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【つの版】ユダヤの闇06・救世幻想

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ポーランド領であった現ウクライナには、コサックという半独立勢力が現れます。彼らはポーランドの援軍・傭兵として転戦しますが、次第に待遇が悪化し、不満をつのらせて行きました。

◆Hallelujah◆

◆Messiah◆

哥薩大乱

東欧の大国ポーランドでは、大貴族(マグナート)が国政を牛耳り、ユダヤ人やドイツ人、アルメニア人ら商人たちを手駒として、農民たちに苛斂誅求を強いていました。17世紀には穀物価格が値下がりして経済格差が拡大し、虐げられた中小貴族や下級階層は国王の権力を強化して大貴族の横暴を抑えようとします。しかしこうした動きは抑圧され、不満が鬱積していきます。

1647年、ポーランド貴族のチャプリンスキが、コサックの小領主フメリニツキーの所領を強奪しました。フメリニツキーは地方議会に不法を訴えますが取り合ってもらえず、国会(セイム)や国王に訴えても無駄でした。そればかりか「コサックに反乱を呼びかけている」との嫌疑がかけられ、逮捕・投獄された上に死刑判決が下されます。怒ったフメリニツキーは代官を説得して出獄し、本当にコサックたちに反乱を呼びかけました。

1648年、フメリニツキーはコサックたちの首領(ヘーチマン)に選出され、南のクリミア・ハン国と同盟を結び、反乱鎮圧に赴いたポーランド軍を散々に打ち破ります。勢いづいた反乱軍は、悪政からの解放者として各地で歓迎され、武装蜂起した民衆が貴族や聖職者、富裕市民やユダヤ人を手あたり次第に殺戮・略奪しました。連戦連勝のコサック軍は西へ進み、リヴィウを経てポーランド本土のザモシチを包囲します。

国王ヤン2世は和平交渉を呼びかけ、コサックの自治権回復とポーランド軍の駐留禁止、登録コサックの増加などの要求に応じて休戦協定を結びます。フメリニツキーはポーランドから引き上げ、1649年1月にキエフへ凱旋しました。人々は彼を「ポーランドからの解放者、第二のモーセ」と讃えたといいます。同年には休戦条約を破ったポーランド軍を撃破して新たに条約を結び、コサックの自治領(ウクライナ)の拡大、在ウクライナのユダヤ人とイエズス会士の追放などが取り決められました。

コサックやルーシ農民のほとんどは昔ながらの正教徒でしたが、貴族や中産階級はカトリックが多く、ユダヤ人も農民の上に立って搾取の手先となっていましたから、民衆から恨まれていたのです。またイエズス会士はポーランドにおいて対プロテスタントの尖兵として働き、様々な陰謀を巡らして国政を左右していました。こうして15万人もの在ウクライナ・ユダヤ人が追放され、ポーランドやベラルーシ、ボヘミア、ドイツなどへ去っていきました。

フメリニツキーの乱で混乱したポーランドは、スウェーデンやモスクワ、クリミア、オスマン帝国など周辺諸国から攻め込まれ、「大洪水時代」と呼ばれる受難の時代を迎えます。神聖ローマ帝国も三十年戦争で荒廃しており、居心地の良い場所ではありません。プラハやフランクフルト、ヴェネツィアなどのゲットーには東欧からのユダヤ人難民が溢れました。

和蘭移住

この頃、ユダヤ人の魅力的な移住先のひとつがネーデルラント(オランダ)でした。1579年、ネーデルラント北部7州はハプスブルク家の支配に対抗するためユトレヒト同盟を結成し、個人的宗教に対する寛容令を発布して人々を集めました。1598年にはシナゴーグの建設が許可され、1615年にはユダヤ人の入国に関する条例が可決されました。

カトリック国と敵対している以上、公職につくにはオランダのカルヴァン派(改革派)教会に所属する必要はありましたが、プロテスタントもユダヤ人もオランダに移住すれば信仰の自由が認められたのです。スペインやポルトガルではこの頃ユダヤ教やイスラム教から改宗した「新キリスト教徒」への弾圧が強まっており、人々は迫害を逃れてオランダに集まりました。

1610年、ポルトガルから追放されたセファルディム系ユダヤ人メナセ・ベン・イスラエルがネーデルラントへやって来ます。彼はアムステルダムで宗教教育を受け、1626年にヘブライ語の印刷所を設立し、活発な著作活動を行って評判となります。1644年には裕福なユダヤ商人アブラハム・ペレイラがアムステルダムに到着し、メナセを経済的に支援しました。

この頃、アムステルダムのセファルディム系ユダヤ商人の家に生まれたのがスピノザです。彼は後にユダヤ人共同体から破門され、近世の合理主義的哲学者の代表となりますが、彼についてはあとで触れることにしましょう。

清教革命

イングランドでは1603年に女王エリザベス1世が崩御し、スコットランド王ジェームズ6世が跡を継いでイングランド王を兼ね、スチュアート朝を開きました。彼はエリザベスの路線を受け継ぎ、イングランド国教会を強化しつつ、カトリック過激派やピューリタン清教徒、カルヴァン派プロテスタントの一派)を弾圧しました。両者は水と油でしたが共に国王に反発し、1605年にはカトリック派による国王暗殺未遂事件も起きています。

ジェームズは国内の権力基盤が弱く、議会とも対立しました。対外的にはオランダやドイツのプロテスタント諸国と結んでいますが、カトリックのスペインやフランスとも結び、両者の仲介役を果たしました。この頃、国内で弾圧されたピューリタンの一部は新天地を求めて北米大陸に渡っています

1625年にジェームズが崩御すると、子のチャールズが即位します。彼は権臣バッキンガム公の意見を聞き入れ、反カトリックの世論に乗ってスペインやフランスと開戦しましたが勝てず、国家財政は破綻寸前となります。これを補填しようと重税を課したところ議会や国民の猛反発に遭い、1628年には議員らが連名で「権利の請願」を提出、議会の同意なしの国王による勝手な課税や法律の濫用を禁止するよう申し出ます。

チャールズはこれを一旦飲みますが、直後にバッキンガム公が暗殺されたため態度を硬化し、王権神授説を振りかざして親政を開始します。彼と議会派との溝は埋まらず、1642年にはついに武力衝突が起きました。イングランド内戦、世にいう清教徒革命の開始です。議会派にピューリタンが多かったことからそう呼びますが、比較的穏健な長老派の他、各教会の自治独立を主張する独立派(会衆派)、王政廃止と国民主権、財産共有といった社会主義を主張した平等派や水平派など、多くのセクトが加わっていました。

激戦の末に国王と王党派は敗北し、国王チャールズは捕らえられ、1649年に処刑されます。ここにイングランド王国は滅び、清教徒の議会派が政権を握るイングランド共和国(コモンウェルス・オブ・イングランド)が成立しました。この過程で、国王との和解を望んでいた長老派は議会から排除され、オリヴァー・クロムウェルが率いる独立派(会衆派)が実権を握ります。

イングランドでは長年の戦乱や重税・内紛・宗教紛争によって人心が乱れ、様々なデマや誹謗中傷、過激な終末論が飛び交っていました。「内乱は国王がユダヤ人を迫害したせいだ」とか「ユダヤ人が全員キリスト教に改宗すればメシアが降臨する」といった噂も流れていました。特に議会派に加わっていた第五王国派は「イングランドにこそダニエル書にいう第五の王国、神の国、千年王国が到来する」と説く急進的な清教徒でした。

ちょうどこの頃、ポーランドではフメリニツキーの乱が起こり、多数のユダヤ人が追放されました。アムステルダムにいたメナセ・ベン・イスラエルはイングランドでのユダヤ人に関する噂を聞いて、1650年に『イスラエルの希望』という書物をラテン語で刊行し、「終末の到来を確かならしめるためには、世界の末端であるイングランドをユダヤ人の植民地とすべきである」と主張しました。植民地と言っても、単に移住すべき土地という意味です。

1651年、メナセは同書を英訳してイングランド議会に献本し、大きな反響を呼びました。また1655年にはメナセ自ら渡英し、国王が定めたユダヤ人追放令の撤回を求め、ユダヤ人を迎え入れた国々が繁栄したこと、ユダヤ人に対する誹謗中傷は虚偽であることなどを力説しました。クロムウェルと議会は破綻した財政を立て直すためもあり、同年12月にユダヤ人の受け入れを決定し、1290年のユダヤ人追放令を「無効である」と宣言します。1657年にはシナゴーグが初めて建設されますが、ユダヤ人の受け入れにはなお反対派が多く、あまり進展しませんでした。

1658年にクロムウェルが死去すると共和国は混乱し、オランダに亡命していたチャールズ2世が1660年に帰国して王政復古します。イングランド国教会が復活し、清教徒は「国王殺し」として弾圧されました。チャールズ2世は財源確保のためユダヤ人を庇護し、オランダやポルトガルなどからユダヤ人が集まって来ました。その後も王室はユダヤ人を庇護し、安定した生活を送ることができるようになりました。

救世幻想

同じ頃、オスマン帝国にはユダヤ人のメシアを名乗る人物が現れます。彼は1626年、小アジア西部のイズミールでユダヤ商人モルデカイ・ツヴィの子として生まれ、安息日(シャバット)に生まれたことからシャブタイと名付けられました。当時のオスマン帝国には、イベリア半島から追放されたセファルディム系ユダヤ人が多く住んでいましたが、彼の家系は東ローマ帝国の時代からこの地にいたロマニオット系ユダヤ人のようです。

裕福な家に生まれ育ち、ユダヤ教徒としての高等教育を受けた彼でしたが、少年期の性的虐待によってか臆病で禁欲的な性格となり、2度も離婚しています。彼はユダヤ教の神秘主義(カバラ)にのめり込み、躁鬱病を患って様々な奇行に走り、トランス状態になって託宣を行い、ついに1648年6月には幻の中で「お前はメシアである」という預言を受けてしまいました。

彼は「戒律を意図的に破ることで世界の修復が早まる」と信じ、大声で神の実名である神聖四文字(YHVH)を叫び、様々な奇行を行いました。ほとんどの人は「彼は発狂した」と恐れましたが、学識は豊かで穏やかな時は理性的に教えを説いたので、信者も集まりました。まあイスラム教のスーフィー(行者)にもこういう人は結構いますし、大目に見られていたのでしょう。

しかし彼の奇行はエスカレートし、弟子を率いて丘に登り「太陽の運行を止める」と言い出したので、ついにイズミールから追放されてしまいます。彼はバルカン半島南部のテッサロニキ(サロニカ)に渡り、奇行によって追放されることを繰り返しながら10年も各地を転々とした末、イズミールに戻って来ました。1662年にはロドス島を経由してエジプトへ渡り、この地の財務大臣であったユダヤ人に気に入られて庇護を受けました。彼はこの地でサラという怪しい女と結婚し、ついにエルサレムにやって来ます。

この頃、パレスチナのガザにナタンという若い賢者がおり、カバラ思想を研究していました。彼は1665年にシャブタイと出会い、彼をメシアと認定し、自分は彼を世に告げ知らせる預言者であると考えました。そして世界各地のユダヤ人に書簡を書き送り、イスラエルの地にメシアが出現したこと、世界の終末が差し迫っていることを喧伝したのです。

エルサレムのラビたちは彼らを破門しましたが、ナタンは民衆を煽り立ててシャブタイを祀り上げ、多数の信者を率いて北上します。彼らはダマスカスやアレッポを経てイズミールへ向かい、各地で熱狂的な歓迎を受けました。さらにはオスマン帝国の皇帝を廃位すべく、数千人の信者と共に帝都イスタンブール/コスタンティニエへ出発しました。

しかしシャブタイは衛兵によってあっさり身柄を拘束され、信者たちも追い払われます。シャブタイは裁判の結果ガリポリの砦へ流刑となり、牢獄に入れられました。それでも信者らの熱狂はおさまらず、ガザのナタンらの煽動に乗せられて「深遠な奥義が秘められた行動に違いない」「近い将来に彼は必ず王位を奪い取る。あえて敵の中に入り込んだのだ」と噂しました。

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シャブタイの名声はポーランドやオランダ、イングランドにまで届き、ガリポリを訪れる世界各地のユダヤ人は引きも切らず、看守らは賄賂を条件として彼ら訪問者との面会を許可しました。シャブタイは獄中でも王様らしく横柄な態度で振る舞い、毎日王宮の儀式を繰り返していたといいます。彼に関するパンフレットは大量に印刷され、世界中にばらまかれました。

時あたかも西暦1666年、『ヨハネの黙示録』にある獣の数字666が揃う年にあたり、世界中のキリスト教徒も何かが起きると期待していました。果たしてイングランドでは1665年から1666年にかけてペストが大流行し、1666年9月にはロンドン大火が発生します。ついに最後の審判が来るのでしょうか。

しかし1666年9月、ポーランドのカバリストであるネヘミヤ・コーヘンが彼とカバラについて議論した結果、「お前はメシアではない」と宣告します。そしてエディルネに滞在していた皇帝に訴状を提出し、「彼はメシアではなく、彼が吹聴する様々な力は欺瞞に過ぎない」と告発しました。皇帝は訴状を受理するとシャブタイをエディルネへ連行させ、法廷へ引き出しました。

するとシャブタイは「私は何も知りません」と答え、シャブタイ派との関わりすら「あいつらが勝手に私を祀り上げたのです」と否定しました。さらに「イスラム教に改宗するか、さもなくば死刑だ」と脅されると、迷うことなく改宗を選びました。面白がった皇帝は、彼をアジズ・ムハンマド・エフェンディと改名させ、名誉職を授けて宮中に住まわせ、国庫から恩給を与えて何不自由なく暮らせるようにしてやりました。

シャブタイ派は流石に動揺し、多くのユダヤ人が彼を偽メシアだと断定して関わりを絶ちました。ナタンは「彼はあえてイスラム教徒に身をやつし、悪を滅ぼそうとしておられるのだ」と説いて信者を繋ぎ止めます。シャブタイはその後も信者に囲まれ、ユダヤ教とイスラム教を我流でミックスした教えを説き、各地のシャブタイ派とも書簡でやりとりして「これはカバラの秘儀じゃ」とうそぶいていました。バルカン半島やイタリアにはシャブタイ派の拠点が生まれ、時々当局に睨まれながらも活動を続けています。

1676年9月、シャブタイは信者に囲まれて好き勝手な人生を送った末、50歳で逝去しました。ナタンは「彼は至高の光に包まれて姿が見えなくなったにすぎない、いずれ再び現れてイスラエルを救う」と説きましたが、流石に精神を病んでしまい、1680年に逝去しました。シャブタイ派はその後も東欧や小アジア、バルカン半島やイタリアで密かに活動を続けましたが、19世紀を待たずして消滅したといいます。世界の終わりも千年王国も、ついにやって来ることはありませんでした。

◆千年◆

◆王国◆

【続く】

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