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【つの版】ウマと人類史29・大秦北狄

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 4世紀中頃から5世紀にかけて、中央アジアからアフガニスタン、インドには「フーナ」「キオン」「キオニタエ」と呼ばれる集団が現れました。彼らはモンゴル高原から駆逐された匈奴の一派が現地住民と混在したものと推測され、北方からのテュルク(勅勒・高車)の南下により押し出されたようです。そして西方においても、この頃にフン族が現れます。

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大秦北狄

 キオニタエや匈奴らしき連中について、マルケリヌス以前に記録がないわけではありません。西暦139年、エジプトの地理学者プトレマイオスはフーノイ(Xunoi)という部族に言及し、「スニ(Suni)の統治下にあるポントス地方(黒海北岸)のバスタルナエとロクソラニ(サルマタイ系部族)の間に住んでいる」と述べています。また5世紀のアルメニアの史書によれば、サルマタイの近くにはフンニ(Hunni)という部族がおり、バルフ(Kush)の街が彼らに攻略されたのちフーヌク(Hunuk)と呼ばれるようになったと述べています。キオニタエによるバルフ攻略を伝えているのでしょう。

 サルマタイは、紀元前4世紀頃から黒海北岸に現れ、スキタイに代わってこの地域を支配しました。その範囲はアラル海の北岸あたりまで及んだようですが、統一された国家でも部族連合でもなく、多数の独立した部族に分かれていました。ローマ帝国やパルティアはしばしば彼らと戦い、あるいは傭兵として雇用しました。紀元前後頃にはサルマタイ東部のアラン人が有力となり、サルマタイの領域をほぼ覆いました。漢語史料で奄蔡や阿蘭と呼ばれる人々で、1世紀から2世紀にはしばしばカフカース山脈を越えてパルティアへ侵攻しています。その勢力は侮りがたいものがありました。

 アンミアヌス・マルケリヌスによると、アラン人は背が高く美しく、頭髪は黄色(金髪)で目は輝いていました。彼らは家を持たず、農具を使わず、荷車の中で生活し、乳と肉を常食とします。荷車は彼らの家であり、子供をその中で生み育て、荒野を移動して牧草地に至り、荷車を並べて集落を作ります。その鎧は軽く俊敏で、スキタイと同じく敵の頭皮を剥いで馬の飾りにしたといいます。考古学的には、彼らの武装はスキタイより重装備でサルマタイ的であり、長槍・長剣・馬鎧がかなり普及していたようです。

 西暦162年から180年にかけて、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは「マルコマンニ戦争」と呼ばれる一連の戦役を行いました。マルコマンニとは「辺境(march)の人々」を意味する名で、現在のチェコからオーストリア北部にかけて居住し、しばしばローマ帝国の国境を脅かしていました。言語はゲルマン系と思われますが、ゲルマン化したケルト人も含まれていたようです。彼らはローマから承認される王(代表者)を頂き、傭兵ともなりましたから、漢に対する南匈奴や烏桓、鮮卑に近い存在です。

 しかし彼らはドナウ川流域の諸部族と提携し、大挙してローマ領内へ侵攻を開始しました。ゲルマン系のみならず、西スラヴ系と思しきヴェンド人、サルマタイの一派であるヤジュゲスらも加わって、帝国を揺るがす大戦争となります。特に被害が大きかったのはパンノニア(ハンガリー)とダキア(ルーマニア)で、一部は防御線を破ってアドリア海沿岸のアクィレイアを包囲し、別の集団はバルカン半島を南下してアテナイを襲撃します。国境付近の住民は難民化し、疫病も発生して、帝国は未曾有の危機に瀕しました。

 皇帝は非常事態宣言を行い、軍事力を強化して蛮族を防ぐとともに、分断工作を行って敵の分裂を図ります。激戦の末、175年にはヤジュゲスがローマに屈服し、捕虜10万人を解放して騎兵6000を提供しました。彼らはブリタニアへ派遣され、これによりいわゆる「アーサー王神話」の原型がもたらされたとする説もあります。皇帝は180年にウィーンの陣営で崩御しますが、皇太子コンモドゥスが後を継ぎ、戦役はどうにか終結しています。

軍人皇帝

 このマルコマンニ戦争は、鮮卑大人の檀石槐が漢の長城に侵攻した時期とほぼ重なります。おそらくは気候変動による南下運動でしょう。考古学的調査と突き合わせると、この頃ポーランドの北部沿岸(ポメラニア地方)からゲルマン系のゴート族が南下していた形跡があります。彼らはヴィスワ川と支流のブク川伝いに南東へ移動し、ウクライナに入りました。

 ゴート族は騎馬遊牧民ではありませんが、南はサルマタイやアラン人を併合してクリミアまで至り、アラン人の勢力はドン川まで退きました。一方でサルマタイやアラン人はゴート族に馬術や戦術を教え、強力な戦闘力を持つ部族連合体となっていきます。

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 西暦173年頃、ローマ帝国領トラキア(ないしモエシア)で一人の男児が生まれました。彼はマクシミヌス・トラクス(トラキア人)と名付けられ、父がゴート族(あるいはトラキアのゲタエ族)、母がサルマタイ系のアラン人であったとされます。成長すると身長が2メートル超という大男になり、武勇に優れていたことからローマ軍に入隊、たちまち頭角を現します。

 180年に即位した皇帝コンモドゥスは暴君で、192年に暗殺されます(董卓と同年です)。193年には各地で皇帝が割拠し、帝国は一時分裂しますが、まもなく将軍のセプティミウス・セウェルスが混乱を収拾し再統一します。彼は軍事力を強化して平和を取り戻し、パルティア遠征も成功して権威を確固たるものとします。袁紹や曹操が天下統一したようなものでしょうか。トラクスはこの皇帝のもとでキャリアを積み、可愛がられたといいます。

 211年に彼が崩御すると、その子カラカラや親族たちが跡を継ぎますが(セウェルス朝)、235年に皇帝アレクサンデルが弱腰外交を繰り返したため軍が反乱を起こし、暗殺されます。この時、軍によってマクシミヌス・トラクスが皇帝に擁立されました。彼は238年に殺されますが、蛮人あがりの軍人でも皇帝になる時代がやってきたのです。これを軍人皇帝時代といい、284年のディオクレティアヌスの即位まで50年に及びます。チャイナでいうとほぼ三国時代で、諸葛亮の死から孫呉の滅亡ぐらいまでです。

 彼らは帝国各地の軍団兵に担がれて帝位を僭称し(元老院とローマ市民に承認されなければ僭称です)、かつ短命政権が続いたため統治は安定せず、サーサーン朝ペルシア帝国はこれを好機として東方で勢力を広げました。また混乱に乗じて各地のゲルマン系諸族が南下し、国境を脅かします。

 238年から、ゴート族はドナウ川を超えてローマ領内に侵攻し、バルカン半島を荒らし回りました。251年には迎撃に来た皇帝デキウスとヘレンニウスを戦死させ、267年からは船で襲来し、黒海やエーゲ海沿岸を荒らし回っています。こうした襲撃にはゴート族の他、ゲピド・ヘルール・サルマタイなど多数の部族が加わっていたようです。皇帝クラウディウス2世やアウレリアヌスは彼らを撃退しますがきりがなく、271年にはついにドナウ以北のダキア属州を放棄してゴート族に与え、そこへ住まわせました。

 これによりゴート族はややおとなしくなり、ローマ帝国もディオクレティアヌス以後はやや帝位が安定します。チャイナでも晋による天下統一以後はしばし平穏な時期が訪れましたが、ローマでは劉淵や司馬睿ならぬコンスタンティヌス大帝が現れ、太平道や仏教ならぬキリスト教を公認・支援して権力と権威を盤石とします。帝国の事実上の首都機能は東方へ移されました。

蛮族襲来

 大帝の崩御後、東方にフン族(ラテン語形Hunni/Chuni、ギリシア語形Ounnoi)が出現します。大帝の子コンスタンティウス2世の時、キオニテスの王グルムバテスがペルシア軍に参加していたのは前に見ましたが、これに続いてフン族がヴォルガ川を西へ渡り、北カフカースと黒海北岸へ侵入して来たのです。これは古代の史書では西暦370年頃とされています。

 マルケリヌスらによると、この頃ゴート族は二つの部族に分かれており、東側をグルツンギ(荒野の民)、西側をテルヴィンギ(森の民)と言いました。すなわち東ゴート西ゴートです。フン王バランベルはまずアラン人を征服すると、連合して東ゴートの集落に襲いかかり、その王エルマナリクを自決に追いやりました。エルマナリクの甥の子ヴィテルメールが跡を継ぎ、フン族との戦闘を続けますが、376年に戦死します。

 これにより東ゴートの大半がフン族に服属し、残りは難民となって西へ逃れました。彼らはドニエストル川の西にいた西ゴートのもとを経て、南のローマ帝国領を目指します。フン族はこれを追って西ゴートを攻撃し、王アタナリックは迎撃に出ますが敗れ、カルパチア山脈の西まで後退しました。東ゴートの難民は周辺諸族を合わせて30万人にも膨れ上がり、ドナウ川を渡ってローマの庇護を求めたのです。皇帝ウァレンスは10万人をトラキアに移住させてなだめようとしますが、勢いのついた難民の移動は止まりません。

 彼らは武装しており、提供された食糧が足りないとして各地で掠奪を始めます。378年、皇帝ウァレンスはハドリアノポリス(エディルネ)で彼らを迎撃しますが戦死し、帝都コンスタンティノポリスも危機に陥ります。跡を継いだテオドシウス1世は跳梁跋扈するゴート族を激戦の末に鎮圧し、同盟者として契約を結び、北部国境を守らせることとします。漢や魏晋が南匈奴や烏桓・鮮卑と手を結んだのと同じですね。マルケリヌスはウァレンスの死で史書を擱筆していますが、391年頃までは生きていたようです。チャイナでいうと石勒の晩年から北魏の勃興頃までにあたります。

 フン族はこの時はローマ領内まではやって来ず、アラン人やゴート族の地を支配することで満足していました。かつてのスキティアやサルマティアはついにフン族の領域となったのです。古代の史書では彼らをスキタイとかキンメリア人と呼んでいますが、柔然を「犬戎」と呼ぶぐらいに時代錯誤で、雅称に過ぎません。匈奴やスキタイに様々な生業・出自・言語の人々が混在していたように、フン族と総称される連中も多種多様だったでしょう。

 マルケリヌスは、ゴート族からの伝聞としてこう記しています。

 彼らは人間というより二本足の野獣で、背は低くがっしりした体格。顔は平たくて髭は少なく、目は黒く小さい。森に棲み、多くの鼠の皮を麻糸で綴り合せた衣服を纏い、洗いもせずにボロボロになるまで着ているので、常に悪臭を放つ。山羊の皮で作った丸い帽子を被り、なめしていない羊の皮を麻糸で綴り合せた靴やズボンを履く。それで長時間の歩行はできず、常に馬に乗る。人馬一体の戦いぶりで、馬を下りて戦うのをひどく嫌い、馬の背と両脚の間に生肉を挟んで持ち運び、火を通さずに食らう。彼らの住まいは、牛が牽く二輪の荷車で、女はその中で子供を生み育てる。

 コーカソイド系のアラン人とはだいぶ異なり、どうもモンゴロイド系の特徴を持つようです。またゴート系ローマ人の歴史家ヨルダネスは、551年に著した『ゴート史(Getica)』でこう述べています。

 元々は沼沢地に住んでいた野蛮な種族。矮小で汚らしく、弱々しい部族であり、かろうじて人間でしかない。他者をうんざりさせる言語だが、僅かに人間の言葉に似ている。フン族は恐怖によって敵を逃げ出させた。なぜなら彼らの浅黒い顔つきは恐ろしく、巨大な不細工な塊とも言うべきで、針の孔とも言うべき眼を持つ。彼らの強健さは、その野蛮な外見に現われている。惨たらしいことに、彼らは赤子が生まれたその日に剣で男子の頬を切開し、彼らは母乳の滋養を受ける前に傷を耐えることを学ばねばならない。従って成年になっても、その切痕のために鬚なしの醜態の相を示す。彼らの背丈は短く、身動きは素早く、機敏な騎手で、肩幅は広く、弓矢を用いるのに巧みであり、そして誇りを持って常に直立した頑丈な首を持っている。彼らは人間の形をしているが、野獣の獰猛さを有している。

 どちらもフン族に駆逐されたゴート族の証言ですし、ヨルダネスに至っては200年近く後の記録ですから差っ引かねばなりませんが(彼はフン族の起源を「ゴート族の魔女が悪霊と交わって沼地で産んだ」と書いています)、モンゴロイド系の騎馬遊牧民がモンゴル人めいてやって来たイメージがありますね。のちのアッティラも同様の外見だったといいます。

 また、彼らは顔面を広げて敵に恐怖心を与えるため、幼児の頃から頭や顔を縛り付けて平たくすると言われています。実際、発掘されたフン族の頭蓋骨は、人工的に頭蓋骨が変形した形跡が見られます。これは意図的なものというより揺り籠によるものともいい、世界各地に同様の例があります。

 ただ、チャイナの史料における匈奴や胡人は、割とコーカソイド的な特徴を持つ者が多いようです。劉淵は背が高くヒゲが長いと言われますし(江蘇省出身の劉邦もそうですが)、五胡のうち匈奴や羯族は目が深く鼻が高くてヒゲが多いと記されます。大月氏や大宛、康居や高車もあまりモンゴロイドっぽくありません。とすると、フン族は匈奴ではないのでしょうか。あるいはモンゴロイド的な特徴が多い集団だったのでしょうか。かつて大帝国を築いた匈奴を僭称したとも、月氏や烏孫などがそう呼んだとも諸説あります。

 ともあれ、こうしてローマ帝国の北方にフン族が現れました。彼らはやがてローマ領内に侵入し、天下を大混乱に陥れるのです。

◆電◆

◆撃◆

【続く】

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