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【つの版】ウマと人類史:中世後期編05・大元北走

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1368年8月、大元皇帝トゴン・テムルは大都を放棄し、皇太子アユルシリダラ、皇后奇氏とともに上都へ逃亡しました。江南と漢地の大部分は応天府(南京)を都とする大明皇帝・朱元璋に服属し、帝国は莫大な財源であった征服地を失います。しかし、モンゴル帝国はまだ滅んでいません。

◆中◆

◆華◆

大元北走

 大都を占領した大明の将軍・徐達でしたが、長安の李思斉を攻撃していたココ・テムルが太原から攻め寄せ、一時大都を奪還します。徐達はいったん撤退したのち、副将軍の常遇春に太原を攻めさせて大都からココ・テムルを動かすと、12月に撃破して甘粛へ駆逐、再び大都に入って「北平」と改名しました。李思斉は大明に降伏し、これで陝西地方も大明の手に落ちます。

 徐達は甘粛へ進んでココ・テムルと戦い、バトンタッチした常遇春は1369年に大都から上都へ攻め寄せます。トゴン・テムルは6月に上都も放棄して応昌府(内モンゴル自治区赤峰市西部のヘシグテン旗)へ逃れ、7月に常遇春は病没しますが李文忠が兵を引き継ぎます。進退窮まったトゴン・テムルは、1370年4月末に50歳で崩御します。在位37年でした。

 まもなく大明軍が応昌府を攻撃し、皇太子アユルシリダラは十数騎を伴ってカラコルムへ逃亡しました。彼の子マイダリバラほか大元の皇族・官吏・将兵の多くは降伏し、奇皇后もこの時に捕らえられたか殺されたか、死んだかしたのでしょう(史書に記載がありません)。マイダリバラは崇禮侯に封じられ、朱元璋から邸宅を賜給されました。

北元反撃

 カラコルムへ逃れたアユルシリダラは、同年にカアン(皇帝)に即位して反撃を開始します。彼は父トゴン・テムルにウカアト・カアンの諡号を奉り、漢名廟号を恵宗としました。一方朱元璋はトゴン・テムルに「順天応人(天に順じ人に応じ、大明に帝位を譲った)」として「順皇帝(順帝)」と勝手に諡号を贈りました。またアユルシリダラを「故元太子」「元嗣君」と呼んで皇帝と認めず、1368-69年には早くもチンギス・カンからトゴン・テムルに至る史書『元史』を編纂させ、過去の王朝として扱っています。

 一応クビライの頃から史書(実録)編纂は始まっており、大都にはそうした史料もあったため、拙速にそれらを綴じ合わせて作ったものです。史書の中ではもっとも性急に造られたため誤りも多く、同一人物の列伝が二つあったり系譜が適当だったり、同名異人を混同したりと問題が多々ありますが、他の史書との比較検討でこうした誤りを正せば、そこそこ使える史書です。またモンゴル語を直訳した特異な漢文体を残しており、通常の漢文知識では読めませんが、もとのモンゴル語を再現することが可能です。

 トゴン・テムルの北走以後にモンゴル高原に存続した政権を、高麗では「北元」と呼びましたが、大明では一応「元」と呼んだものの皇帝を戴く政権とは認定せず、のちにはモンゴルの名さえ呼ばず韃靼(タタル)と呼びました。モンゴル側は大元の呼称を捨てず、大明を「イルゲン・ウルス(我が領民の国)」と呼んでいます。大明が漢の復興を目指したのに対して、モンゴルはかつての漢に対する匈奴のような、北方の遊牧帝国に戻ったのです。

 ココ・テムルは徐達に敗れて甘粛からカラコルムへ逃れ、アユルシリダラと合流します。皇帝は謝罪して彼と和解し、全権を委ねて救国の任につかせました。朱元璋は北伐軍をいったん帰還させると、アユルシリダラへ降伏を勧める書簡を送り、周辺の諸部族にも帰順を呼びかけています。

 1371年正月、大明は四川に割拠する夏へ討伐軍を派遣します。夏の初代皇帝・明玉珍は1366年に崩御し、息子の明昇が在位していましたが、幼少であったため皇太后や宰相が実権を握り、独立を守ろうと大明に抵抗していたのです。しかし湖北・甘粛の両路から進軍した大明軍に防衛線を破られ、夏の朝廷は重慶から成都へ逃げたのち降伏します。明昇は幼少であるからと命を許されて帰義侯に封じられ、残党が平定された1372年に陳友諒の子・陳理とともに高麗へ身柄を遷されました。明昇は1393年まで、陳理は1408年まで生存し、この地で亡くなっています。

 1372年春、徐達率いる大明軍15万が三路に分かれて漠北に侵攻しますが、ココ・テムルは迎撃して撃退しました。翌1373年2月、アユルシリダラは高麗王バヤン・テムル(恭愍王)に璽書を送り、「王も世祖クビライの(女系の)子孫であるから、朕を助けて天下を正してほしい」と協力を呼びかけます。アユルシリダラの母・奇皇后は高麗から貢納された低い身分の女性でしたが、皇太子を生んだことで権勢を振るい、疎ましく思った高麗王は高麗の奇氏を皆殺しにして大元から離反しています。高麗王はアユルシリダラの政権を「北元」と呼び、使節を殺そうとしましたが群臣に止められ、直接引見せずに布を与えて帰らせたといいます。

 同年、ココ・テムルらは漠南へ出兵し、甘粛や大同まで侵攻します。大明軍は長城に依って防ぎ、国境付近の住民を内地へ移住させました。また朱元璋はココ・テムルを賞賛して帰順を呼びかけます。彼は先祖代々漢地の河南に定住しており、先祖の墓もあったので、朱元璋は彼の墓を祀らせ、先に捕虜とした彼の妹を自分の子のひとりに娶せています。また父以来の仇敵であった李思斉を送って説得させ、ココ・テムルが彼を殺すのを黙認しました。

 1374年9月にはアユルシリダラの子マイダリバラたち皇族を送還し、関係改善を求めています。しかし同年、反元派の高麗王バヤン・テムルが暗殺され、その子の牟尼奴(王禑)が親元派に擁立されて王位につきました。1375年、アユルシリダラはカラコルムから西のアルタイ山脈に移動しますが、8月にココ・テムルが病死し、その妻が首をくくって殉死しました。これより大明はしばらく北伐をやめ、大元も南下を諦めたため、両国の平和共存のためにココ・テムルが消された可能性もあります。1376年には延安で抵抗を続けていたバヤン・テムルが大明に降伏しました。

元統断絶

 1378年4月、皇帝アユルシリダラは在位8年にして40歳で崩御し、ビリグト・カアン(聡明な皇帝)の諡号を奉られました。異母弟のトグス・テムルが跡を継ぎ、大明と対峙します。この時の周辺諸国を見回してみると、高麗には親元派の政権が立ち、遼寧にはジャライル部の軍閥ナガチュが割拠し、甘粛や雲南にはモンゴル王族がいて、大明を取り囲んでいました。

 これに対し、大明はチベットのパクモドゥパ政権と手を結び、甘粛や雲南のモンゴル王族を圧迫します。1380年にはカラコルムへ遠征して打撃を与えておき、1381年には雲南の梁王国へ遠征します。

 梁王バツァラワルミはクビライの庶子フゲチの子孫で、四川の夏の攻撃を退け、辺境に割拠して勢力を保っていました。しかし1382年に曲靖の戦いで防衛軍が敗れ、梁王は降伏をよしとせず自ら首くくって果て、妻子も入水しました。ここに雲南も大明の手に落ちたのです。

 この頃、朱元璋は功臣や反対派を次々に粛清し、皇帝独裁・中央集権化を推し進めていました。並行して対外遠征も継続し、1387年には馮勝らに大軍を授けて北伐させ、遼寧のナガチュを降伏させます。1388年春、藍玉を大将軍とする大明軍が北伐を行い、モンゴル高原東部のフルンボイル草原でトグス・テムル率いるモンゴル軍と激突します。

 藍玉らはモンゴル軍に奇襲をかけるため長駆進軍し、夜明け時に砂嵐が発生したのに乗じて襲いかかります。大混乱に陥ったモンゴル軍は散々に打ち破られ、トグス・テムルは皇太子の天保奴ら数十騎らとともに遁走、皇后や次男の地保奴らは尽く捕虜となります。這々の体でカラコルムへ向かった皇帝でしたが、途中のトーラ川のほとりでアリクブケ家のイェスデル率いる軍勢に襲撃されます。かつて兄クビライに敗れて帝位を奪われたアリクブケ家にとって、クビライ家のトグス・テムルらは恨み重なる仇敵でした。

 トグス・テムルはさらに逃げますが大雪に道を阻まれ、追いつかれて捕虜となり、血を流さぬよう太子ともども弓の弦で絞殺されます。イェスデルは自らモンゴル帝国のカアン/皇帝を称し、クビライに始まる皇統は断絶しました。大明は「元朝は名実ともに滅んだ」とし、イェスデル以後のモンゴル皇帝を「韃靼の可汗」と呼びましたが、相当に弱体化したもののチンギス・カンに始まるモンゴル帝国が滅亡したわけでは全くありません。その後もモンゴル/韃靼は大明の北方を悩まし続けることとなります。

 同じ1388年には、高麗に対し大明から鉄嶺以北を割譲せよと要求があり、高麗王と将軍の崔瑩は反発して遼東へ出兵します。しかし遠征軍を率いる李成桂が大明に寝返り、首都に進軍して王を廃位し実権を握りました。1392年には大明から「権知高麗国事(高麗国を仮に統治する者)」に任命され、翌年「朝鮮」の国号を賜って権知朝鮮国事となりました。事実上は朝鮮国王となりますが、王号を大明から授かったのは退位後の1401年です。

 朱元璋は1398年に70歳で崩御するまで権力を握り、多くの功臣を粛清しました。治世の後半は恐怖政治でしたが、彼によって300年近く続く大明帝国の基盤が築かれたことは確かです。一方この頃、中央アジアから西南・北西アジアにかけては、チャガタイ・ウルスの軍事指導者ティムールが大征服を開始していました。次回は彼の活躍を見ていきましょう。

◆King of the◆

◆Wild◆

【続く】

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