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【つの版】大秦への旅06・大秦拂菻

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

大秦に関する基礎資料『魏略』西戎伝を読み解いていくと、大秦とはもともと陝西の秦国そのものであり、ローマ帝国に当てはめるのは誤読の可能性が高くなってきました。しかし一度定着してしまったミームは残り続け、史書という権威を得て承認されます。チャイナでは西域の彼方のローマを大秦と呼ぶ慣例となり、以後の史書や文献でも踏襲されたのです。では、ローマという呼び名は伝わらなかったのでしょうか。

◆ΠΟΛΙΤΕΙΑ ΤΩΝ◆

◆ΡΩΜΑΙΩΝ◆

大秦拂菻

『隋書』裴矩伝によると、隋の煬帝の大業元年(605年)、裴矩は張掖に遣わされて西域諸族の使節や商人を応接しました。そしてその国の習俗や地理を聴いてまとめ、『西域図記』を編纂しました。そこにこうあります。

敦煌から出発して西海に至るまで、およそ三つの道があり、それぞれ山河が取り巻いています。北道は伊吾(ハミ)より蒲類海(バルクル湖)、鉄勒部(テュルク)、(西)突厥可汗庭(碎葉、スィアーブ)を経て、北に流れる河水を渡り、拂菻國に至り、西海に到達します。

これは天山の北を通り、キルギスのトクマク付近を抜けてカザフスタンへ向かう道です。中道はタリム盆地の北側、天山の南からパミールを越え、ソグディアナを経て波斯(ペルシア)に至り、南道はタリム盆地の南側を通ってトハーリスターンから北婆羅門国(インド)に至る道ですが、北道の彼方にある拂菻(ふつりん)とはどこのことでしょう。

玄奘三蔵の『大唐西域記』(646年)には、こう書かれています。

波刺斯国(ペルシア)は、西北に拂懍国と接している。その国境付近の風俗は波刺斯と同じで、姿かたちや言語にやや違いがある。珍宝が多く、また土地は豊饒である。拂懍国の西南の海島には西女国があり、みな女人で男子がいない。諸々の珍宝貨が多く、拂懍国に附属しているので、拂懍王は毎年男を派遣して女子に配偶させるが、男が産まれると取り上げられないという。

ペルシアの西北にあるといいます。その西南には海があり、西女国があると伝えられますが、事実とも思われません。

https://web.archive.org/web/20180925215838/http://www.suttaworld.org/gbk/sutra/lon/other51/2089.htm

慧超の『往五天竺国伝』(730年頃)によると(上のはインターネット・アーカイブでサルベージした原文です)、こうです。

又従波斯国北行十日入山、至大食国。彼王住不本国、見向小拂臨国住也。為打得彼国。彼国復居山島。処所極牢、為此就彼。土地出駝・騾・羊・馬・絹布・毛絨。亦有宝物。衣着細絹寛衫、衫上又披一絹布、以為上服。王及百姓衣服、一種無別。女人亦着寛衫。男人剪髪在須。女人在髪。吃食、無問貴賤、与同一盆而食。手把亦匙箸。取見極悪。云自手殺而食、得福無量。国人愛殺事天、不識佛法。国法無有跪拜法也。
波斯国(ペルシア、クテシフォン)から北行10日すると山に入り、大食国(タージー、アラブ)に至る。その王は本国(アラビア)に住まず、小拂臨国に向けて睨みをきかせ、打ち破ってその領土を奪った。その国(都)はまた山島にあり、極めて堅牢で攻め取ることはできない。土地は駱駝・騾馬・羊・馬・絹布・絨毯を産出する。また宝物がある。細絹をゆったりした衫(シャツ)として身にまとい、その上にまた絹布をかけて上着とする。王も百姓も衣服は同じである。女人もまた寛やかな衫を着る。男性は髪を短くしてヒゲをたくわえ、女性は髪をそのままに(長く)する。食事の時は貴賤を問わず、みな同じ盆から食べ、手に匙や箸をとる。取見(宗教)は極悪で、自分の手で(家畜を)殺して食べると無量の福が得られるとする。人々は(家畜を)殺して天(アッラー)に仕えることを愛し、仏法を知らない。国法には跪拝することがない。

これは大食、アラブ・イスラム帝国の記述です。当時のカリフはウマイヤ家のヒシャームで、シリアのダマスカスにいました。続いてこうあります。

又小拂臨国傍海西北、即是大拂臨国。此王兵馬強多、不属余国。大食数回討撃不得。突厥侵亦不得。土地足宝物、甚足駝騾羊馬絹布等物。衣着与波斯・大食相似。言音各別不同。
また小拂臨国の傍ら、海の西北に大拂臨国がある。この王は兵馬が強く多くて、他国に服属していない。大食(アラブ)は数回攻撃したが征服できず、突厥も侵略したがまた征服できなかった。土地は宝物が満ち足り、駱駝・騾馬・羊・馬・絹布などの品物は甚だ多い。衣服は波斯や大食に相似し、言語は各々別で同じでない。

ウマイヤ朝と向かい合い、海の西北にある強国と言えば、東ローマ帝国の他にありません。小拂臨国はアジア(アナトリア)側、大拂臨国はヨーロッパ(バルカン)側を指すのでしょう。当時の皇帝はレオーン3世です。

『旧唐書』西戎伝には拂菻国条があり、こう書かれています。

拂菻国は、一名を大秦といい、西海の上にある。東南は波斯と接し、地は方万余里。城は四百も連なり、邑居は連属している。

拂菻=大秦=(東)ローマ帝国です。拂菻(中古音:pʰɨut̚ liɪmX)とは、イラン諸語やテュルク諸語でローマを指す語の音写です。8世紀の突厥碑文に Purum として見え、パルティアで Prom 、サーサーン朝で Hrum、ソグド語では From と書かれました。イラン諸語やテュルク諸語では語頭のR/Rhが発音できなかったためP/F音を足して呼んだようです。ギリシア語のpolis(都市・国家)や西方のフランク(Frank)王国ではありません。

西欧ではビザンツとかビザンチンと呼ばれますが、これは帝国滅亡後の16世紀にドイツ人がそう呼び始めたもので、帝都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来し、6世紀以前の古代ローマと区別するために用いられた呼称です。当時の人々は自らを「ローマ人」と称し、自国を「ローマ帝国」「ローマ人の国」と(ギリシア語で)呼んでいましたが、西欧やロシアでは彼らを「ギリシア人(グレキ)」と呼びました。アラブでは自称通りルーム(ローマ)、ルーミー(ローマ人)と呼んでいます。

『太平御覧』所収の『前涼録』に「張軌(在位:301-314)の時、西胡が金胡瓶2つを献上した。みな拂菻の作で形は奇しく、人の身長ほどあった」とありますが、後世の伝説によるものでしょうか。また『魏書』に「普嵐國」が456年、467年に朝貢したとあり、『北史』西域伝には「伏盧尼國」が記されますが、ソグディアナのどこかのようです。

拂菻国俗

では『旧唐書』西域伝・拂菻国条の続きを呼んで行きます。大秦国の記述をコピペしたところは省略し、新しい情報を得てみましょう。

その宮殿は多くが水晶や琉璃で作られている。貴族12人が共同で国を治めている。常に王の車にひとりを随行させ云々。王は常にはおらず云々。その王冠は鳥が翼を広げたようで、冠・瓔珞(首飾り)はみな珠宝を綴り、錦繍の衣を開襟せずに着、金花で装飾した床(座席)に座る。ガチョウに似た鳥がおり、羽毛は緑色で、常に王の長椅子の枕辺におり、毎度の食事に毒があればその鳥が鳴いて知らせる。
その都城(コンスタンティノポリス)は石を積み重ねて作られ、非常に高く険しく、10万余の戸数があって、南は大海に臨む。城の東面に大門があり、その高さは20余丈(60m)。上から下まで黄金で飾られ、光輝は燦爛として数里先まで照らし出す。城壁の外から王宮まで、およそ三重の大門があり、珍しい宝物や彫刻で飾られている。
第二門の楼閣の中に大きな金の天秤が懸けられており、黄金の玉12個が一端に置かれ、1日の12時間を知らせる。等身大の黄金の人物像がその傍らに立っていて、1時間ごとに黄金の玉を落とし、その音で時を知らせるのだが、決して誤ることはない。宮殿の柱は(仏像が坐する)瑟瑟座のようで、黄金を地とし、象牙を門扇とし、香木を棟梁とする。瓦はなく、白い石を搗いて粉末とし、これを屋上に塗りつけると、その緊密で光潤なことは玉石のようである(漆喰)。暑い盛りには、人々は水を引いて潜流させ、屋根の上に秘密のからくりで行き渡らせる。そこから噴水が出て滝のように注ぎ、空気を涼しくする。その巧妙な技術はこのようである。男子は髪を短くし、帔(掛け布、トガ)を来て右肩を露出する。婦人の服は開襟でなく、錦を頭巾とする。彼らの家には資産が満ち溢れ、封爵は上位である。云々。
また子羊がおり、土中に生じる。その国の人々はこれが土から出ようとするのを窺い見て、垣根を築いてこれを囲い込み、外の獣に食われるのを防ぐ。その子羊は臍の緒が地に繋がっており、これを断ち切れば死んでしまうが、人が甲冑を着て馬を走らせ鼓を打ち鳴らすと驚いて警戒の鳴き声をあげ、自ら臍の緒を断ち切って逃げようとする(この場合は死なない)。そこで水や草のあるところへ追いやって飼育する。

いわゆる「スキタイの羊」伝説です。これは木綿のことですが、羊毛に似ているため「羊毛(めいたもの)が生える植物がある」と考えられ、さらに「羊が地中から植物として生えてくる」と伝聞誤解したものです。

拂菻遣使

続いて、拂菻とチャイナとの外交関係が記されます。

隋の煬帝は常に拂菻と通じたいと願っていたが、かなわずに終わった。唐の貞観17年(643年)、拂菻王の波多力が使者を派遣し、赤玻璃(ガラス)・緑金精などを献じた。太宗は璽書を降して使者を慰労し、綾綺を賜った。

当時の皇帝はコンスタンス2世(在位:641-668)、先代はヘラクレイオス(在位:610-641)・ヘラクロナスコンスタンティノス3世であり、波多力(puɑ tɑ lɨk̚)とは異なります。これはコンスタンス2世の舅で645年まで実権を握ったウァレンティノスのことで、彼の爵位「パトリキオス(Patrikios,国父)」を音写したものと思われます。

東ローマはアラブ・イスラム帝国に圧迫されており、636年にはシリア、642年にはエジプトも奪われているため、海路では唐に赴けません。おそらくはクリミア半島南端の港町ケルソン(セヴァストポリ)に船で行き、東ローマの同盟国としてペルシアやアラブと戦っていた西突厥ハザール部族(可薩部)に使節の護衛を求めたのでしょう。隋書でも西突厥の彼方に拂菻國があると報告されており、非常に古くから開けていた道です。

西突厥が唐に敗れて崩壊すると、ハザールは独立してカガン(皇帝)を戴く部族連合となり、東ローマと結んでアラブと戦いました。彼らの一部は後にユダヤ教に改宗したことで有名ですが、国内にはキリスト教徒もイスラム教徒も古来のテングリ崇拝者もおり、それぞれに裁判官がいたといいます。

大食(アラブ)は強盛となって諸国を侵略し、大将軍の摩栧(ウマイヤ朝のカリフ・ムアーウィヤ)を遣わして拂菻の都城を攻撃した(674-678年)。そして拂菻と和好の盟約を結び(688年)、毎年金品を大食へ贈らせることとし、ついに拂菻は大食に臣属した。

ペルシア帝国を征服したアラブはますます強大になり、東ローマは講和条約を締結せざるを得ませんでした。

乾封2年(667年)、拂菻が使者を派遣し、底也伽(テリアカ、解毒剤)を献じた。大足元年(701年)、また遣使来朝した。

テリアカ(Theriaca)とはローマ皇帝ネロの時に侍医アンドロマコスが発明したという万能の解毒薬で、7世紀にチャイナに伝来し、659年に編纂された『新修本草』にも収録されています。667年当時の東ローマ皇帝はコンスタンス2世です。その子コンスタンティノス4世(在位:668-685)の時代にアラブの襲撃を受けますが、672年には「ギリシア火薬」によって撃退しています。東ローマの科学技術は、当時の世界では相当なものでした。

開元七年(719年)正月、その君主が吐火羅の大首領を遣わし、獅子・羚羊を二頭ずつ献じた。数か月しないうちに、また大徳僧を遣わして朝貢した。

当時の東ローマ皇帝はレオーン3世で、アラブの侵略を撃退するなど活躍しています。「吐火羅の大首領」や「大徳僧」とは何者でしょうか。

吐火羅(トハーリスターン)は既にアラブの支配下にあり、ホラーサーン総督クタイバ・イブン・ムスリムが715年頃に暗殺されて混乱していました。東ローマと手を組めていたかは不明ですが、アラブ軍に追われたペルシア系の豪族がそう称して西突厥や唐に逃げ込んだ可能性はあります。『新唐書』西域伝では「吐火羅大酋に因って獅子・羚羊を献じた」と記されます。

大徳僧は不明ですが、トハーリスターンの僧侶ならゾロアスター教か仏教、東ローマから派遣された僧ならばキリスト教の聖職者でしょうか。この頃、キリスト教の伝道者(euangelion)は既に唐まで到達していました。チャイナではどのように受容されていたのでしょうか。

◆ΚΥΡΙΕ◆

◆ΕΛΕΗΣΟΝ◆

【続く】

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