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【つの版】ウマと人類史:中世編33・日本遠征03

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1274年(文永11年/至元11年)陰暦10月、モンゴル・高麗連合軍は日本へ侵攻し、対馬・壱岐・肥前を蹂躙して博多湾に上陸しました。しかし鎌倉幕府の武士団の必死の抗戦によりすぐに撤退します。モンゴル皇帝クビライは諦めず、再び日本遠征を行おうとします。

◆鋼◆

◆戦◆

南宋平定

 日本への使節派遣や遠征は、宿敵である南宋を平定するにあたり、牽制を行うことが主な目的でした。日本と南宋は古来友好関係にあり、多くの宋人が日本へ亡命して反モンゴル活動を行っていたことは明らかですから(南宋朝廷がまるごと日本へ亡命する可能性すらあります)、どこへ逃げても無駄だ、大人しく軍門に下れと威圧することは必要でしょう。

 実際、1274年にはバヤンを総大将とする南宋討伐軍が破竹の勢いで進軍しており(このコトワザも晋が呉を征服した時の故事ですね)、襄陽から長江中流域の拠点都市を次々と陥落・降伏させています。南宋は重要拠点である鄂州の漢口(武漢)に艦隊を集めて防ぎますが、バヤンは騎兵を上流から密かに渡河させて背後を突き、艦隊を敗走に追い込みます。さらに9月には呂文煥を使者として派遣し、鄂州を降伏させました。

 バヤンはクビライの指示により、むやみに敵を殺傷せず、降伏した者を寛大に扱い、自決した者も鄭重に葬らせました。このため南宋では抵抗する意欲を失い、軍隊や住民は続々とモンゴルに降ります。高麗や日本でもそうすれば早かった気はしますが、こうしたプロパガンダ活動も戦争の手段です。孫子の兵法にも「戦わずして勝つ」のが一番だと書かれていますね。

 1275年、南宋の宰相・賈似道は毎年の貢納と引き換えに領土の返還を求めましたが、バヤンは拒否します。ついに賈似道は水陸13万の兵を率いて出撃し、軍事力を背景に最後の交渉を行います。バヤンは副将アジュとの協議の末、南宋との和議を拒絶し、そのまま進軍しました。

 陰暦2月、両軍は現安徽省銅陵市義安区の丁家洲で対峙します。南宋の船団2500艘は長江を埋め尽くさんばかりでしたが、バヤンは左右から騎兵を進ませて陸軍を牽制し、長江の両岸から「砲」を南宋水軍めがけ発射させました。おそらく樊城と襄陽を陥落させたミサイル兵器「回回砲」です。「砲声震百里」ともいいますから、日本遠征の時に使用された火薬入り擲弾「てつはう/鉄炮」や、初期の大砲であったかも知れません。

伯顔命左右翼万戸率騎兵夾江而進、砲声震百里。(元史・伯顔伝)時已遣騎兵夾岸而進、両岸樹砲、撃其中堅(同・阿朮伝)

 その威力や轟音に恐れをなした南宋軍は動揺し、撤退を開始して総崩れになります。アジュたちは追撃して敵船に乗り込み、南宋水軍の軍船の大部分を鹵獲しました。この大敗北で南宋はもはや抗戦能力を失い、賈似道は敗戦の責任をとって漳州(福建省)へ流刑に処されたのち、9月に殺されます。バヤンはいったん進軍をとめ、占領地の安定化につとめたのち、11月に進軍を再開し、常州・無錫・湖州は次々に降ります。1276年1月、南宋の都・臨安(浙江省杭州市)は無血開城し、宋朝は滅亡しました。960年の建国から316年後、1127年に南宋となってからは149年後のことです。

 時の天子・趙㬎はまだ5歳の幼児で、賈似道の死後は母の全皇太后、祖母の謝太皇太后が実権を握っており、降伏も彼女らの意志によるものでした。クビライは彼を殺さず、大都や上都に招いて養育させましたが、高麗王のように娘婿として南宋国を存続させることはしませんでした。彼は1323年に自害を命じられるまで47年も生かされ、恭順したことからと諡されています。しかし南宋の遺臣らは、彼の兄である幼い皇族の趙昰・趙昺らを担いで福建へ逃れ、なおも抵抗を続けました。

 福建・広東などに残党はいたものの、南宋は1276年に事実上滅亡します。クビライは彼らの追討を命じるとともに、日本遠征計画を再開します。

使節斬刑

 1275年(至元12年乙亥、日本の後宇多天皇の建治元年)2月、クビライは礼部侍郎の杜世忠を正使、兵部侍郎の何文著を副使とする使節団を日本へ派遣します。計議官としてウイグル人の撒都魯丁サドルッディーン、書状官としてウイグル人の果、通訳には高麗人の徐賛が同行しました。彼らは対馬や博多に上陸することを避け、4月に長門国室津浦(山口県下関市)に上陸しますが、逮捕されて大宰府へ送られ、沙汰を待つことになります。

 8月、鎌倉幕府執権・北条時宗(25歳)は五人を鎌倉へ連行させ、処刑しようとします。一族の北条義政は「和睦の道もある」と諌めますが、時宗はこれを却下し、9月7日に龍口たつのくちの刑場で斬首しました。彼らは日本の国情を偵察に来たスパイとの説もありますが、クビライは彼らが処刑されたことも知らず、遠征計画を進めます。9月には使者を高麗に派遣し、高麗から対馬を経ずに日本本土へ直接渡る航路を調べさせ、10月には高麗へ戦艦の修理築造を命令、11月には矢の増産を命じています。しかし重臣たちの反対もあり、まず南宋を平定することにしました。

 1276年1月に臨安が降伏し、南宋がほぼ平定されると、クビライは南宋の旧臣らに日本侵攻の是非を尋ねます。范文虎・呂文煥らはみな「討伐すべきです」と答えましたが、耶律楚材の孫・希亮はこう進言します。「宋と遼・金は三百年も戦い続けました。いま戦争はようやく終わり、人民は休息することができたのですから、あと数年待ってからでも遅くはないでしょう」。クビライはもっともだと思って遠征を取りやめたといいます。

 北条時宗は、これに対し「こちらから高麗に攻め込もう」という遠征計画を立て、北条実政を「異国征伐大将軍」に任じて九州へ下向させます。そして建治2年(1276年)3月を期して遠征を行おうとしますが、費用が莫大で反対意見も強かったことから中止され、異国警護を中心として防塁構築を行うこととなりました。

 これは「石築地」と呼ばれる石垣で、田一反につき一寸の割合で賦役が課され、高さと幅は平均2m、総延長は福岡市西区今津から東区香椎まで20kmあり、海側を切り立たせ陸側に傾斜させた形でした。現在もいくらか残っていますが、大部分は江戸時代に福岡城を築造する際、石垣用に再利用されています。実政はその後も九州に駐在し、御家人たちを指揮しました。

昔里吉乱

 日本や南宋の残党にとっては幸運なことに、この頃クビライは西方の反乱に悩まされることになります。クビライは皇后チャブイとの間に長男ドルジ(早世)、次男チンキム、三男マンガラ、四男ノムガンを儲けましたが、チンキムを1273年に皇太子とし、マンガラを安西王に封じて京兆(長安)に住まわせ、陝西・四川・甘粛・寧夏・チベットを統括させ、ノムガンを北平王に封じてカラコルムに住まわせ、モンゴル高原を統治させました。

 ノムガンはクビライの末子ですから、父の家産を相続し宗廟を祀る権利と義務を有しています。しかしチンギスの末子トゥルイが帝位を継がず、トゥルイの末子アリクブケが兄クビライと帝位を争って敗れたように、帝位を継承できるわけではありません。クビライはチンキムを皇太子としたのですから、これに逆らえば討伐されます。またモンゴル高原はモンゴル帝国の本土で創業の地ではあるものの、肥沃な漢地や中央アジア、イランに比べれば人口も少なく、勢力争いをするには不利ではありました。

 とはいえ帝国全土から敬意を払われる名誉ある地位には違いありません。また彼にはカイドゥ率いるオゴデイ・ウルスや、内紛が相次ぎ当主が並立しているチャガタイ・ウルス、強大なジョチ・ウルスに睨みをきかせる重要な責務がありました。トゥルイの子孫のうちモンケ家やアリクブケ家も反クビライ家で団結する可能性は高く、責任重大です。

 カイドゥは1270年にチャガタイ家のバラクを、1272年にニグベイを始末した後、ブカ・テムルを擁立してチャガタイ家の当主としました。またバラクの子ドゥアとも和解したため、アルグの子チュベイとカバンらはクビライのもとへ亡命します。クビライは彼らに河西回廊西部の敦煌付近を領地として与え、マンガラの指揮下に入らせました。

 1275年、クビライは皇太子チンキム、安西王マンガラ、北平王ノムガンらに命じてカイドゥ討伐を行わせ、輔佐として宰相のアントン、クビライの庶子ココチュらを派遣しました。ノムガンはカラコルムを進発してアルタイ山脈を越え、チャガタイ家の本拠地であるイリ川流域の都市アルマリクを制圧しますが、ここで大事件が勃発します。

 ノムガンの遠征軍には、モンケ家やアリクブケ家などクビライ政権に反抗的なモンゴル皇族が多く含まれていました。トゥルイの庶子ソゲドゥの子にトク・テムルという者がおりましたが、彼はアルマリクに駐屯している時、モンケの子シリギに「ノムガンとアントンを捕縛し、あなたをカアンに推戴しよう」と持ちかけます。さらにモンケ家のサルバン、アリクブケ家のヨブクルとメリク・テムル、コルゲン家のウルグタイら諸王を抱き込み、同年冬に反乱を実行に移しました。反対した王族のヤクドゥも捕縛され、反乱軍はシリギをカアンに頂き、クビライに反旗を翻します。

 首謀者トク・テムルは、ノムガンをジョチ・ウルスへ、アントンをカイドゥへ引き渡して協力を要請しますが、彼らは中立を保ち、援軍を派遣しませんでした。しかしトク・テムルは彼らが呼応したとフェイクニュースを流してオゴデイ家やチャガタイ家の諸王を誘い込み、カラコルムを占領した上、ヘルレン川上流部のチンギス・カンの宗廟を掠奪しました。チンギス以来の天命・正統はモンケ家のシリギ・カアンにあり、と宣言したわけです。

 事態を重く見たクビライはモンゴル高原へ派兵し、南宋征服を成功させたバヤンを総司令官として派遣しました。1277年にはコンギラト部のジルワダイがシリギに呼応して挙兵し、兄のオロチンを捕縛してシリギと合流しようとしますが、クビライは次々と討伐軍を派遣してこれらを撃ち破ります。日本遠征に従事した洪茶丘もこの時シリギ討伐に駆り出されました。

 特に活躍したのがジョチ・ウルスからもたらされたキプチャク人とアスト(オセット)人の騎兵部隊で、クビライは彼らを編成して親衛隊を作り、モンゴル諸王との戦いに投入しています。彼らは騎馬遊牧民ではあってもモンゴル人ではなく、本国やもとの部族から遠く離れたマムルーク的存在であったため、皇帝直属の精鋭部隊として自由に活動できたのです。

 キプチャク人部隊を率いるトトガクの功績はめざましく、敵を追撃してオルホン河畔で大会戦となり、捕虜となっていた諸王のひとりヤクドゥが内部から反乱軍を撹乱したためもあり、クビライ(大元ウルス)軍が大勝利を収めました。1278年にはアルタイ山脈を越えて攻め込み、イルティシュ川流域まで反乱軍を駆逐します。さらに反乱軍は内紛を起こして自壊し、首謀者の多くはクビライを恐れてカイドゥのもとへ亡命しました。1280年にトク・テムルが殺され、1282年にはシリギも捕縛され、同年にノムガンがジョチ・ウルスから帰国して、乱は終結します。

 この間、南では南宋の残党に対する掃討作戦も続いています。1276年には泉州の軍閥・蒲寿庚がモンゴルに投降し、モンゴル軍はビルマ/ミャンマーやベトナムへ圧力をかけつつ、南へと敵を追い込みます。福建を奪われた南宋残党は広東に追い詰められ、香港付近の崖山に立てこもりますが、蒲寿庚らの提供した水軍に追撃されます。1279年陰暦2月、宋臣・陸秀夫は幼い天子を抱きかかえて海中に身を投じ、ここに宋は完全に滅んだのです。

再度遠征

 同年、両浙大都督に任じられていた范文虎は、遠征前に「まず日本へ再び使節を派遣しては」と提案します。杜世忠らの派遣から4年が経過し、何の報告もないので、安否確認のためもあります。鎌倉へ連れて行かれたことは聞いていたかも知れませんが、それからは監禁されているか殺されたかもわからなかったようです。クビライは周福と欒忠を使者とし、渡宋していた日本僧の暁房霊杲、通訳の陳光を伴わせて派遣しました。

 この時、范文虎は「大宋国牒状」を使節に持たせていました。そこには「宋朝はすでに蒙古に打ち取られ、日本も危ない。よって宋朝自らこれを告知する」云々とあり、南宋の旧臣の立場を利用してモンゴルへの服属を勧めるという形をとったものです。使節は今度は博多に上陸しましたが、6月に幕府の指示により斬首され、帰還することはできませんでした。

 クビライはそうとも知らず、南宋の旧領や高麗・耽羅に日本遠征用の船を築造せよと命じています。しかし何百もの軍船を調えることは困難で、蒲寿庚すら海船200艘を作れと命じられても50艘しか作れず、「民が疲弊しています」と上奏して中止を求めました。家臣らも続々と遠征を諌めたものの、クビライの気持ちは変わりません。やがて使節団が処刑されたとの報告が伝わり、激怒したクビライは東征都元帥の忻都/忽敦や洪茶丘に「ただちに出兵せよ!」と命じますが、家臣らの反対によりしばらく踏みとどまります。

 1280年、クビライは高麗と遼東(マンチュリア)を統括する征東等処行中書省(征日本行省)を置き、日本遠征の準備を調えさせます。同省の右丞相にはモンゴル人のアラカン(阿剌罕)が、左丞相には高麗国王(忠烈王)が任命され、忻都・洪茶丘・金方慶らはその指揮下に入りました。

 翌1281年(至元18年、日本の弘安4年)正月、クビライは大都にアラカンや范文虎ら諸将を呼び集め、日本遠征を宣言します。2月、クビライは諸将にこう告げました。

 始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。彼遂留我使不還。故使卿輩爲此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。(元史・日本伝)
 そもそも彼の国から使者が来たゆえ、朝廷はまた使者を派遣した。しかし彼の国は我が使者を留めて還さなかった。それで卿らを行かせるのだ。朕が漢人の言を聞くに「人の家国を取るのは、百姓(人民)と土地を得たいがためだ」という。もし百姓を尽く殺せば、土地を得たとて何の役に立つか(そうしないようにせよ)。また朕が特に憂えているのは、卿らの不和のみだ。もし彼の国の人がやってきて卿らと協議するならば、心を合わせ考えを一致させ、答えが一つの口から出るようにせよ。

 かくして、第二回の日本遠征が開始されました。遠征軍にはモンゴル人、漢人、女真人、高麗人の他、多数の南宋人が加えられ、未曾有の大軍となりました。果たしてどのような戦いとなるのでしょうか。

◆青◆

◆海◆

【続く】

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