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【つの版】ウマと人類史:中世後期編14・大元可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 永楽帝後の明朝は、オイラトや韃靼/モンゴルに北辺を脅かされ、1449年には皇帝が捕虜になるという大事件も起きます。明朝は政治力で状況をひっくり返したものの、長城の外へ遠征もできない有様でした。オイラトはカアンを僭称したエセンの死後衰えますが、モンゴルも一枚岩ではありません。

◆巫◆

◆師◆

可汗空位

エセンの死後、その部下でハラチン部のボライが権力争いに勝ち残り、幼いマルコルギス・カアンを擁立して実権を握りました。彼はモンゴル高原で飢饉が起きたとして南下し、ゴビの南の旧上都付近(内モンゴル自治区ドロンノール盟)から河套地域(オルドス高原)に進出しました。

 ここは黄河に潤される肥沃な土地で、北風は陰山山脈が防ぎ、古来多くの遊牧勢力が割拠しました。ボライはここを拠点として西は寧夏・甘粛・陝西方面に進出し、南は大同、東は北京やウリヤンハイ三衛を脅かします。明朝はこれを懐柔すべく使者を派遣し、1461年には朝貢貿易を許可して太師淮王の称号を授けました。しかしマルコルギス・カアンとその取り巻きたちは、ボライの専横に怒って東方の王族モーリハイと手を組み、兵を動かします。

 ボライは明朝に「自分こそ韃靼国王である」と宣言して多額の下賜品を要求し、東方の諸勢力を討伐に向かいます。一時はウリヤンハイ三衛や女直を屈服させ、1465年にはマルコルギスを殺害しますが、直後にモーリハイの攻撃を受けて死亡します。モーリハイはマルコルギスの異母兄トグスを立ててモーラン・カアンとし、ボライに代わって実権を握りました。

 モーリハイは1466年にモーラン・カアンを殺害し、新たなカアンを立てなかったので、モンゴル帝国は9年もの間カアンが不在となります。モーリハイはチンギスの弟の子孫であったため、カアンに即位するには権威が足りませんでした。彼はしばしば明朝に侵攻したり朝貢貿易を行ったりしますが、1468年頃ホルチン部(ジョチ・カサル家)のボルナイに殺害されます。

群雄割拠

 しかしボルナイは諸部族を纏めきれず、各地に有力者が群雄割拠します。モーリハイの子オチライ、北西のカダ・ブカ、南のオロチュとトゴチ、フフホトのカチウン家の王族ドーラン・タイジ、オイラトを率いるエセンの子オシュ・テムルなどです。ボルナイはオシュ・テムルやドーラン・タイジに打ち破られて失脚し、各勢力が覇権を巡ってしのぎを削る戦乱に突入します。

 これに続いて台頭したのが、ベグ・アルスラン/ベケリスンという人物でした。彼は天山山脈に割拠していたテュルク系メクリン部の出自で、トゥルファンやハミ(クムル)を経て東へ進み、モーリハイ死後に混乱していた河套地域に到来しました。彼は1471年頃オロチュを駆逐して河套地域を占領し、アスト(オセット)部やハラチン(キプチャク)部などを併合して、ゴビの南に「ヨンシエブ(永謝布)」という部族連合を形成します。

 1475年、ベグ・アルスランはトクトア・ブハの弟マンドゥールンをカアンに推戴し、モンゴル帝国には9年ぶりにカアンが即位しました。またマンドゥールンの甥ハルグチュクの遺児バヤン・モンケをカアンに次ぐ権威を持つ晋王/ジノンとし、ボルフ晋王と呼びました。

 この時、チンギス・カンの霊廟「ナイマン・チャガーン・ゲル(八白室、八つの白い天幕)」はモンゴル高原ヘンティー山脈の麓(現アウラガ遺跡)から遷され、河套地域の現オルドス市エジンホロ旗に運び込まれました。オルドスとはモンゴル語で宮廷を意味する「オルド」に由来し、特にチンギスの霊廟もそう呼ばれたため、オルドスとはこれを祀る晋王を長とする部族名です。エジンホロとは「君主の聖地」を意味するモンゴル語です。これより河套地域はオルドス地方、オルドス高原とも呼ばれるようになりました。

 ベグ・アルスランは太師となってモンケ丞相とともに国政を担い、1476年には有力諸王の一人ドーラン・タイジを打ち破って殺害します。しかしマンドゥールンとベグ・アルスランは讒言によって仲違いし、互いに攻撃し合うようになります。モンケ丞相は巻き込まれて殺され、1479年にはカアンと太師が相次いで死に、ドーラン・タイジの子トゥルゲン、ベグ・アルスランの族弟イスマイルが手を組んで実権を握ります。彼らは両者の対立を煽って分裂させ、暗殺したといいます。

大元可汗

 マンドゥールンには子がおらず、ボルフ晋王も死んだか辞退したかでカアンとはならず、晋王の子でまだ数え7歳のバトゥ・モンケが傀儡として擁立されます。これがダヤン・ハーンです。明朝では幼主であることから小王子と呼び、「自ら大元大可汗と称した」と記しています。彼はまさに大元大モンゴル国のカアン/皇帝として即位し、そのように称したのです。大元が北走してから100年余り経ちますが、その国号と権威は残っていました。

 系譜上、ダヤン・ハーンはエルベク・ニグレスクイ・ハーンの子孫です。エルベクの子ハルグチュクは父に殺されましたが、妻オルジェイトの胎内にいた男児は父の死後に産まれてアジャイ太子となり、トクトア・ブハ、マンドゥールン、アクバルジを儲けました。アクバルジとその子ハルグチュクはエセンに殺されましたが、ハルグチュクの子バヤン・モンケがボルフ晋王となり、その子バトゥ・モンケがダヤン・ハーンとなりました。

エルベク―ハルグチュク―アジャイ―アクバルジ晋王―ハルグチュク―ボルフ晋王―ダヤン・ハーン

 系譜に少々怪しいところはありますが、チンギスの末裔と承認され、またエルベクはアリクブケ家ではなくクビライ家であるとされています。かつてキタイやマンジを直轄地として支配し、世界帝国の皇帝として権威を振るった大元ウルスの後継者と名乗ることこそ、傀儡君主に求められたものです。

 イスマイルとトゥルゲンはウリヤンハイ三衛を服属させて勢力を広げ、明朝にもしばしば侵攻しました。しかしイスマイルはダヤン・ハーンと対立するようになり、1483年に敗れて西方のハミ地方へ逃れました。ダヤン・ハーンはまだ10歳ほどですから、トゥルゲンら別の有力者との勢力争いに敗れたのでしょう。イスマイルはオイラトの族長ケシク・オロク(オシュ・テムルの子でエセンの孫)と手を組み西方に割拠しますが、ダヤン・ハーンらは追撃をかけて1486年に両者を敗死させます。これよりオイラトは衰え、ダヤン・ハーンを戴くモンゴル/韃靼が台頭します。

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 1479年に7歳で即位したとして、1486年にはまだ14歳ですから、この頃もトゥルゲンら重臣たちが実権を握っています。1488年(明の弘治元年)の朝貢記録では、「知院の脱羅干(トゥルゲン)」が第四位に記されています。

弘治元年夏、小王子奉書求貢、自稱大元大可汗。朝廷方務優容、許之。自是、與伯顏猛可王等屢入貢、漸往來套中、出沒為寇。(明史韃靼伝)

 明朝では1464年に天順帝が崩御した後、皇太子の見深(成化帝)が即位し国政を建て直していました。1487年に彼が崩御すると皇太子の祐樘(弘治帝)が即位し、善政を敷いて中興の祖と讃えられました。長城を拠点とする防衛網も整備され、モンゴルの侵攻に対応しています。

北虜統一

 弘治8年(1495年)、成人したダヤン・ハーンはトゥルゲンの子ホサイ(火篩)とともに明朝に侵攻し、翌年にかけて遼東から北京・大同・陝西の国境を攻撃し、掠奪や殺戮を行いました。11年(1498年)秋には明朝の将軍王越が寧夏の賀蘭山でこれを撃破しますが、翌年には大同と寧夏が侵略されて明軍が打ち破られます。13年(1500年)冬、ダヤン・ハーンは河套に駐屯して長城に迫り、明朝を脅かしました。

 弘治14年(1501年)秋、明軍は河套の元軍に夜襲をかけて多少のダメージを与えますが、ダヤン・ハーンは10万騎を率いて南下し、寧夏に進軍して陝西盆地を震撼させます。15年(1502年)、明朝は陝西に防衛軍を派遣しますが、夏には敵軍が遼東・北京方面から侵攻します。明軍はこれを撃退し、16年にはややおさまったものの、17年(1504年)には朝貢貿易の再開を拒絶されたことから大同に侵攻、18年(1505年)には霊州(寧夏銀川)が包囲されて明軍が大打撃を受けました。檀石槐もかくやという戦果です。

 1505年に弘治帝が崩御すると、皇太子の厚㷖(正徳帝)が即位しますが、彼は名君の父に似ぬ暗君で、宦官の劉瑾らに政治を任せて遊び呆けていました。劉瑾らはこれによって私腹を肥やし、反対派を粛清して政事を壟断したので、各地で反乱が勃発します。1510年には帝位簒奪を目論んだとして処刑され、莫大な財産が没収されますが、天子の放蕩は相変わらずでした。

 これに乗じて、ダヤン・ハーンは正徳2年(1507年)には寧夏へ、4年(1509年)には大同へ侵攻します。しかしこの頃、モンゴルではモンゴルジン=トゥメト部を率いるホサイ、ヨンシエブ部を率いるイブラヒム、オルドス部を率いるマンドライらがダヤン・ハーンに反旗を翻しました。これはダヤン・ハーンが自らの次男ウルス・ボラトを晋王とし、これらの部族を統括させようとしたため、ウルス・ボラトが殺された事件によるといいます。

 怒ったダヤン・ハーンは、首謀者のひとりホサイを討つべく左翼(東方)の三部族を率いて出陣します。一度は敗北を喫しますが、ダヤン・ハーンは態勢を整えて仲間を増やし、1509年頃に敵軍を打ち破って西の青海地方へ駆逐しました。ここにモンゴル高原の大部分は、大元大可汗たるダヤン・ハーンのもとに再統一されたのです。

六部蒙古

『蒙古源流』によれば、ダヤン・ハーンはチンギス・カンの霊廟(八白室)の前で改めてハーンを称し、三男のバルス・ボラトを晋王として、八白室の祭祀を司らせました。また征服した諸部族を大別して六つのトゥメン(万人隊)に再編成し、各々の族長に自らの子らを分封しました。六トゥメンのうち左翼(東方)はハーンに従ったチャハル、ハルハ、ウリヤンハイ、右翼(西方)は対立したオルドス、トゥメト、ヨンシエブです。

 左翼第一トゥメンのチャハル部は、かつてマンドゥールンが率いていた勢力です。これはダヤン・ハーン自身に直属し、旧上都のドロンノールや契丹の故地である赤峰市付近を領地としました。またハーンの長子ドロ・ボラトとその子孫が受け継ぐべき部族とされます。そのため、これ以後のモンゴルのハーンは、基本的にチャハル部から出ることとなります。

 左翼第二トゥメンのハルハ部は、モンゴル高原北東部のハルハ川に由来する部族名で、フルンボイル草原を含むモンゴル高原東部を領地とします。これはさらに左翼(内ハルハ)と右翼(外ハルハ)に別れ、ダヤン・ハーンの五男アル・ボラトと11男ゲレセンジェが各々を受け継ぎました。現モンゴル国の住民は外ハルハに属していた諸部族が多くを占めています。

 左翼第三トゥメンのウリヤンハイ/ウリヤンハンは、もともと「トナカイ(オロ)を飼う民」を意味するモンゴル語で、森林狩猟民や遊牧民としてモンゴルの近辺で生活していました。チンギス・カンの四狗のうちジェルメとスブタイはウリヤンハイ部の出身で、スブタイは遠くハンガリーまで遠征しています。ジェルメの末裔は元朝が北走したのち明朝に服属し、他の部族とともに高原東部に割拠する「ウリヤンハイ三衛」を形成しましたが、この頃にはダヤン・ハーンに服属し、三衛のうち二つは解体されています。ダヤン・ハーンは母方がウリヤンハイ出身者であり、このトゥメンには息子らを分封しませんでしたが、ダヤン・ハーンの死後に解体されました。

 右翼第一トゥメンのオルドス部は、上述の通り河套地域を領地とし、三男のバルス・ボラトが晋王として受け継ぎました。右翼第二トゥメンのトゥメト部は、フフホト一帯を根拠地とし、トゥルゲンが率いていた部族です。これもバルス・ボラトが継承しました。右翼第三トゥメンのヨンシエブ部は、上述の通りベグ・アルスランが率いていた部族で、ハラチン部をバルス・ボラトの子ボディダラが、アストを含む残りを七男アル・ボラトが受け継ぎました。その他の子や孫もそれぞれに部族を賜り、藩主となりました。

 ダヤン・ハーンの生没年は史料によって大きく異なりますが、1473年頃に誕生し、1516年頃に崩御したと推測されています。分裂し崩壊し、明朝やオイラトに滅ぼされる寸前だったモンゴル帝国は、ダヤン・ハーンのもとで再統一され、新たな近世の遊牧帝国として再出発することになります。

◆新◆

◆世界◆

 中世後期を16世紀初頭までと定義すれば、次からは近世編です。その前に中央アジアや北西ユーラシア、イラン高原やアナトリアでの遊牧勢力の動きを見ていきましょう。

【続く】

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