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【つの版】ウマと人類史13・匈奴国制

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 前209年に匈奴の単于(君主)となった冒頓は、チャイナが戦乱に明け暮れている間に勢力を広げ、モンゴル高原を統一します。さらに漢を服属させて貢納を課し、晩年には西域へも進出しました。彼が築き上げた匈奴帝国はどんなものだったのでしょうか。『史記』匈奴列伝から見てみましょう。

◆匈◆

◆奴◆

匈奴習俗

 匈奴、其先祖夏后氏之苗裔也、曰淳維。唐虞以上有山戎、獫狁、葷粥,居于北蠻、隨畜牧而轉移。其畜之所多則馬、牛、羊、其奇畜則橐駞、驢、驘、駃騠、騊駼、騨騱。逐水草遷徙、毋城郭常處耕田之業、然亦各有分地。毋文書、以言語爲約束。
 匈奴は、その先祖は夏后氏(夏王朝)の苗裔であり、淳維という。(夏より前の)唐虞の以前から山戎、獫狁、葷粥があり、北方の蛮地に居住し、家畜に従って移動した(遊牧)。その家畜で多いものにはウマ、ウシ、ヒツジがおり、珍しいものにはラクダ(フタコブラクダ)、ロバ、ラバ、駃騠(けってい)、騊駼(とうと)、騨騱(ぜんけい)がある。水と牧草を追って移動し、城郭はなく、定住し農耕を行うこともない。しかしそれぞれに縄張りがあり、土地を有している。文書はなく、口頭の言語で約束する。

 匈奴が定住しない遊牧民であることをシンプルに述べていますね。フタコブラクダは中央アジア原産で、アラビア半島原産のヒトコブラクダより毛深くて寒さに強く、モンゴル高原でも飼育されていました。ゾロアスター教の開祖ザラシュストラは「ラクダを飼う者」を意味しますが、これはフタコブラクダのほうです。ラバは牡のロバと牝のウマをかけ合わせたもので、非常に古くからエジプトや西アジアで使役されており、繁殖力はないものの頑丈で賢く力の強い家畜として重宝されました。駃騠(けってい)とはラバとは逆に牝のロバと牡のウマをかけ合わせたもので、ラバより生まれにくいといいます。騊駼や騨騱は野生のウマを指すようです。

 兒能騎羊、引弓射鳥鼠、少長則射狐兔、用爲食。士力能弓、盡爲甲騎。其俗、寬則隨畜、因射獵禽獸爲生業、急則人習戰攻以侵伐、其天性也。其長兵則弓矢、短兵則刀鋋。利則進、不利則退、不羞遁走。茍利所在、不知禮義。
 幼児はヒツジにまたがり弓を引き、鳥や鼠を射る。成長すると狐やウサギを射て食用とする。成人男子で弓を扱う者は、全て甲冑をまとい騎兵となる。その習俗は、禽獣を射て狩猟することを生業とし、急事があれば戦を習って侵攻することが天性(自然の性分)である。遠距離の武器には弓矢があり、白兵戦では刀や矛を用いる。戦場では有利なら進み、不利になれば撤退し、遁走することを恥としない。少しでも利益のある場所におり、礼儀知らずである。

 匈奴は子供の頃から騎射を習い、健康な成人男子はみな弓騎兵となることができます。遊牧民であるため人口は定住民より遥かに少ないのですが、貴重な弓騎兵を万単位で動かすのは、ペルシア並みの世界帝国か騎馬遊牧民の部族連合でなければ不可能です。ただし人口が少ないため兵の無駄な犠牲を嫌い、不利益と見れば即座に逃げますし、わざと撤退して敵を誘き寄せることもします。騎兵の速度あればこそですが、現実的で合理的ですね。

 自君王以下、咸食畜肉、衣其皮革、被旃裘。壯者食肥美、老者食其餘。貴壯健、賤老弱。父死、妻其後母。兄弟死、皆取其妻妻之。其俗有名不諱、而無姓字。
 君主以下(庶民に至るまで)、みな家畜の肉を食べ、その皮革を衣服として用い、毛皮を纏う。若く盛んな者が肥えた美味い肉を食べ、年寄りはその余りを食べる。壮健なのを尊び、老いて弱い者は賤しむ。父が死ねば母を妻とし、兄弟が死ねばその妻を娶る(レビラト婚)。習俗として名(個人名)だけを呼び、諱(忌み名)の風習がなく、姓も字(あざな)もない。

 儒教は定住して暮らす農民の文化慣習を基礎とする宗教であり、昔ながらの生活の知識を言い伝える年長者を大事にし、家族や国家の秩序・序列を重んじます。これに対して匈奴では、壮健な者のほうを大事にします。年寄りや弱者を大事にしないというわけではありませんし、年齢を重ねれば肉は多くは食べにくいでしょう。ヘロドトスによると、マッサゲタイでは年寄りになりすぎると皆で殺してその肉を食べ、これが幸せな死に方であるとしていたそうですが、儒者が聞いたら禽獣扱いしたと思います。

 父や兄弟の妻を子や兄弟が娶るというのは、儒教的な倫理道徳には反していますが、寡婦を大事にし生活を支え、一族の絆を強めるという点では現実的です。厳しい環境に女手ひとりで投げ出され、再婚も許されないという方が酷でしょう。オリエントや中央ユーラシアではごく一般的ですが、インドでは「寡婦は夫に殉じて死ぬべし」という恐ろしい風習すらあります。

 こうした匈奴の習俗への漢人の批判に対して、中行説という匈奴に仕えた漢人の宦官は次のように反論したといいます。『史記』を記した司馬遷による、チャイナ文明に対する批判とも言えるでしょうか。

 漢使或言曰「匈奴俗賤老」中行說窮漢使曰「而漢俗、屯戍從軍當發者、其老親豈有不自脫溫厚肥美、以齎送飲食行戍乎」漢使曰「然」中行說曰「匈奴明以戰攻爲事、其老弱不能鬬、故以其肥美飲食壯健者、蓋以自爲守衛、如此父子各得久相保、何以言匈奴輕老也」
 漢の使者のある者は「匈奴の習俗は老人を賤しむ」と言ったが、中行説は反論した。「漢の習俗では、辺境の防衛に従軍する者が出発する時、その年老いた親は温かい着物や美味いものを独り占めせず、子供に送ってやるではないか。匈奴では明確に戦争を生業としており、年老いて戦えない者が、若く健康な者に美味いものを飲食させるのは当然だ。それは自分自身を守るためであり、父も子もこうして互いに生き残ることができる。どうして匈奴が老人を軽んじると言えようか?」
 漢使曰「匈奴父子、乃同穹廬而臥。父死、妻其後母。兄弟死、盡取其妻妻之。無冠帶之飾、闕庭之禮」中行說曰「匈奴之俗、人食畜肉、飲其汁、衣其皮。畜食草飲水、隨時轉移。故其急則人習騎射、寬則人樂無事、其約束輕易行也。君臣簡易、一國之政猶一身也。父子兄弟死、取其妻妻之、惡種姓之失也。故匈奴雖亂、必立宗種。今中國雖詳不取其父兄之妻、親屬益疏則相殺、至乃易姓、皆從此類。且禮義之敝、上下交怨望、而室屋之極、生力必屈。夫力耕桑以求衣食、築城郭以自備、故其民急則不習戰功、緩則罷於作業。嗟土室之人、顧無多辭、令喋喋而佔佔、冠固何當」
 また漢の使者が言う、「匈奴の父子は同じ穹廬(ゲル、パオ)で寝ており、父が死ねば母を妻とし、兄弟が死ねばその妻を娶る。冠や帯などの装飾品もなく、その朝廷では礼儀がない」。中行説は反論して言う。「匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を衣服とする。家畜は牧草を食べ水を飲み、季節によって移動する。ゆえに匈奴では急変に備えて騎射を習い、寛いだ時は無事を楽しむのだ。その約束は簡潔で行いやすく、君臣の間柄も小難しいことはなく、国の政治は一身をおさめるようなものだ。寡婦を家族が娶るのは、種姓(家門)が失われるのを嫌うからだ。ゆえに匈奴で後継者争いが起きても、必ず宗種(同じ血統の者)を立てるではないか。いまチャイナでは父兄の妻を娶ることはないが、親族同士で利益を争って殺し合い、たやすく姓氏を替えているではないか。(チャイナでいう礼儀とは)みなこのようなものだ。それに礼儀(マナー)の弊害たるや、上も下も怨みや羨望を交えておる。家屋を立てて定住する連中は、せいぜいこんなものだ。力を尽くし農耕や養蚕をして衣食を求め、城郭を築いて防備しておるから、民は急変に備えて戦いを習わず、平和な時は作業を怠ける。ああ定住の民よ、つべこべ言うな。冠がなんの役に立つのか!」

 ごもっともですね。ちょっと先へ飛んで、他の習俗も見てみましょう。

 而單于朝出營、拜日之始生、夕拜月。其坐、長左而北郷。日上戊己。其送死、有棺槨、金銀衣裘、而無封樹喪服。近幸臣妾從死者、多至數千百人。
 単于は朝に天幕を出て、日の出を拝んでから生活を始め、夕方には月を拝礼する。座る時は左側を上座とし、北を向いて座る。(十干=旬日で日を数え)戊と己の日(第五日と第六日)を吉日とする。死者をあの世へ送るには棺槨(棺の外箱)を用い、金銀を副葬し毛皮を着せて葬るが、封(塚)を築かず樹木を植えず、服喪することもない。ただ近しい家臣や愛妾を殉死させ、多い時は数百から数千人に至るという。

 左側を上座とし北向きで座るのはチャイナの逆ですが、単于は南面するようで、左賢王は東側、右賢王は右側です。六十干支(十干と十二支)は匈奴や突厥でも用いたようですが、古くは殷商の甲骨文に見え、北方に由来する可能性もあります。匈奴の古墳は実際には多くあり、副葬品も見つかっています。家臣や愛妾を殉葬することはスキタイにもチャイナにも見られます。

 舉事而候星月、月盛壯則攻戰、月虧則退兵。其攻戰、斬首虜賜一卮酒、而所得鹵獲因以予之、得人以爲奴婢。故其戰、人人自爲趣利、善爲誘兵以冒敵。故其見敵則逐利、如鳥之集。其困敗、則瓦解雲散矣。戰而扶輿死者、盡得死者家財。
 事(戦争)を起こすには星や月の動きを観察し、月が満ちていく時には攻撃し、月が欠けていく時には撤退する。戦場では、首級や捕虜を獲得した者は一杯の酒を賜り、鹵獲したものは彼の所得となり、人間を捕まえれば奴婢とする。ゆえに各々が自分の利益のために行動し、敵を誘き出して包囲することが巧みである。敵を見て有利と思えば鳥のように集まり、敗北すれば瓦が砕け雲が散るように逃げ去る。戦場で味方の死者を担いで持ち帰ると、その死者の家財は全部持ち帰った者の所有物とされる。

 戦争は匈奴にとって戦利品を獲得する場であり、祖国や名誉のために命をかけるようなことは、あまりしません。味方の死者の財産の始末まで戦場でついてしまいます。

匈奴国制

『史記』匈奴列伝は習俗に続いて、淳維から頭曼に至る千年余りの戎狄の歴史を概観し、漢と匹敵する大国となった冒頓以後の匈奴の官号について記録しています。ただ単于(ぜんう)という君主号に関しては史記に記されず、『漢書』匈奴伝のほうにあります。史記にもあったと思うのですが。

 單于姓攣鞮氏、其國稱之曰撐犁孤塗單于。匈奴謂天為撐犁、謂子為孤塗。單于者廣大之貌也、言其象天單于然也。
 単于の姓は攣鞮(れんてい)氏であり、その国ではこれを称して「撐犁孤塗(とうりこと)単于」という。匈奴では撐犁孤塗という。単于とは広大なことで、天の広大なことを象徴して単于になぞらえている。

 先に匈奴には姓がないとありましたが、実際は王侯貴族であれば姓氏を持っています。ただ漢姓とは異なり匈奴語で、漢字表記はその音写です。攣鞮(上古音b·ron teː)は『後漢書』では虚連題(qʰa ren deː)と書きます。発音はほぼ同じですが、意味や語源はわかりません。彼らは屠各(daː klaːɡ)という種族(王族)に属し、単于は必ずこの姓氏から選ばれます。

 撐犁(rtʰaːŋ riːl)とは、テュルク諸語やモンゴル諸語で「天」を指す「タングリ/テングリ(tangri)」の音写に違いありません。天(qʰl'iːn)という漢語も同語源かも知れません(あるいは上古音は祁連/ɡril renや崑崙と同じく月氏/トカラ語からでしょうか)。孤塗(kʷaː rlaː)については異説があり、古テュルク語で子はogulですからこれを音写したとも、ウイグル語qut(幸福)と関係があるともいいます。単于/單于(djan ɢʷa)は古テュルク語geng(広い)からでしょうか。つまり撐犁孤塗單于とは「天の子なる大君」の意味で、チャイナでいう天子・皇帝に相当します。7世紀初頭の倭国の君主が「あめたらしひこ・おほきみ」と称したのと似ていますね。

 置左右賢王、左右谷蠡王、左右大將、左右大都尉、左右大當戶、左右骨都侯。匈奴謂賢曰屠耆、故常以太子爲左屠耆王。自如左右賢王以下至當戶、大者萬騎、小者數千、凡二十四長、立號曰萬騎。諸大臣皆世官。呼衍氏、蘭氏、其後有須卜氏、此三姓其貴種也。
 (単于の)左右に賢王、谷蠡(ろくり)王、大将、大都尉、大當戸、骨都(こつと)侯を置く。匈奴では「賢」を「屠耆(とぎ)」といい、ゆえに常に太子を左屠耆王(左賢王)とする。左右の賢王から當戸まで(勢力が)大きい者は万騎、小さい者は数千騎を持ち、およそ24人の長がおり、号して(数千騎であっても)「万騎」という。諸大臣はみな官位を世襲する。呼衍(こえん、呼延とも)氏、蘭氏、その後に須卜(しゅぼく)氏があり、この三姓は貴種とされる(単于の姻族となる)。

 王や大将、都尉は漢語(あるいは匈奴語を漢訳したもの)ですが、屠耆(daː ɡri)、谷蠡(ɦkroːɡ reːlʔ)、骨都(kuːd taː)はいずれも匈奴語です。屠耆とは「賢い」という意味だそうですが、のちの突厥の王子や王族を指すteginと関係があるかも知れません。賢王・谷蠡王・大将・大都尉・大當戸・骨都侯の6階級が2人ずつだと12人しかいませんが、賢王以下の階級に複数いたのかも知れず、単于の直属にまた12人の万騎がいたのかも知れず、諸説あって定まりません。骨都侯が万騎なのかも不明です。一万人の騎兵を率いる大名が24人いたとすれば騎兵だけで24万人で、1戸5人から1人ずつが騎兵として登録されたとすれば、匈奴の推計人口は120万人となります。

 諸左方王將居東方、直上谷以往者、東接穢貉・朝鮮。右方王將居西方、直上郡以西接月氏・氐羌。而單于之庭直代・雲中。各有分地、逐水草移徙。而左右賢王、左右谷蠡王最爲大、左右骨都侯輔政。諸二十四長亦各自置千長、百長、什長、裨小王、相、封都尉、當戶、且渠之屬。
 (単于が南を向いて)諸々の左方の王や将軍は東方におり、(漢の)上谷郡(河北省張家口市懐来県)から、東は穢貉(満洲)と朝鮮(平壌)に接する。右方の王や将軍は西方におり、(漢の)上郡(陝西省楡林市)から西の月氏や氐羌と接する。各自が土地を分け持ち、水や牧草を追って移動する。このうち左右の賢王と左右の谷蠡王が最大で、左右の骨都侯が政治を輔佐する。二十四長(万騎の長)は各自で千長(千人隊長)、百長(百人隊長)、什長(十人隊長)や、裨小王および相(大臣)を置き、都尉、當戸、且渠のたぐいを封じている。

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 匈奴帝国は単于の治める中央部分と、賢王の治める左右(東西)の部分に分けられます。単于の太子である左賢王は東方、北京の北方からモンゴル高原の東部、遼寧・吉林・朝鮮半島に至るまでを統治します。すなわちかつての東胡や山戎の地です。穢貉(濊貊)からは夫余・沃沮(夫租)・高句麗・百済王族などが出ましたが、その子孫の言語は契丹に近かったといいますから、東胡(モンゴル系)の一派かと思われます。

 右賢王は単于の弟などが任命されることが多く、単于位の継承権もあります。その領地は西方、長安の北方から寧夏・甘粛・青海・新疆などへ広がっており、すなわちかつての月氏の地で、ユーラシア内陸へと大きく発展することが可能です。冒頓の頃にはまだ月氏は甘粛付近に残っていましたが、やがて東方へ押し出され、崑崙山脈やパミールの彼方まで大移動します。

 単于が君臨する中央はその間、匈奴・林胡・楼煩の故地である河南(河套・オルドス)地方とその北の陰山山脈、さらにはゴビの彼方(漠北)のモンゴル国(外蒙古)の大部分で、東は大興安嶺、北はバイカル湖、西はアルタイ山脈に至ります。24人の万騎長は大名としてそれぞれの領地を持ち、多くの部族長や直属の大臣を従えています。十・百・千・万という十進法で兵をまとめ、管理していたようですね。

 歳正月、諸長小會單于庭祠。五月、大會蘢城、祭其先天地鬼神。秋馬肥、大會蹛林、課校人畜計。
 毎年正月には、諸々の族長は単于の庭(朝廷)の祠に集まって小会し、祭祀を行う。五月(夏)には蘢城で大会し、その先祖や天地・鬼神を祀る。秋になって馬が肥えると、蹛林で大会し、人や家畜の数を数える。

 年に三回の会議があり、特に夏と秋のものが大きかったようです。モンゴル帝国のクリルタイに相当する「国会/連邦議会」です。単于庭は結構動いていますが、前漢代には「狼居胥山」にあったといい、モンゴルの聖地であるヘンティー山脈ボルハン/ブルカン山にあたるようです。「狼が居るところ」と漢訳されていますから、いわゆる狼祖神話があったのでしょう。モンゴル族の始祖神話として有名ですが、突厥や鉄勒などテュルク系諸族にもありますし、モンゴル族がこの地に来るのはチンギスより200年ほど前です。

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 ここは現モンゴル国の首都ウランバートルに近く、トーラ川が流れ出て西のオルホン川と合流し、セレンガ川となって北のバイカル湖へ注ぎます。バイカル湖からはアンガラ川が流れ出てシベリアの河川交通網に繋がり、遠くカスピ海や黒海、地中海とも通じています。また東へはヘルレン川が流れ出てフルン湖に注ぎ、しばしば湖水が溢れ出てアルグン川に流れ込みます。さらにオノン川がその北を流れ、シルカ川となってアルグン川と合流した後、巨大なアムール川となってオホーツク海へ注いでいます。

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 このように、ヘンティー山脈はモンゴル高原の河川交通の結節点であり、シベリアやマンチュリアと繋がっています。ゆえに匈奴の単于庭が置かれ、モンゴルの聖地となったのでしょう。然るべき理由があるのです。

 蘢城(龍城)の場所は定かでありませんが、ウランバートルより西のオルホン川流域であるとする説が有力です。ここには8世紀の第二突厥の時代にオルホン碑文が刻まれ、ウイグル・カガン国の首都オルド・バリクがあり、オゴデイの時代にはモンゴル帝国の首都カラコルムが建設されました。城というからには土で作った恒久的な建築物があり、城郭都市が築かれていたのでしょう。ここは月氏に通じる西方のルートが伸び、甘粛や西域、ジュンガル盆地やアルタイ山脈へ陸路が通じています。なお、蹛林についてはわかりません。蘢(上古音mə-roŋ)は「草木が茂るさま」、蹛(taːds)は「住む」などの意味があり、匈奴語を漢訳したものでしょうか。

 其法、拔刃尺者死、坐盜者沒入其家。有罪小者軋、大者死。獄久者不過十日、一國之囚不過數人。
 その法律では、(平時に揉め事を起こして)剣を1尺(23cm)抜いた者は死罪であり、盗人はその家(家族・家財)を没収する。(刑罰として)罪の小さい者は軋(あつ、鞭打ちとも)とし、罪の大きい者は死刑とする。投獄されても長くて十日を過ぎず、国の中に囚人は数人を過ぎない。

 文字はありませんが法律はあり、極めて簡潔です。弁護士とか六法全書とかは必要としません。秦や漢ではやたらと刑法が整備され、酷吏という非情な役人が幅を利かせていました。罪人を投獄するような施設も匈奴には少なく、その場で殺すか、家財を没収するか、鞭打ちなどの身体刑で罰を与え終わります。匈奴では人間が少なく貴重なので無駄遣いはしませんが、冒頓単于の「鳴鏑」の故事のように、刑罰自体は厳格に行われます。共同体の和を乱す者を生かしておいては、共同体全体が滅ぶからです。

◆匈◆

◆奴◆

 さて、匈奴とはこのような帝国です。漢はこの匈奴の傘下について貢納することで国内を安定させ、やがて匈奴との間に大戦争を始めるのです。

【続く】

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