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【つの版】ウマと人類史:中世後期編06・蒙古駙馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 大元が大明の攻撃を受けて北へ逃れた頃、中央アジア西部にはティムールが出現します。彼はイランや西アジア、キプチャク草原へと大遠征を行い、一代で広大な帝国を建設することになります。

◆大◆

◆事◆

帖木出自

 ティムールは、モンゴル族ボルジギン氏バルラス部の小貴族の出自です。系譜によるとカブル・カンの兄カチュラの子孫(『元朝秘史』ではメネン・トドンの子カチウおよびカチュラの子孫)で、先祖カラチャルはチンギス・カンに千人隊長として仕え、のちチンギスの子チャガタイにも仕えました。しかし次第に没落し、ティムールの父タラガイはサマルカンド南部のキシュ(シャフリサブズ)近郊の村を治める小領主に過ぎませんでした。

 西暦1336年4月、ティムールはこの地で生まれます。名は「」を意味しており、テムジンと同じ語源で、トゴン・テムルやトグス・テムルなどテムルを含む名を持つ者も多く、ごくありふれていました。彼は早くに実の母を亡くし、狩猟や家畜の見張りに携わり、乗馬や弓術、ペルシア語、テュルク語、モンゴル語を学びました。家は裕福ではなく、従者も4・5人か10人ほどでしたが、若きティムールは彼らを率いて近隣の家畜を掠奪し、気前よく分け与えたといいます。人望と能力のある彼のもとには多くの人々が集まり、いつしか300人に増えていました。

群雄割拠

 この頃、中央アジアを支配するチャガタイ・ウルスは動揺していました。1340年代にはオゴデイ家のアリー・スルターン、ドゥア家のムハンマド、ブカ・テムル家のカザン、カイドゥの孫ダーニシュマンド、ドゥア家のバヤン・クリが次々とハンに擁立されては暗殺され、テュルク系の軍事貴族たちが実権を握ります。1346年からはカザガンがチャガタイ・ウルス西部の事実上の支配者となり、アフガニスタンや北インドまで勢力を広げました。

 カザガンの出自は定かでなく、自らハンとはならずイスラム系の称号アミール(将軍/首長)を名乗り、ハンを傀儡としていました。これに対し、チャガタイ・ウルス東部(カザフスタン東部・キルギス・新疆ウイグル自治区)ではドゥア家のトゥグルク・ティムールがドゥグラト部によりハンに擁立され、チャガタイ・ウルスは東西に分裂しました。

 マーワラーアンナフルの高度な都市文明に染まっていた西部王国に対し、東部王国はイスラム化しつつも伝統的な遊牧文化を保持し、自らを「モグール・ウルス/モグーリスタン(モンゴルの国)」、西部を「カラウナス(混血)」と呼んで軽蔑しました。西部は自らを「チャガタイ」と称し、東部をジェテ(盗賊)とかジャタ(辺境)と呼んで忌み嫌いました。

 若きティムールは西チャガタイの有力者カザガンに見いだされ、彼の側近として仕えていました。しかし1358年にカザガンが暗殺され、その子アブドゥッラーも殺されると、統制を失った西チャガタイは群雄割拠の状態となります。バルラス部はティムールの叔父ハージー・ベクを首領としてキシュ付近に割拠しますが、これを好機としたモグーリスタンは西チャガタイへ侵攻しました。ハージーらは抵抗しますが敗れ、彼の跡を継いだティムールらはモグーリスタンのトゥグルク・ティムール・ハンに服属します。

 トゥグルク・ティムールは自らの子イリヤース・ホージャを西チャガタイの統治者に任命し、ティムールらを後見人に任命して帰国しますが、ティムールはたちまち反乱を起こし、各地を転戦します。この頃ティムールは右足を負傷し、以後びっこを引くようになりました。1363年にトゥグルク・ティムールが逝去するとティムールの抵抗は激化し、イリヤースも敗れて撤退したところを部下に殺害されます。1366年、30歳のティムールはサマルカンドに入城し、同盟相手のアミール・フサインとともに政権を握りました。

蒙古駙馬

 フサインはドゥア家のアーディル・スルターン、次いでカーブル・シャーを擁立してハンに頂きますが、外敵を排除するとティムールとは険悪な関係となり、互いに諸勢力を結集して争いました。1369年、ティムールはフサインの本拠地バルフへ進軍して屈服させ(のち殺害)、1370年にオゴデイ家のソユルガトミシュをハンに擁立します。彼はダーニシュマンドの子でカイドゥの曾孫にあたり、実権はないものの名目的なハンとして即位しました。

 ティムールは自らハンとはならず、24年前に暗殺されたカザン・ハンの娘にしてフサインの未亡人サライ・ムルク・ハーヌムを娶り、チンギス家の娘婿キュレゲン)を名乗りました。バルラス部は一応ボルジギン氏ですが、チンギス家以外の者がモンゴル帝国内でハンを称するのは正統性が足りません。天山ウイグルや高麗の王はチンギス家の娘を娶っており、皇族に準じる扱いを受けていたため、フサインやティムールもそれに倣ったのです。

 なおチャイナでは、後漢の光武帝劉秀が娘を臣下の韓光と娶せた時、韓光を駙馬都尉に任命した故事により、天子の娘を娶った者を「駙馬」と呼びます。ティムールもチャイナ流に言えばチャガタイ・ウルスの、モンゴル帝国の駙馬ということになります。

 こうして西チャガタイを再統一すると、ティムールはサマルカンドを首都とし、チャガタイ・ウルスの統一を目指してモグーリスタンへの遠征を開始します。モグーリスタンではドゥグラト部のカマルッディーンがイリヤースを殺害してハンを僭称しており、ティムールがハンを名乗らなかったのは彼に対する正統性を主張するためもありました。しかしカマルッディーンらはモンゴルの本家を称するだけあって手強く、ティムールはある程度打撃を与えると兵を西のホラズムへ向けます。モグーリスタン遠征はこの後も繰り返され、滅ぼすことはできませんでしたが衰退させました。

呼密平定

 当時ホラズム地方を支配していたのはスーフィー朝です。建国者フサインはコンギラト部で、父ナングダイはジョチ・ウルスのウズベク・ハンの娘婿にあたり、1359年以後のジョチ・ウルスの混乱に乗じて自立しました。ホラズム北部は歴史的にジョチ・ウルス側でしたが、フサインは西チャガタイの混乱に乗じて、ホラズム南部のキャトとヒヴァを占領します。ティムールは返還を要求し、フサインはこれを拒んで戦いとなります。

 ティムールはまたたく間にキャトを奪還すると、ホラズム北部の首都ウルゲンチを包囲します。フサインは籠城中に病死し、跡を継いだユースフはキャトとヒヴァの返還を承諾して講和します。しかし1373年にティムールが再度モグーリスタン遠征を行うと、ユースフは講和を破棄してホラズム南部の奪回を図り、ティムールは飛び戻ってユースフと戦います。一応和平が成立したものの、ユースフはしばしば裏切り、反ティムール派の部族集団を煽って内乱を起こさせたりしています。

 1379年、ユースフはティムールの遠征の隙を突いてマーワラーアンナフルまで侵攻し、首都サマルカンド近郊を掠奪します。怒り狂ったティムールは駆け戻ってユースフを撃退し、ウルゲンチを包囲して陥落させます。ユースフはすでに病死しており、ウルゲンチは破壊と掠奪と殺戮の嵐に晒され、街に火が放たれました。王族のスレイマンは服属して領地を安堵されますが、のちにジョチ・ウルスと結んで反乱を起こします。

金帳動乱

 ジョチ・ウルス右翼(西部)では、1359年にベルディ・ベクが暗殺された後、短命のハンが続いて混乱が起き、バトゥ家が断絶します。1360年頃サライではジョチの子シバンの末裔ヒズルが担ぎ出されますが、彼は翌年息子のテムル・ホージャに殺されます。これに対し、クリミア半島の有力者ママイらはウズベク・ハンの末裔アブドゥッラーをハンに擁立し、サライを攻略してテムル・ホージャを追放しました。

 一方、左翼(東部)ではジョチの子トカ・テムルの末裔オロスが勢力を伸ばし、旧オルダ・ウルスを再統一しました。1372年にはジョチ・ウルスの再統一を目指してサライに入りますが、ママイらと対立して撤退します。この混乱に乗じてルーシ諸侯はジョチ・ウルスの支配に反旗を翻し、貢税を拒否します。ママイは彼らの鎮圧に手を焼き、しばしば敗れました。

 1376年、オロスと敵対していたトカ・テムル家の王族トクタミシュがティムールを頼って亡命してきます。ティムールは彼を支援して軍隊を授け、オロスと戦いました。1377年にオロスが死去すると、後継者テムル・ベクはトクタミシュの猛攻を受けて戦死し、トクタミシュはサライに入ってハンに即位します。1380年にはママイをカルカ河畔の戦いで打ち破り、20年ぶりにジョチ・ウルスの東西を再統一することに成功しました。

 トクタミシュは、1382年にモスクワを征服してルーシを再び服属させ、ジョチ・ウルスの宗主権を認めさせました。また東欧の強国リトアニアも打ち破り、バルハシ湖からクリミア半島に至る広大な帝国が再建されたのです。ティムールには恩義があることから攻撃しませんでしたが、これに脅威を感じたティムールは自らも勢力を拡大すべく、アフガニスタンとイラン高原への大遠征を行うことになります。

◆虎◆

◆面◆

【続く】

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