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【つの版】ウマと人類史:中世編40・東方見聞05

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 今回は、マルコ・ポーロの帰路について見ていきましょう。行きはユーラシア内陸を通りましたが、帰りは南シナ海やインド洋を通る海路で進むことになりました。モンゴル帝国は陸路ばかりでなく、海路での交易網・経済圏も手中に収めようとしていたのです。

◆凱◆

◆旋◆

『東方見聞録』によると、マルコ・ポーロたちの帰国のきっかけは次のようなものでした。フレグ・ウルスの当主アルゴン(アルグン)の妃の一人ボルガナ(ブルガン)が亡くなった時、「王妃として私の跡を継ぐ者は、故郷カタイにある家族のものにしてほしい」と遺言しました。そこでアルグンは三人の貴族を使者として大カアン・クビライのもとへ派遣し、このことを伝えさせたところ、クビライは彼らを大いに歓待し、ボルガナの家族の中からコカチンという17歳の美女を選びました。しかし陸路を行くのは(カイドゥの乱などの影響で)危険と思われたため、三人の貴族はマルコ・ポーロらと知り合って、彼らの知る海路で帰国しようとした、というのです。

 アルグンの妃ブルガン・カトゥンは、バヤウト部族の有力部将ノカイ・ヤルグチの姪で、アルグンの父アバカの妃であり、レビラト婚によって父の没後にアルグンの妃となりました。ブルガンの逝去は1286年で、同名のコンギラト部出身の妃が跡を継いだものの、バヤウト部の人々が反発したのでしょう。コカチン/ココジンとは「蒼い」を意味するテュルク語kokに由来する名で、バヤウト部族に属していました。

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 マルコ・ポーロは、この頃クビライの使節として海路インドへ往復し、旅行中の見聞録を書いていたといいます。彼は雲南やマンジ(江南)にも派遣されて監視や徴税などの公務を行っていたといいますから、なかなかクビライに気に入られていたようです。クビライは彼らを寵愛していたので手放すことを嫌いましたが、やむなく赦し、通行証を付与します。さらにフランスや英国、スペインなどキリスト教国の諸王にあてた手紙を託し、13隻の船に数百人の乗組員を添えて出発させました。またコカチン以外にマンジの姫も同行していたともいいます。出発は1291年でした。

 出発地は、南海交易の中心地であった泉州/ザイトンです。ジパングの情報もここでイスラム商人から聞きかじったらしく、ザイトンから東シナ海を北東に向かえば日本に着きます。ただ1500マイル(2400km)となると、済州島や北部九州・瀬戸内・大坂・京都を経由して鎌倉までの距離になります。平戸島までならその半分程度でしかありません。

 ザイトンから西南西へ1500マイル(2400km)進むと、ベトナム南部のチャンパ王国につきます。当時の国王はジャヤ・シンハヴァルマン3世で、モンゴルの侵攻を撃退したものの、当時はモンゴルに服属して毎年象を貢納していました。マルコ・ポーロは1285年にこの国に滞在していましたが、当時の王をアッカンバルと呼んでおり、これは先代の王インドラヴァルマン5世のことです。

 泉州市から2400kmも進むとベトナム南端のカマウに達しますが、当時はクメール王朝の一部なので距離は適当な気がします。当時のチャンパ王国の都はヴィジャヤといい、現ベトナムのビンディン省クイニョンはその外港でした。泉州市からクイニョンまではせいぜい1600kmです。

 チャンパから東南東へ1500マイル(2400km)進むと、ジャワ島に着きます。クイニョンから南へ2270kmほど進むと確かにジャワ島ですが、あるいは宋代からチャイナと貿易を行っていたボルネオ(ブルネイ)のことかも知れません。その周囲は3000マイルもあり、大王がいて独立しており、大カアンにも服属しておらず、ザイトンやマンジの商人が訪れて香料などを買い付け、巨額の利益を得ています。ここまで出発から3ヶ月かかりました。

 チャンパから南南東へ700マイル(1176km)ほど進むと、ソンドゥルとコンドゥルという二つの島があり、そこから500マイル(840km)進むとロカタ王国があります。ロカタから500マイル南にペンタム(ビンタン)島があり、ここから60マイル(100km)ほど浅い海峡を進むといい、これはシンガポール海峡にほかなりません。ただチャンパからは距離が多すぎるので、どこかで重複がありそうです。

 ペンタムから100マイル先には小ジャワ島(スマトラ島)があり、八つの王国に分かれていました。マルコ・ポーロたちはそのひとつのサマラ王国(サムドラ・パサイ王国)に風待ちのため五ヶ月も滞在しています。

 やがて一行はスマトラ西北のランブリを出発し、野蛮人が棲むネクヴェラン(ニコバル)諸島とアンガマン(アンダマン)諸島を経て、西のセイラン(セイロン、スリランカ)島に到達しました。住民は偶像崇拝者(仏教徒)で、戦争の時は他国からイスラム教徒を雇うと言います。この島はルビーやサファイアなど素晴らしい宝石を産出します。

 また、この島には高い山があり、イスラム教徒によれば人類の祖先アダムの墓(あるいは足跡)があるといいます。偶像崇拝者(仏教徒)は聖者サガモニ・ボルハン(釈迦牟尼仏)の墓(足跡)と呼びますが、もとは山の神サマンを祀ったもので、ヒンドゥー教徒はシヴァ神の足跡としています。マルコ・ポーロはサガモニについて、いわゆる四門出遊の話や、八十四回死んで動物に生まれ変わったという話を伝えています。クビライは1284年に大使節団を派遣してアダム(サガモニ)の遺品を所望させ、大きな奥歯2本(仏歯)と頭髪若干、美しい緑色の石皿を贈られたといいますが、この使節団にマルコ・ポーロが加わっていたとは書かれていません。

 セイロンを出ると、大陸側のマアバル(マラバール)地方に着きます。これはインド南端のコモリン岬(カンニヤークマリ)からゴアやムンバイに至るインド西岸部で、古代から貿易風に乗ってやって来るエジプトの船と取引していました。真珠が豊富に産出され、五人の国王たちはみな兄弟で、富と権力に満ちているといいます。またキリストの十二使徒の一人トマスの墓がここにあるといい、実際キリスト教徒がいくらかいます。

 インドやマアバル地方の諸国については、マルコ・ポーロは詳しく語っていますが省略します。またオマーンやイエメン、アデン湾、ソコトラ島、ザンジバル、アビシニア(エチオピア)、マダガスカル島についても記述がありますが、これらは各地の港での伝聞を集めたのでしょう。目的地はペルシアのフレグ・ウルスですから寄り道している暇はありません。一行はゴジェラト(グジャラート)地方、ケスマコラン(マクラーン)地方を経て、ペルシア湾の入口を扼するホルムズ港に到着しました。

 出発から3ヶ月でジャワ島に到達したものの、スマトラ島で5ヶ月も足止めをくらい、ペルシアまではジャワから18ヶ月もかかったといいます。都合2年ほどかかったわけで、西暦1292年2月頃にホルムズに着いたと考えられますが、依頼主のアルグンはすでに昨年3月に亡くなっていました。

 跡を継いだのは異母弟のキアカトゥ(ガイハトゥ)で、アルグンの子カサン(ガザン)は20歳を過ぎたばかりです。一行がガイハトゥに謁見して事情を告げると、コカチンはレビラト婚によりガザンの妃となることに決まり、盛大な結婚式が催されました。ガイハトゥは一行に感謝して通行証と護衛を授け、故郷ヴェネツィアへの帰路を送らせました。

 当時のフレグ・ウルスの首都はタブリーズやマラーゲですから、一行はアルメニア高原を北西へ進んで、黒海南岸の港町トレビゾンド(トラブゾン)に着きます。そこからコンスタンティノポリス(イスタンブール)を経てマルマラ海、エーゲ海に出、ヴェネツィア領のネグロポンテ(エウボイア島)を経由し、イオニア海、アドリア海に入り、1295年にようやくヴェネツィアへ帰国したのです。出発から24年が経過し、マルコ・ポーロは40歳を過ぎていました。父ニコロ、叔父マフェオも60歳は超えていたでしょうが無事でした。人々は彼らが死んだものと思い、異国風の姿かたちを怪しみましたが、衣服に縫い込んだ大量の宝石をテーブルにぶちまけたのでびっくり仰天したといった話が語り伝えられています。

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 しかしこの頃、ヴェネツィアは敵国ジェノヴァにしてやられっぱなしでした。東ローマ帝国はジェノヴァ人を優遇し、1291年には十字軍最後の拠点アッコもマムルーク朝の手に落ちています。ゲイハトゥは1295年に反乱に遭って殺され、王位を簒奪したバイドゥはアルグンの子ガザンに倒されました。

 ガザンは1294年にイスラム教に改宗しており、即位するとイスラム化を進め、キリスト教や仏教、ゾロアスター教の寺院を破壊しています。欧州のキリスト教諸国がフレグ・ウルスと手を組んでマムルーク朝と戦う時代は終わりを告げたのです。この頃にはクビライも崩御し、モンゴル帝国は新たな時代を迎えることとなります。

 マルコ・ポーロは1298年にジェノヴァとの戦いで捕虜となり、先述の通り獄中でルスティケロと知り合い『東方見聞録』を記述しました。同じ頃、ガザンは宰相ラシードゥッディーンに歴史書を編纂するよう命じており、これが1314年に完成する世界史『集史』です。次いで『ワッサーフ史』『選史』が編纂され、大元朝では1343-45年に『遼史』『金史』『宋史』が、1350年に『通鑑続編』が編纂されました。モンゴルが大征服の時代を振り返り、文明国としてこれまでの歴史を振り返る時が来たのです。

 1324年1月、マルコ・ポーロはヴェネツィアの商人のひとりとして、70歳で逝去しました。この頃ヨーロッパは天候不順による飢饉に襲われており、やがて東方から黒死病が襲来することになります。「中世編」があまりに長くなりすぎましたので、次回から「中世後期編」に入ります。

◆宇宙◆

◆一巡◆

【続く】

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