国を送るついでに物部至至連らを派遣します。至至は沙都嶋(巨済島)を経て、水軍500を率い滞沙に入りましたが、4月に伴跛国の軍勢が来ると大敗し、汶慕羅島へ逃走しました。姐弥文貴らは新羅北部を経て百済の首都熊津へ帰っています。

継体10年(516年)5月、百済は人を派遣して至至を己汶に迎え、多くの財物を与えてねぎらいました。9月、百済は至至を送って使者を(倭国に)遣わし、地を賜ったことを感謝すると共に、段楊爾に替えて漢高安茂を五経博士として贈りました。また高句麗の使者も百済の使者に付き添われて来朝し、友好関係を結んでいます。

要は百済が倭国の許可を得て全羅道の各地を併合し、この地域に権益のあった加羅諸国との間に紛争が生じたわけです。前方後円墳があったぐらいですから倭人も多数住んでいたはずですが、それを大胆に百済へ割譲するとはどうしたことでしょうか。前には任那の百済人を百済へ返還していますし、継体と重臣たちが百済へ大きく肩入れをしているのは間違いありません。賄賂や五経博士が欲しかったとかでは説明がつかない規模です。

衰弱したはずの百済が死に物狂いで国力を回復させ、軍事力で倭国を蹴散らして圧力をかけたのでしょうか。しかし倭国と百済はこの後も親密で、663年には倭国が百済を救援に遠征したほどです。あるいはまさか百済系の人物が倭国の中枢を占め、母国を支援するためにこのようなことをしたのでしょうか。つまり継体や中央豪族は…そしてその子孫は…百済人だった…?

百済をプロデュース

ということでもなさそうです。というか、そうなら百済側が誇らしく「倭国の王は百済人だ!」と記述したり、朝貢先のチャイナへ説明したりしないのはおかしな話です。新羅も高句麗もそんなことは言っておらず、チャイナの史書にもそのようには書かれていません。新羅などは逆に「脱解王は倭国の東北から流れ着いた」と書いている始末です。今日び「天皇は○○人だ!」とかいう人はアレな人ばかりで話になりません。

倭国内にも百済人は渡来帰化していたでしょうが、越前など日本海側は百済系より新羅や弁韓系の人々が渡来しやすく(対馬海流があります)、但馬に定住したアメノヒボコは新羅王子ですし、敦賀に上陸した都怒我阿羅斯等は意富加羅(大加羅)国の王子です。近江にも若狭にも多くの渡来帰化人のコミュニティがあったでしょう。そして広い視野を持つ人物ならば、倭国がこのまま韓地に拠点を持ち続けることが危険だと気づいたはずです。

韓地に渡った倭人や豪族たちは土着・混血し、各国の傭兵や将軍となって権力を振るう者も多くいました。彼らは倭国の命令に必ずしも従順ではなく、あるいは独立して三韓の王たらんとしました。各地の豪族たちも、韓地からもたらされる財宝や人材に目がくらみ、倭王をないがしろにするようになったでしょう。雄略天皇のようにパワフルな王ならともかく、若い王や傍系の王はどうしたってナメられ、治天下大王どころではありません。チャイナの天子が賜る将軍号も所詮は虚名です。

そこで継体や大伴金村・穂積押山らは、調子に乗りすぎた在韓倭人や加羅諸国、新羅・高句麗を抑えるため、百済を支援し友好関係を深めることにしたのです。百済は高句麗に北半分を奪われて衰弱していますから、倭国から人的・領土的な支援を受ければ大いに喜びますし、海を渡って南朝梁から先進的文物を運び込み、せっせと倭国へ贈って謝礼としてくれるでしょう(これは弁韓や新羅には不可能です)。そのために思い切って全羅道を割譲し、その南の耽羅と結ばせ、梁への航路を確保させたわけです。

倭国が遠くから直接この航路を維持管理するより、すぐ近くの百済にアウトソーシングしてやらせた方が安くつきますし、防衛費用もかさみません。百済が高句麗や新羅・加羅・倭国との戦いですり潰されれば、倭国は高句麗と直接対峙しなければならなくなります。また百済から「朝貢」として海外の先進文物や人材が贈られてくれば、倭国の大王の国内外における権威も高まります。百済が友好国になれば、新羅や加羅諸国も百済に抑えられて倭国王に従い、韓地は安泰というわけです。「損して得取れ」とはこのことです。

こういう「広がりすぎた領土を現地住民に委ねて朝貢国とする」というやり方は、がやっています。漢の武帝は朝鮮・満洲・越南・西域などへ大きく領土を広げ郡県を設置しましたが、あまりに辺境の郡県は維持管理が困難で防衛費用もかさみ、武帝の崩御後に放棄されました。居残った漢人は現地住民と混血し、漢の友好国を築いて漢と交易します。辰韓・弁辰はまさにそうして真番郡の跡地に成立しましたし、高句麗や嶺東の濊、沃沮も玄菟郡・臨屯郡の跡地に形成されたもので、遼東郡や楽浪郡に貢納していました。継体天皇はこのやり方を知ってか知らずか真似たわけです。これはその当時の国際状況でたまたまうまくいっただけなので、現代に当てはめて「だから○○にも譲歩しろ!」とか言っても、うまくいくかどうかつのは知りません。

「ご先祖様が戦って勝ち取った領土を他国に与えるなんて」と不満が出るのは仕方ありませんが、この現実的な外交政策により、百済は倭国に心底感謝して本当の友好国となり、せっせと貢物を贈るようになりました。武寧王が倭地の加唐島で生まれたから「斯摩」というのだとの伝説は、こうした友好関係から生じたと思われます。武寧王もこの「ゆかり」を気に入っていたようで、チャイナへ朝貢する時は漢名を「餘隆」としました。斯摩に隆という意味があるとすれば、海の中に隆々と聳え立つ「島」のことでしょう。

百済とのゆかり

継体7年(513年)8月、百済太子の淳陀(じゅんだ)が倭で薨去しました。彼は百済の武寧王の子で、倭国に人質として送られていた人物でしょうが、『三国史記』には記録がありません。彼の子孫は倭国に帰化し、倭史(やまとのふみひと)として文書記録(史)を司る氏族となったといいます。

7世紀末に倭国が日本国と改名し、8世紀に倭を改めて和としたため、倭史氏は和史氏となります。和史乙継の娘・新笠は天智天皇の孫である白壁王の宮女(側室)となりますが、白壁王が770年に皇位を継いだ(光仁天皇)時は「蕃人」として皇后に立てられませんでした。しかし772年、皇后の井上内親王は「天皇を呪詛した」との嫌疑をかけられて廃され、彼女が産んだ皇太子も廃されたため(なんらかの陰謀を感じますが)、新笠が産んだ山部親王が皇太子となります。ただし新笠は778年に「高野朝臣」の氏姓を賜り夫人とされたものの、最後まで皇后とはされませんでした。781年に光仁天皇が73歳で崩御し、山部皇太子が即位する(桓武天皇)と「皇太夫人」とされ、790年に薨去して「皇太后」を追贈されました。桓武天皇の子孫は現代まで皇室として続いており、桓武平氏や源氏などの名族もみな桓武の、すなわち高野新笠の血を引いています。淳陀から高野新笠までの系譜は定かでなく、百済王家の子孫であるというのも箔付けの後付かも知れませんが(秦の始皇帝や漢の霊帝の子孫より有り得そうですが)、事実としてそうです。なお和氏も朝臣カバネを賜り、桓武朝には外戚として出世しましたが、その後はパッとしていません。その程度の「ゆかり」です。

これら半島関係の記事に勾大兄皇子(安閑天皇)に関する歌物語が挿入されていますが、匝布(佐保)の屯倉の起源譚に過ぎません。

Map_ofThe_east_barbarian_1 - コピー - コピー

継体12年(518年)3月、都を山背筒城宮から山背乙訓宮(京都府長岡京市)に遷しました。京田辺市や枚方市より北、丹波国の入口となるあたりです。やけにちょくちょく宮居を変えていますが、中世欧州では「移動王宮」と言って国王が宮廷を全部率いて領内を移動し、行く先々で裁判や徴税を行ったといいますから、それよりはマシです。これから4年は空白です。

『梁書』百済伝によると、梁の武帝の普通2年(521年)、百済王餘隆(武寧王)が使者を遣わしました。そして「高句麗を重ねて破り、今始めて(梁と)通好します。百済は改めて強国となりました」と上表しています。武帝は餘隆を都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王に冊立しました。

普通二年、王餘隆始復遣使奉表、稱累破句驪、今始與通好、而百濟更爲強國。其年、高祖詔曰「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守藩海外、遠脩貢職、乃誠款到、朕有嘉焉。宜率舊章、授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王。」

継体17年(523年)5月、百済の武寧王が薨去しました。彼の陵墓は忠清南道公州市(熊津)に存在し、墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と刻まれています。また棺材は倭地で古くから棺材とされたコウヤマキで、日本列島にしか自生しないため倭国から贈られたものと考えられ、百済と倭国の蜜月関係を物語ります。

跡を継いだのは太子の明(餘明)で、諡が聖であることから聖明王と呼ばれますが、諱を呼ぶのは失礼なので聖王と呼ぶべきでしょうか。この間に倭国で何が起きていたかは記録がありませんが、弔問の使者や即位祝賀の使者が送られたことでしょう。普通5年(524年)には梁へ使者が送られ、餘明は使持節・都督百済諸軍事・綏東将軍・百済王に冊立されています。

◆友◆

◆好◆

大和遷都

継体20年(526年)9月、都を山背乙訓宮から大和磐余玉穂宮に遷しました。507年に河内楠葉宮で即位してから、511年に山背筒城宮、518年に山背乙訓宮と遷り、在位20年目にようやくヤマトに宮居したわけです。このため「この間はヤマトに別の対立倭王がいた!」という説もありますが、別に倭王が必ずヤマトに宮居しなけりゃならない法もありません。河内に宮居して陵も河内にある仁徳天皇もいるではありませんか。

奈良盆地は大伴氏や物部氏、巨勢氏ら重臣の地盤ですから彼らに任せ、まず日本海と瀬戸内海を結ぶ水路を整備するのが重要視され、ヤマトに入る理由が薄かったものと思われます。対立的な豪族もいたかも知れませんが、ヤマトは倭王の父祖興隆の地で武烈がいた地ですから、そろそろ入ってみるか程度のことでしょう。ここまでの継体の治世で、反乱の記録はありません。

こうして継体は百済を利用する外交政策で王権を強め、倭国を見事にまとめ上げました。しかし継体21年(527年)、九州で事件が勃発します。「磐井の乱」です。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。