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【つの版】度量衡比較・貨幣49

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1511年、マラッカ王国がポルトガル人によって征服されます。ヨーロッパの西の端からアフリカ大陸沿岸を巡り、インド洋を通って遥々やってきたポルトガル人が、ついにマラッカ海峡を抑えて南シナ海に出現したのです。そこまでの道のりをポルトガル側から辿ってみましょう。

◆Atlantic◆

◆Ocean◆

葡牙略史

 ポルトガルはイベリア半島の西端、大西洋に突き出した小国です。古代には先住民の名からルシタニアと呼ばれ、ローマ、スエビ、西ゴート、イスラムの支配を受けました。868年-878年、イベリア北部のキリスト教国アストゥリアスの王アルフォンソ3世が現ポルトガル北部に出兵し、モンデゴ川をイスラム勢力との境として、北部にポルトゥカーレ伯領、南部にコインブラ伯領を置きます。これが現ポルトガルの起源です。

 ポルトゥ・カーレとはドウロ川の河口に位置する港(ポルト)で、ローマ時代に入植地となりました。カーレは現地のケルト語で港を意味するともいいますから、ポルトガルは最初から港湾国家として発生したのです。

 アストゥリアス王国(910年からレオン王国)が1037年にカスティーリャ王国に併合された後、1093年にカスティーリャ王アルフォンソ6世は娘婿のエンリケ(フランス・カペー王家の分家のブルゴーニュ家出身)にポルトゥカーレおよびコインブラの伯領を授けます。彼の息子アフォンソは貴族の支持を集めてイスラム教国ムラービト朝と戦い、1139年にカスティーリャから独立してポルトガル王を称しました。1147年には第二回十字軍と協力してリスボンを征服(再征服)し、1255年にコインブラから遷都しました。

 リスボンはテージョ川の河口に位置する港町で、フェニキア語アリス・ウボ(安全な港)を語源とし、古来天然の良港として栄えました。ポルトガルはこの頃にはレコンキスタ(再征服、イスラム教徒との戦争)もほぼ終わっており、フランスやイングランド、フランドル、ジェノヴァなどと盛んに交易を行って大いに繁栄します。

 ポルトガルの貨幣史を見ると、1179年にディニェロ(dinheiro)という貨幣が発行されています。これはスペインの貨幣を真似たもので、12ディニェロが1ソルド、20ソルドが1リブラの銀に相当すると定められます。すなわち1リブラ=20ソルド=240ディニェロです。重さは約1gでしたが、銀と銅が半々のビロン貨で、銀1gの価値を現代日本円で3000円としても1500円ほどです。1ソルドは1.8万円、1リブラは36万円になります。半ディニェロに相当するmaelhaも発行され、これは750円ほどです。1200年頃には15ソルド(27万円)に相当するモラビティーノ(マラベディ)金貨が導入されましたが、時代とともにこれらの価値は値下がりしていったようです。

 1279年に即位した国王ディニス1世は46年も在位し、王権を強化して貴族や聖職者の権力を抑制、農業・漁業・商業・植林・教育・文芸を奨励してポルトガルを繁栄に導きます。1317年にはジェノヴァ人を招聘して航海技術指導と海賊防衛に当たらせ、ポルトガル海軍を創設しました。また1312年にフランス王がテンプル騎士団を取り潰すと、ディニスは教皇と取引して1318年に後継組織「キリスト騎士団」を創立、彼らのポルトガルにおける財産を譲り受けさせました。これは王立の金融機関として機能し、後世までポルトガルの財政を支えることになります。

 しかしディニスの崩御後は黒死病や教会大分裂の影響で国内が混乱し、1383年には男系最後の王女ベアトリスがカスティーリャ王フアンと結婚することになり、併合による消滅の危機に瀕します。

 これに対し、ベアトリスの祖父ペドロ1世の庶子ジョアンは反カスティーリャ派の貴族や下層市民の支持を集め、親カスティーリャ派政権を打倒します。フアンはリスボンに攻め寄せますが撃退され、ジョアンはこの功績によって1385年にポルトガル国王に擁立されました。彼はアヴィス騎士団という騎士修道会の団長であったため、この王朝をアヴィス朝と呼びます(庶子ですが男系ではブルゴーニュ/ボルゴーニャ家から継続しています)。

 ジョアンはカスティーリャおよびその背後のフランスを牽制するため、1386年に英国とウィンザー条約を締結し、翌年ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパを娶りました。彼女の産んだ子らのうちドゥアルテは王位を継ぎ、ペドロはコインブラ公(のち摂政)、エンリケはヴィゼウ公、ジョアンはポルトガル軍総司令官、フェルナンドはアヴィス騎士団の団長となります。また王女イザベルはブルゴーニュ公フィリップ3世に嫁ぎシャルル突進公を産んでいます。

 貨幣史を見ると、1380年にはフェルナンド1世により6リブラ相当のドブラ金貨、半リブラ=10ソルド相当のリアル(real,「王の」)銀貨、7ディニェロ相当のピラルトなどが導入されています。しかしこの頃1ソルドは9ディニェロに相当し、1リアルは3.2gで銀含有率75%ですから、銀2.4g(7200円)にしかなりません。1ソルドは720円、1ディニェロは80円となります。とすると1リブラは2リアル=1.44万円、6リブラは8.64万円です。ドゥカート金貨が12万円だか10万円だかですから、それぐらいにはなるでしょう。
 ジョアン1世は貨幣改革を行い、3.5リブラ相当のリアル・ブランコ(「白い」)銀貨、1/10リアル・ブランコ相当のリアル・プレート(「黒い」)銀貨を発行し、これらを基軸通貨としました。当時の1リブラを1.44万円とすればブランコは5万円(半ドゥカート)、プレートは5000円です。この頃は欧州全体で地金飢饉が起きており、貨幣は縮んだり価値が切り下げられたりが日常茶飯事で、古い貨幣や外国の貨幣の方がまだ信用されていました。

航海王子

 ポルトガルの海外飛躍の礎となったのがジョアン1世の子エンリケです。エンリケは1414年、21歳のとき父とともにジブラルタル海峡を渡り、アフリカ大陸北岸の街セウタを攻略しました。この頃モロッコのマリーン朝は内乱で崩壊しており、それにつけこんだ形です。またイベリア半島南部にはイスラム系のナスル朝グラナダ王国が残っていますが、陸続きで勢力を広げると隣国カスティーリャを刺激してよくありません。

 この戦いで武功を立てたエンリケは騎士に叙勲され、ヴィゼウ公の地位を授かりました。伝説によれば、彼はこの地でイスラム商人による交易活動を目の当たりにし、砂漠の彼方に黄金を産出する王国があることを耳にしました。またこの頃、伝説のキリスト教国の王「長老ヨハネ」がエチオピアにいるとの噂が流れており、エンリケは海路でのアフリカ探検を目論みます。

 ポルトガルは古来欧州の西端にあって海運国として栄え、ジェノヴァや英国、イスラム世界とも交流がありましたから、航海に関する技術や知識は欧州有数でした。東はカスティーリャ王国、西は大西洋に阻まれているとなれば、アフリカ大陸西岸を南下する航路を開拓し始めたのは自然です。ヘロドトスによれば古代フェニキア人はエジプト王の命令でアフリカ大陸の周航を成し遂げたといいますから、伝説的とはいえ先例はあるわけです。

 またエンリケは1416年頃、ポルトガル南西のサン・ヴィセンテ岬のサグレスに「王子の村」と呼ばれる集落を築き、造船所や天文台、地図や航海の学校を建設し、航海士や地図製作者を養成し始めたともいいます。のちに破壊されたため謎が多いのですが、近隣の港町ラゴスは造船地帯として発展を遂げます。エンリケはここを拠点として各地に探検船団を派遣し、1419年には大西洋に浮かぶマデイラ諸島を、1427年にはアゾレス諸島を発見しました。その南のカナリア諸島は、14世紀にはヨーロッパ人に再発見されており、1402年からカスティーリャ王国によって征服されています。

 1434年には強風により難所であったボハドール岬をエンリケの派遣した船団が初めて越えます。前年には父ジョアンが崩御しており、跡を継いだ兄ドゥアルテはエンリケに対して「ボハドール岬以遠の地における商業利益の5分の1を与える」と約束しました。しかし1437年、エンリケはセウタの西のタンジェ(タンジール)を攻略しようとして失敗し、弟フェルナンドを捕虜にされています。イスラム側は「セウタと引替えなら釈放する」と要求しますが飲むわけにもいかず、ドゥアルテは翌年ペストに罹って崩御します。エンリケは兄ペドロとともにドゥアルテの子アフォンソを6歳で即位させ、ペドロを摂政として、引き続き探検船団の派遣に注力しました。

 1433年、ドゥアルテ王は貨幣改革を行い、3.2g・銀純度83%のリアル・ブランコ銀貨を基軸通貨としました。銀含有量は2.656gとして8000円ほどに相当し、ソルド、ディニェロ、リブラ、プレートなどは廃止されます。

船舶改良

 ポルトガルの航海の活発化には、船舶の改良も関わっています。古来地中海世界ではガレー船が活用されており、多数の人力で櫂を漕いで動かしました。また複数の帆柱を有しており、風があれば帆を張って進むこともできました。一方、北ヨーロッパでは一本の帆柱と横帆を持つ頑丈な帆船「クナール」が古来海洋交易に用いられ、その影響を受けてフリースラント(オランダ)で「コグ船」や「ハルク船」が建造され始めます。

 14世紀から15世紀にかけて、こうした帆船からキャラック船キャラベル船が誕生します。キャラック(carrack、ポルトガル語caracca)はラテン語のcarrus(車)、ないしギリシア語のkerkouros(はしけ)に遡るとされ(さらに遡ればフェニキア語とも)、シリア語qarqura、アラビア語qaraqirを経て中世欧州に入ったともいいます。また単にnao(船)とも呼ばれました。キャラベル(caravel)はギリシア語karabos(小舟、ザリガニ、甲虫)に遡り、さらに遡ればセム諸語のアクラブ(aqrab「サソリ」)で、カニをcrab、フンコロガシをscarabeと呼ぶのも同じ語源です。

 これらの帆船は、ガレー船のように多数の漕手を必要とせず、複数の帆柱に張られた複数の帆によって、風の力だけで長距離を航海することができました。人口と木材資源の少ない小国ポルトガルが外洋を遠洋航海するには最適です。ポルトガルより遥かに人口の少ないヴェネツィアではガレー船が主でしたが、これは彼らが風と潮流の変わりやすい地中海などを舞台としており、周辺地域から多数の漕手と木材を確保できたためもあります。

黄金到来

 エンリケはこれらの帆船によってアフリカ西岸の探索を進めさせ、1441年にはモーリタニア沿岸のブランコ岬(ラス・ヌアジブ)に、1443年にはその南のアルギン湾に、1444年にはサハラ南端のセネガル川の河口にポルトガルの船団が到達します。エンリケはこれらの地域に要塞を築かせて入植させ、ついに大量の黄金を持ち帰らせることに成功しました。

 1457年、ポルトガルではこれらの黄金を用いてクルザード(十字架の)金貨が発行されました。重量3.55g、純度99%とヴェネツィアのドゥカート金貨に匹敵し、ほぼ等価とみなされます。また教皇庁からはポルトガル王国に対して「ボハドール岬以南における貿易の独占権」が授けられます。マデイラ島ではサトウキビ栽培が始まり、アフリカ沿岸には交易地が設置されて、現地民から黄金や象牙を買い付けます。ポルトガルからはワインや布地、銅器などが輸出され、莫大な利益をもたらしました。

 1460年、ポルトガルの船団がカーボベルデ諸島シエラレオネ沿岸にまで到達した頃、エンリケは66歳で世を去りました。彼は自ら探検船団に乗ることはありませんでしたが、その功績により「航海者(O Navegador)」と讃えられ、ポルトガルが海の世界帝国となる道筋を切り開いたのです。

◆O◆

◆Navegador◆

【続く】

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