【つの版】ウマと人類史:近世編05・雷帝戴冠
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
半世紀近く続いたスレイマン大帝の時代に、オスマン帝国は欧州諸国やペルシアを脅かし、超大国として覇権を振るいました。同じ頃その北方では、現代ロシアの直接の祖であるモスクワ大公国が、雷帝イヴァン4世のもとで勢力を広げています。まず彼までの歴史を見ていきましょう。
◆MOS◆
◆KAU◆
莫斯公国
ヴォルガ川上流域、オカ川の支流であるモスクワ川のほとりには、古くからフィン・ウゴル系のメリャ族が住んでいました。オカはフィン・ウゴル諸語で「川」を、モスクワは「黒い」を意味するといいます(スラヴ諸語で「湿地」を意味するmuzgaが語源とも)。やがて彼らはヴァリャーグ/ルーシと呼ばれる移動武装集団(ヴァイキング)に貢納し交易を行うようになり、次第に小さな要塞や町が形成されていきました。
年代記にモスクワが現れるのは1147年で、北東ルーシ系国家スーズダリ公国の西の国境に位置していました。ルーシの盟主であるキエフ(キーウ)の大公が逝去し、ルーシ諸侯はその位を巡って互いに争っていましたが、スーズダリ公ユーリーはチェルニーヒウ公と「モスクワ」で会合を行い、キエフへ攻め寄せました。彼は1149年にキエフ大公となったものの、甥のイジャスラフに撃退され、大公位を巡って戦います。1156年、ユーリーはモスクワに木製の柵と堀をめぐらした砦を築きましたが、1157年に逝去しています。ユーリーの子らはスーズダリからウラジーミルに都を遷し、北東ルーシ諸侯の盟主たる「大公」となりました。
1238年、モンゴル軍がルーシに攻め寄せた時、モスクワはまだウラジーミル大公国内の小さな砦と村落に過ぎず、5日間の包囲戦で陥落し、焼き払われました。ノヴゴロド公アレクサンドルはドイツ騎士団と戦いつつモンゴル帝国に臣従して勢力を伸ばし、1252年にウラジーミル大公の位に就きます。彼の息子ダニールは最初のモスクワ公となりました。
ダニールの子ユーリー、その弟イヴァンもモンゴル帝国(ジョチ・ウルス、タタール)に臣従し、北のライバル国トヴェーリと争いつつウラジーミル大公位を兼ね、モスクワ大公となります。彼らはルーシ諸侯から貢税を徴収し、せっせとケツモチのモンゴル帝国に貢ぐことで権力を維持・拡大していました。逆らう者はモンゴル帝国の敵として叩き潰されます。そのためイヴァンは「金袋(カリター、モンゴルの財布)」と呼ばれたほどです。現代ロシア国家の源流は、こうした情けない状況から始まりました。
これでは示しがつかん、というので、モスクワでは反タタールのプロパガンダが行われます。イヴァン1世の孫ドミートリーは、ジョチ・ウルスの内乱に乗じて貢納を停止し、攻め込んできたタタールをしばしば撃退します。しかし1382年にはタタールにモスクワを包囲され、再び貢納を行い宗主権を認めさせられることになりました。
そこでモスクワは、西で勢力を伸ばしていたリトアニア大公国と手を結びます。ドミトリーの娘マリヤとアンナはリトアニアの貴族に嫁ぎ、ドミトリーの息子ヴァシーリー1世はリトアニア大公の娘ソフィヤを娶りました。しかしヴァシーリー1世の子らは後継者争いを繰り広げ、ジョチ・ウルスの後継国家カザン・ハン国はこれに乗じてモスクワを包囲、服属させて貢納を課します。こうした状況を打破し始めたのがイヴァン3世でした。
帝国建設
彼はカザン・ハン国に対抗するため傀儡国家カシモフ・ハン国(カザン・ハン王族の亡命政権)を盛り立て、南のクリミア・ハン国とも手を結び、リトアニア大公国やカザン・ハン国、サライの大オルダと戦いました。1480年にはサライ政権の軍を撤退させたことから「タタールのくびき」からルーシを解放したと喧伝されたものの、カザンやクリミアへの貢納は続けており、単に貢納先を変えて「贈り物である」としただけです。クリミアおよびその宗主国オスマン帝国の後ろ盾を得たイヴァンは他のルーシ諸国を次々と併合し、ノヴゴロドをも征服してルーシ諸侯の中では最大最強となりました。
40年におよぶイヴァン3世の治世は、モスクワ大公国を強大な専制君主国とし、彼はツァーリ(帝王)を名乗りました。ローマ皇帝を指すカエサルの訛った君主号で、国内に並ぶものなく、自分より上に従う者なき独立の専制君主を指す称号となっていました。タタールのハンもツァーリと呼ばれたぐらいですし、イヴァンにとっては消滅した東ローマ皇帝より、クリミアのハンやオスマン帝国の皇帝に近い存在としてイメージされたことでしょう。
イヴァン3世は1505年に逝去し、子のヴァシーリー3世が跡を継ぎました。彼は父の路線を受け継ぎ、リトアニア大公国と戦ってスモレンスクを奪い、カザンに傀儡のハンを立て、クリミアと対立しつつオスマン帝国や神聖ローマ帝国、ムガル帝国とも外交関係を樹立します。また大貴族の勢力を抑えてツァーリに権力を集中させ、権威付けのために正教会を利用しました。
1526年、ヴァシーリーは20年に渡り不妊であった妻ソロモニヤを離縁し、リトアニア系貴族の娘エレナ・グリンスカヤを新たな妻に迎えました。モスクワの府主教ダニイルはヴァシーリーにおもねってこれを承認したものの、正教会の多くの聖職者はこれに反対し、反対派は投獄や粛清の憂き目に遭います。1530年、エレナは男子を出産し、彼はイヴァンと名付けられました。エレナは1532年にも男子を産み、ユーリーと名付けられます。
しかし1533年末、ヴァシーリー3世は54歳で病没します。彼は3歳の息子イヴァンを後継者とし、彼が成人するまでは貴族会議(ドゥーマ)に国政を委ね、数人の有力貴族が後見人・摂政となるよう遺言しました。エレナはモスクワ府主教や寵臣オフチーニン公と手を組んで実権を握り、ヴァシーリーの弟ユーリーとアンドレイを失脚させて獄死させますが、1538年に若くして逝去します。有力貴族シュイスキー家とベルスキー家が代わって実権を握り、幼いイヴァンはモスクワ府主教マカリオスのもとで教育を受けました。
彼はイヴァンを正教会の守護者として教育し、ダビデ王から東ローマ帝国を経てモスクワに続く「正しい聖なる歴史」を教え込みます。聡明なイヴァンは信仰心篤い少年として育ち、その後の人生に大きな影響を及ぼします。イヴァンとマカリオスはグリンスキー家と手を組み、1543年にモスクワを牛耳る有力貴族シュイスキー家を失脚させると、権力を奪還しました。
雷帝戴冠
1547年、17-18歳のイヴァンはモスクワの生神女就寝大聖堂で戴冠式を行い、「ゴスダーリ(君主)、全ルーシのツァーリ(帝王)にしてヴェリーキー・クニャージ(大公)」と称しました。この戴冠式で用いられた「モノマフの冠」は、12世紀前半のキエフ大公ウラジーミル2世モノマフに由来するとされ、東ローマ皇帝から贈られたものでアウグストゥスが所持していたとか伝えられますが、あからさまに伝説です。どうもヴァシーリー3世の時代に君主の箔付けのために捏造されたものらしく、これについての記録も彼の時代に編纂された怪しげな歴史書の中に初めて現れます。
出どころは怪しく、箔付けの後付けは百も承知でも、言い切ってしまえば権威にはなります。また「全ルーシの支配権を、ローマ皇帝がこの冠の所持者に授けた」とすれば、リトアニアに支配されているウクライナやベラルーシなどを「奪還」する正統性・正当性を、名目的にでも付与することが可能になります。もとが胡乱な与太話でも、軍事力で押し切って既成事実を作れば本当になるのです。今はプーチンがだいたい同じことをしていますね。
戴冠式から半年後、モスクワで大火事が発生します。木造家屋が大部分であったモスクワの多くが焼け、数千人が死亡し、モスクワ府主教マカリオスも大やけどを負います。直後に「グリンスキー家のしわざだ」と噂が流れ、民衆が暴動を起こしました。イヴァンは責任を取らせてグリンスキー家を失脚させ、「並ぶ者なき専制君主」としてモスクワ国家に君臨し始めます。
◆神◆
◆帝◆
【続く】
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