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【つの版】ウマと人類史28・月氏嚈噠

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 北魏が華北を統一しつつある頃、モンゴル高原には柔然/蠕蠕という巨大な騎馬遊牧民の部族連合が形成されました。北魏は長城の整備や大遠征を行って柔然と激しく渡り合い、漢と同じく西域諸国へ手を伸ばして同盟を呼びかけます。この頃ちょうど柔然と領土を巡って争っていたのが、北匈奴の末裔とされる悦般です。彼らは西方の史料にいうエフタルのことともいいます。

◆風◆

◆谷◆

 エフタル/エフタル人(Hephtalitai)とは東ローマ系史料での呼称で、アブデル(Abdel,Avdel)とも記されます。バクトリア地方での記録に残る彼ら自身の呼称はエボダル(Ebodal,Ebodalo)でした。アルメニアやペルシア系の史料ではヘプタル(Hephtal,Hep't'al,Tetal)です。インド系史料においては、彼らはフーナ(Huna)や白いフーナ(Sveta Huna)、またはトゥルシュカ(Turushka)と呼ばれます。フーナとは匈奴、トゥルシュカとはテュルクのことだともいいますが、これに関しては古来多くの議論があります。

魏書西域

 まず、魏書西域伝を読んでみましょう。悦般国の次は者至拔国で、疏勒(カシュガル)の西にあります。その西に迷密国(マーイムルグ、ペンジケント)があり、その西に悉萬斤国(サマルカンド)があります。このルートはカシュガルからパミール高原の北麓を西へ抜けたものでしょう。悉萬斤国の西に忸密国があり、これはブハラのことのようです。次の洛那(破洛那とも)国は「もとの大宛国」とありますからフェルガナ盆地です。

 その次は粟特(ソグド)国です。これは葱嶺(パミール)の西にあり、古の奄蔡(アオルソイ)で、一名を溫那沙といい、大きな澤(アラル海?)に居住し、康居(タシケント)の西北にあります。かつて匈奴がこの国の王を殺し、現在の王の忽倪は三代目だといいますから、そう古くない時代にそのような事件があったようです。悦般といいこの頃の中央アジアには、匈奴の末裔らしき人々がうごめいていたのです。

 その次は波斯(ペルシア)国、すなわちイラン高原からイラクに及ぶサーサーン朝ペルシア帝国です。アルサケス朝パルティア帝国を3世紀になって乗っ取りましたが、その統治形態は大きくは変わっていません。北魏や劉宋などチャイナ諸国とも使者を往来させており、その文化は「シルクロード」を通って遠く倭国まで伝わったことは良く知られています。しかし、エフタルはどこでしょうか。まだ先です。

 波斯国の北には伏盧尼国がありますが、どこだかわかりません。悉萬斤(サマルカンド)国の西北に色知顕国と伽不單国があり、悉萬斤国の南に伽色尼国があり、その南に薄知国があります。忸密(ブハラ)国の南に諾色波羅国があり、同西南に牟知国があり、西に阿弗太汗国があり、その西に呼似密(ホラズム)国があります。破洛那(フェルガナ)の西北に者舌(チャーチュ)国があり、もとの康居です。どうも順番どおりになっていません。

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寄多羅王

 莎車(カシュガル市ヤルカンド)の西には、山(パミール高原)の谷間(ワハーン回廊)に伽倍・折薛莫孫・鉗敦・弗敵沙が並んでおり、閻浮謁国の高附城(カーブル)に達します。ここはクシャーナ(貴霜)族の興った場所で、次は大月氏(クシャーナ朝)ですが、以前とは様子が違っています。

 大月氏國、都盧監氏城、在弗敵沙西、去代一萬四千五百里。北與蠕蠕接、數為所侵、遂西徙都薄羅城、去弗敵沙二千一百里。其王寄多羅勇武、遂興師越大山、南侵北天竺、自乾陁羅以北五國盡役屬之。
 大月氏国は盧監氏城(バグラーム)に都し、弗敵沙の西にあって、代から1万4500里離れている。北は蠕蠕(柔然)と接し、しばしば侵略を受け、ついに西に遷って薄羅(バクトラ、バルフ)城に都した。これは弗敵沙から2100里離れている。その王の寄多羅は武勇があり、ついに軍を率いて大山を越え、南は北天竺を侵略して、乾陁羅(ガンダーラ)以北の五国を服属させた。

『後漢書』や『魏略』に見えるクシャーナ朝も北インドをガンジス流域まで征服していましたが、この頃にはバグラームからバルフに遷都していたようです。西方史料や古代貨幣の分析等によると、西暦229年に魏に使者を派遣した大月氏王の波調(クシャーナ朝の王ヴァースデーヴァ/バゾデオス)は、サーサーン朝ペルシア帝国と戦って敗れ、大きく領土を失いました。

 ペルシアはクシャーナ朝からバクトリア(トハリスターン)やガンダーラを奪い取り、233年頃に皇族を「クシャーナ王(クシャーン・シャー)」に封じて統治を委ねています(クシャーノ・サーサーン朝)。初代王アルダシールは245年に逝去しますが、二代目のぺーローズはカーブルとガンダーラを征服してクシャーナ朝を北インドへ駆逐し、西はメルブとヘラートまで支配権を及ぼします。北はアム川を国境としていますが、ソグディアナまでも服属させていたでしょう。三代目のホルミズド(在位:275-300年)はペルシア皇帝バハラームの子で、東方諸侯とともに本国へ反乱を起こし、「クシャーナの諸王の王(皇帝)」と称してほとんど独立しました。

 彼の死後、ペルシア皇帝ホルミズド2世はクシャーナを短期間接収したらしく、同名のクシャーナ王が在位したことがわかっています。続いてペーローズ2世がクシャーナ王となり、330年から365年まではバハラームが在位しています。彼の時代にクシャーナは縮小され、ペルシア皇帝が南部を統治するようになりましたが、この頃北方から異民族が侵入して来ました。

 ローマ帝国の軍人で歴史家のアンミアヌス・マルケリヌス(330-391頃)によると、ローマ皇帝コンスタンティウス2世(在位:337-361年)の晩年、バクトリア地方にキオニタエ(Chionitae)という蛮族が侵入しました。彼らはトランスオクシアナ(オクソス=ワフシュ=アム川の北、ソグディアナ)に住んでおり、バクトリアに移住してエウセニ(Euseni)ないしキュセニ(Cuseni,クシャーナ人)と混在し、ペルシアに攻め込んだというのです。

 これはホルミズド2世の子シャープール2世(在位:309-379年)の時にあたります。彼はローマ帝国とメソポタミアで戦っていましたが、東方の変事を聞いて駆けつけ、358年までに平定します。キオニタエはバクトリア地方への居住を認められてクシャーナの住民となり、代わりにペルシアの傭兵となってローマ軍と戦ったのです。359年、アミダ(現ディヤルバクル)を包囲したペルシア軍の中に「キオニタエの王グルムバテス(Grumbates)がいた」と記録されています。彼は多くの部下を率いていましたが、その息子は特に目立っていたため、胸にローマ軍の大型弩砲を食らい戦死しました。

 この頃(4世紀中頃)、バルフやクシャーナ領で鋳造されたコインには、「キダラ(Kidara)」という名の人物が刻まれています。これこそ『魏書』西域伝にいう「寄多羅」にほかなりません。サーサーン朝のクシャーナ王バハラームはまだ在位していましたが、キダラは彼を傀儡として実権を握ったらしく、365年にバハラームが逝去した後は「クシャーン・シャー」の称号を受け継いでいます。彼の開いた王朝をキダーラ朝といい、アフガニスタンからガンダーラ、アム川流域にまで及びました。

 とするとマルケリヌスのいう「キオニタエ」はキダラたちと同族なのでしょう。-ites,-itaeは-oi,-aiと同じく「○○人/○○族」を表す接尾語ですから、これを除けばChion(キオン)です。『魏書』西域伝にあるように、この頃パミール高原の西方で「匈奴の残党」が活動していたことを鑑みると、彼らを「匈奴(フンヌ)」と結びつけたくもなります。粟特国は一名を溫那沙というそうですが、これは「フンヌ・シャー(匈奴王)」であるとの説すらあります。悦般王も「単于王」と呼ばれていましたね。当時のソグディアナでもキオンやヒヨンなどと呼ばれる人々がいたことが記録されています。キダラの前のガンダーラ王としてキラダやヨサダ、ペーローズらがおり、彼らも「キオニタエ」の一派だったようです。

 もとのクシャーナ族の王たちはガンダーラからパンジャブ地方に移動し、4世紀中頃まで残存しましたが、ガンジス川流域に興ったグプタ朝マガダ王国に征服されます。キダーラ朝の侵攻はガンダーラまでで食い止められたものの、やがて新たな勢力が北から侵攻して来ることになります。

月氏嚈噠

 魏書西域伝の続きに戻りましょう。次は安息国(アルサケス朝パルティア)です。これは葱嶺(パミール)の西にあり、北は康居(タシケント)、西は波斯(ペルシア)と接しており、大月氏(クシャーナ)の北西にあるといいますから、アム川流域のトルクメナバードあたりでしょうか。パルティア本国はすでに滅びましたが、その残党というところでしょう。

 次の大秦国(ローマ帝国)はすでに見ました。阿鈎羌国は莎車(ヤルカンド)の西南にある山国で、波路国はその西北にあります。パミール高原のあたりでしょう。次の小月氏国は波路国の西南(南?)の富樓沙城(ガンダーラ地方のプルシャプラ、ペシャーワル)に都し、その王は大月氏王寄多羅の子で、寄多羅が匈奴に駆逐されたのち、西に遷ってその子に城を守らせたとあります。キダーラ朝クシャーナ王国は匈奴の攻撃を受けたようです。さらに波路の西南(東南?)には罽賓(カシミール地方か)もあります。

 次は吐呼羅国(トハーリスターン)で、東西は二千里(1000km)、南北は一万里(5000km)もあり、それぞれ范陽国、悉萬斤(サマルカンド)、連山(ヒンドゥークシュ山脈)、波斯(ペルシア)に接しています。ペルシアの南には海しかありませんから、波斯と連山の北で悉萬斤の南ということでしょうか。メルブからパミールまで1000kmはありますが、サマルカンドからヒンドゥークシュ山脈まではせいぜい500km(一千里)です。

 次の副貨国は、東は阿副使且国、西は没誰国、南は連山、北は奇沙国に至るとあります。東西は一千里、南北は一千五百里(750km)といい、トハーリスターンの次ですからヒンドゥークシュ山脈(連山)の南、アフガニスタンの南部からパキスタンにかけての地域でしょうか。次は南天竺国と疊伏羅国で、パンジャーブ地方でしょう。次の拔豆国は東西750里(375km)、南北900里(450km)あり、それぞれ多勿當国、旃那国、罽陵伽(カリンガ)国、弗那伏且国と接しています。カリンガとはインド東部の王国ですから北インド中部でしょうが、弗那伏且は「フーナ」と関係があるのでしょうか。

 さて、いよいよ嚈噠です。

 嚈噠國、大月氏之種類也。亦曰高車之別種、其原出於塞北。自金山而南、在于闐之西、都烏許水南二百餘里、去長安一萬一百里。其王都拔底延城,蓋王舍城也。其城方十里餘、多寺塔、皆飾以金。風俗與突厥略同。
 嚈噠国は大月氏(クシャーナ)の一種である。また高車(テュルク)の別種であるともいい、もとは塞(長城)の北にいた。その勢力は金山(アルタイ山脈)の南から于闐(ホータン)の西まで及び、王都は烏許水(ワフシュ川、オクソス、アム川)の南200余里(100km)、長安から1万100里の彼方にある。都は拔底延城といい、おそらく(仏典の)王舎城であろうか。その城は方10里(5km)余り、(仏教の)寺塔が多く、皆金で飾られている。習俗は突厥とほぼ同じである。

 位置的にはアフガニスタン北部のバクトリア地方/トハーリスターンにあたるはずですが、魏書では古い時代と新しい時代の地理が混在しており、吐呼羅国と大月氏と嚈噠が別々に記載されています。その習俗は「突厥とほぼ同じ」といいますから、突厥が勃興する6世紀中頃以後の記録です(魏書の編纂は554年)。ややこしいですが、かいつまんで見ていきましょう。

 其俗兄弟共一妻、夫無兄弟者其妻戴一角帽、若有兄弟者依其多少之數、更加角焉。衣服類加以纓絡。頭皆剪髮。其語與蠕蠕、高車及諸胡不同。眾可十萬。無城邑、依隨水草、以氈為屋、夏遷涼土、冬逐暖處。
 その習俗では、兄弟が一人の妻を共有する。夫に兄弟がなければ、その妻は角が一つの帽子をかぶる。もし夫の兄弟が多ければ角が増える。衣服には瓔珞(首飾りや胸飾り)を加える。頭髪はみな散切り頭である。その言語は蠕蠕や高車、諸胡とは同じでない。人口は10万ばかり。(王城の他には)城邑(都市)がなく、水や牧草を求めて移動し、毛氈(フェルト)を家屋としている。夏は涼しい土地へ遷り、冬は温暖な場所へ行く。

 典型的な遊牧民ですが、彼らはテュルク・モンゴル系の言語ではなく、現地のイラン系バクトリア語を話しているようです。

 分其諸妻、各在別所、相去或二百、三百里。其王巡歷而行、每月一處、冬寒之時、三月不徙。王位不必傳子、子弟堪任、死便授之。其國無車有輿。多駝馬。用刑嚴急、偷盜無多少皆腰斬、盜一責十。死者、富者累石為藏、貧者掘地而埋、隨身諸物、皆置冢內。其人兇悍能鬬戰。西域康居、于闐、沙勒、安息及諸小國三十許皆役屬之、號為大國。與蠕蠕婚姻。
 (王は)その妻たちを各地に分けて住まわせ、互いの間は200-300里も離れていることもある。王は彼女たちの間を経巡り、毎月一箇所にとどまる。冬の寒い時は三ヶ月経っても移動しないことがある。王位は必ず子に伝え、弟が任に堪えるならば死後にこれを授ける。その国には車はなく、輿(こし)がある。ラクダやウマが多い。刑罰を厳しく執行し、盗みは多少に限らずみな腰斬(胴体切断)とし、(返済能力があれば)盗品に対しては十倍の返済をさせる。人が死ぬと、富裕な者は石を重ねて遺体を隠し、貧乏人は地面を掘って埋め、副葬品を塚の内におさめる。住民は兇暴剽悍で戦闘に長けている。西域の康居、于闐、沙[疏]勒、安息や30ばかりの小国は、みなこれに服属して大国と号している。蠕蠕とは婚姻関係を結んでいる。
 自太安以後、每遣使朝貢。正光末、遣使貢師子一、至高平、遇万俟醜奴反、因留之。醜奴平、送京師。永熙以後、朝獻遂絕。
 北魏の太安年間(455-459年)以後、毎年朝貢した。正光末年(525年)に使者を遣わして獅子一頭を貢納した。しかし高平郡(寧夏の固原市)に至ったところで万俟醜奴の反乱(524-530年)に遭遇し、留められた。反乱が平定されると北魏の都(洛陽)に送られた。永煕年間(532-534年)以後、朝献はついに絶えた。

 北魏は534年に東西に分裂し、東魏は550年に北斉となり、西魏は556年に北周となりました。魏書は北斉で編纂されたため、東魏を正統とし、西魏や北周を貶していますが、西域からの使者は位置的に西魏・北周に来るようになったのでしょう。

 嚈噠の南1500里には漕国があり、瓜州(甘粛省瓜州市)から6500里離れているといいます。その先は北魏の時代に仏典を求める僧侶らが経巡ったことがありますが、里数は記されていません。それによると、于闐の西の朱居国と葱嶺の東の渴槃陁、その西の鉢和(阿鈎羌)国は嚈噠に服属しています。鉢和国とその西南の波知(波路)国は山の中にあって寒く貧しく、その南の賒彌国は嚈噠に服属しています。賒彌国の南に烏萇国(ウッディヤーナ、スワート)があり、その西の乾陀国(業波国、ガンダーラ)は嚈噠に破られたことがあります。これに続いて再びソグディアナの諸国が並べ立てられていますが、これらは後から付け加えたものでしょう。

 時代が重なっていてわかりにくいですが、つのなりに整理するとこうなります。匈奴(フンヌ)の一部は漢や鮮卑に撃ち破られたのち、シル川の北やタシケント付近、ソグディアナへ移住し、現地人と混ざり合いました。これがキオンやヒヨン、マルケリヌスのいうキオニタエでしょう。4世紀中頃、彼らの一部は大挙して南下し、アム川を越えてバクトリア地方やガンダーラへ侵入します。ペルシア帝国は彼らに領土を与えて手懐け、旧クシャーナの地はほぼキオニタエの支配下に置かれます(キダーラ朝)。

 しかし北方からのキオニタエ諸族の南下の波は止まらず、キダーラ朝も南へ押し出され、5世紀頃にはエフタルがクシャーナの地を征服して、パミールの東まで勢力を伸ばしたわけです。かつてのクシャーナ朝も北方から来てサカ族を駆逐併合し、2世紀頃にはそれぐらいの勢力になっていましたし、サカもギリシア人のバクトリア王国を粉砕して南へ追いやっています。

 4世紀中頃というと、チャイナでは代国や燕の北方に高車(テュルク)が現れた頃ですから、内陸ユーラシアで例の玉突き現象が起きたのでしょう。テュルクがバイカル湖付近から南下し、モンゴル高原やチャイナ、アルタイや天山に拡散したことで、カザフスタンにいたキオニタエが押し出されたと考えられます。代・燕・秦や北魏がこれを押し返すと、反動で東西の諸部族が連合して柔然可汗国が形成されたのです。中央アジア諸国は柔然や高車の侵略に対抗して大連合体となり、エフタル「帝国」となったわけです。

◆使徒◆

◆鳥人◆

 エフタルについてはさておき、4世紀中頃には西方に「フン族」が現れています。彼らは黒海北岸に侵入してサルマタイ諸族やアラン人、ゴート族などを駆逐し、ローマ帝国を蹂躙することになります。

【続く】

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