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【つの版】大秦への旅10・河豚計画

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。大秦への旅は今回で終わりです。

1908年、佐伯好郎により太秦・秦氏とキリスト教が結び付けられましたが、ネストリウス派とするには時代が早いことから「ユダヤ人キリスト教徒である」と主張されました。明らかに強引な語呂合わせによる胡乱な妄説でしたが、一部界隈では大真面目に取り沙汰されることになります。

◆巫王◆

◆救世◆

偽書流行

日ユ同祖論が無邪気に唱えられていた頃、ロシアや欧米では恐るべき偽書が流行していました。悪名高い『シオン賢者の議定書』です。これは1897年に実際に開催された第一回シオニスト会議の席上で発表されたとされ、「シオン(エルサレム)の24人の長老」によって決議されたといいます。そこには「ユダヤ人が世界を支配し、万民をユダヤ教の前に平伏させる」だの「フランス革命はシオンの専制君主の計画」だの、現在でもよく見る反ユダヤ主義の陰謀論が書き綴られています。反ユダヤ主義は古代から存在しましたが、近代における反ユダヤ主義の陰謀論はこれに遡ります。

『議定書』を作成したのはイリヤ・ツィオン(エリー・ド・シオン)というユダヤ系の人物ともされますが、ロシア帝国の政治秘密警察オフラーナの在パリ部長であったラチコフスキーが、反ユダヤ主義の怪文書や小説などをパクって捏造したとする説が有力です。1903年から1905年にかけて発表され、反ユダヤ主義者の間に広まりました。

日露戦争において、ユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフ(1847-1920)が日本に多額の資金援助を行いました。彼はドイツからアメリカに渡って財をなした人物で、ロシアによるユダヤ人の迫害(ポグロム)を憎み、日本を支援したのです。このため1906年には明治天皇より勲一等旭日大綬章を賜っており、佐伯が秦氏ユダヤ人説を唱えたのはこの影響かと思われます。シフのロシア帝国嫌いは徹底しており、第一次世界大戦でも資金を提供せず、ロシア革命に際してはレーニンやトロツキーへ資金提供をしています。

この時、『議定書』は「ロシアの反乱はユダヤの陰謀だ」として世界中に拡散されました。これにはロシア帝国や反革命勢力はもちろん、神智学協会などオカルト結社や各国の反共マスメディアも積極的に関わっています。社会不安を煽ることで信者や購読者を増やそうという目論見でしたが、政治家や経済界の大物にも信者が出て大騒ぎになりました。1918年に日本がシベリア出兵を行った時、白軍(反革命勢力)には全員この議定書が配布されていたといいます。陸軍将校の安江仙弘、通訳の酒井勝軍らはこれを翻訳し、1924年に『世界革命之裏面』と題して刊行しています。

河豚計画

これにより日本にも反共・反ユダヤ主義が流行しますが、安江は諸国の実情を見聞してユダヤ人問題の研究を進めるうちに、次第に反ユダヤ主義から現実主義・親ユダヤ主義に転向します。陰謀論の呪縛が解けたわけです。

猶太人の一人々々を観れば、数千萬の猶太人が一人残らず革命運動に参画して居るのでもなく、又皆一様に大財閥である訳でもない。多くの猶太人の中には、之を分類すると色々の種類がある。例へば、繪で見る基督のやうな、昔ながらの服装をして、『猶太の泣壁』に朝夕集り、救世主の降臨を祈り、全く現代とかけ離れて、猶太教のみに没頭して居る宗教的猶太人がある。又一方にシオニストとして、パーレスタインの猶太國建設のみに熱中して居る猶太人があるかと思へば、又他方には國境を超越して、世界を舞臺として活躍するインターナシヨナルな猶太人もある。更にシオニズムによつて一般に覚醒されたとはいひながら、シオン運動には無関心に自己の商売のみに熱中している猶太人もある。即ち猶太人であるからといふて誰も彼も危険視すべきではない。我が國に取つて有害な人物もあれば、無害な善良な人もある。(安江仙弘『猶太の人々』、1934年)

一方、酒井勝軍の方は激烈な反ユダヤ主義から激烈な親ユダヤ主義に急転回しました。彼はもともと熱心なキリスト教徒でしたが、熱烈な愛国心が昂じてオカルト方面へ接近し、日ユ同祖論を唱え、かの『竹内文書』で知られる天津教にのめり込んでいきます。政治家や軍人の間にはこうした新興宗教・オカルトのブームがあり、海外でも珍しいことではありません。

1934年、日産コンツェルン総裁の鮎川義介は『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表し、ドイツやアメリカのユダヤ資本を誘致して、建国まもない満州国を開発・防護すべしという構想を関東軍に立案しました。これは陸軍大佐の安江仙弘、海軍大佐の犬塚惟重らの根回しによるものです。安江はユダヤ人に同情的でしたが、犬塚は反ユダヤ的ながらも「ユダヤ人には利用価値がある」と考えた人物でした。

この現象(パレスチナへのユダヤ人の回帰)は、二千年来地球上をさまよい続けた東洋人種猶太人の東洋還元である。言葉をかえれば、古代の日本民族指導下から乖離した猶太民族の帰順である。然し、現状では帰順とは言いがたい。むしろ日本へ反逆し、東亜から日本勢力を閉め出し、彼等のみの天地を建設せんとしていると思われるのが、今次事変下の彼等の行動である。その主因は彼等の日本研究不足、特に日本精神の無理解と、民族性の誤判断から拠って来たるところ多大であると言えよう。我々は先ず、事変下国民の尽忠報国の行動を以って、現実に彼等にこれを教え、且つ日本学の確立、日本古代文化史の展開を以って、彼等の蒙を開くべきであろう。その結果、彼等が前非を悟りまつろい来たるまで、我々は倦まず弛まず努力するのも、新東亜建設者の責任である。(犬塚惟重『ユダヤ問題と日本』、1939年)

日本は1933年に国際連盟を脱退し、1936年には反ユダヤ主義のドイツと防共協定を結んでいましたが、「ユダヤ人資本家の金融ネットワークが世界の支配を目論んでいる」という陰謀論は、逆に考えれば「彼らを味方につければ国益に叶うじゃないか」ということになります。日露戦争に際してシフが日本に資金援助してくれたことも思い出されたでしょう。犬塚は「有毒かつ美味な河豚を料理するようなもので、日本に利益をもたらすが、扱いを過てば死を招く」と論じ、これを「河豚計画」と呼びました。

紆余曲折の末、1938年には日本政府から「ユダヤ人対策要綱」が出されますが、その内容は「特別にユダヤ人を排斥せず、渡来する者は通常の外国人と同様に扱う。積極的にユダヤ人を招致はしない。資本家や技術者のように特に利用価値のある者はこの限りでない」という煮え切らないものでした。また犬塚らは日ユ同祖論を喧伝し、極東ユダヤ人に上海やアメリカのユダヤ人へ移住を働きかけさせましたが、賛同を得られませんでした。

1939年には第二次世界大戦が勃発し、1940年には日独伊三国軍事同盟が締結されます。安江は予備役に編入され、河豚計画は白紙となり、1941年にはアメリカとの間で太平洋戦争が勃発します。日本はユダヤ人への迫害こそ行わなかったものの、アメリカやドイツからのユダヤ資本の導入は夢物語に終わったのです。安江は1945年にソ連軍の捕虜となり、1950年に病死しました。

弓月八幡

佐伯好郎は熊本の第五高等学校、東京高等工業学校、明治大学法学部で教鞭をとった後、1931年より東方文化学院東京研究所の研究員となりました。1943年には大著『支那基督教の研究』全5巻を刊行し、戦後の1952年には犬塚惟重を会長とする「日猶懇話会」に参加しています。

この会は副会長が三浦関造(神智学徒)、名誉会長が下中弥三郎(平凡社創設者)、理事が中里義美(雑誌『神日本』主催者)、顧問が山本英輔(元海軍大将)で、仲木貞一(劇作家、ムー大陸やキリスト来日説の紹介者)、小笠原孝次(オカルティスト、ユダヤ研究家)、山根キク(ジャーナリスト、キリスト・モーセ来日説の信者)などヤバい人々が揃っていました。

晩年の佐伯は秦氏=キリスト教徒論を「発展」させ、初祖である弓月君を「中央アジアの弓月国から到来した」としました。これは『旧唐書』『資治通鑑』などに見える西突厥の弓月部で、のちに唐が弓月城を置いたとされます。その位置を佐伯は「イリ地方のクルジア」とします。すなわち新疆ウイグル自治区北部のグルジャ市(イリ市、伊寧市)です。

また彼は『新撰姓氏録』に「弓月君の父功満王は仲哀天皇8年に来訪した」とあることから、これを(日本書紀の年代計算をそのまま採用して)西暦199年であるとしました。チャイナの史書によれば、この頃のイリ地方には烏孫という遊牧民の王国が存在しており、佐伯は「これが弓月王国であり、ユダヤ人キリスト教徒の国だ」とするのです。

彼は「2-3世紀のシリア・エデッサの神学者バール・ダイサンによれば、トルコ人とタタール人は既にキリスト教徒となっていた」とします。そしてイエスの弟子たちはシルクロードを通り、パルティア・インド・中央アジア・チャイナまで初期のキリスト教を伝道していたと主張します。秦氏が商業や絹布を織るのに長けていたのはシルクロードを往来する商人だから、というわけでしょう。まあインドには使徒トマスが来ていたという伝説もありますし、可能性はゼロではない気もしますが…。

さらに佐伯は秦氏の呼び名を考察し、秦(はた、はだ)とはヘブライ語でユダヤ人を意味する「Yәhūdhāh(イェフダー)」の訛りだとします。また脱落した語頭を探すと「ヤハタ(八幡)」すなわち八幡神となり、全国に分布する八幡神社は秦氏=ユダヤ民族の神、YHVH(ヤハウェ)を祀っているのだ…ということになっていきます。ならば八幡神が応神天皇と同一視されるのは弓月君が渡来した時の天皇だからかも知れませんね(ぐるぐる目)。

それでは、秦氏が秦(しん)の字を用い、秦の始皇帝徐福の子孫だと伝えられて来たのはなぜでしょうか。それは当然、彼らもユダヤ人だったからに他なりません。紀元前とはいえアッシリア捕囚やバビロン捕囚からは遥かに後の人物で、シルクロードを通ればバビロンからチャイナまで行けた時代です。天孫降臨とか神武天皇が紀元前660年に即位したというのは、当然アッシリアから失われた十支族が来たことを指します(おかしな目つき)。

きりがないのでこれぐらいにしますが、万事こんな調子です。日ユ同祖論は現在もユダヤ・キリスト教関係者の一部とか愛国心豊かな方々の一部で根強く語り継がれており、そのバリエーションも甚だ豊富です。一方でユダヤ陰謀論、反ユダヤ主義も世界中で未だに健在です。なぜこんなにもユダヤ人が重要視され、目の敵にされたり同祖論が信じられたりしたのでしょうか。

「徐福伝説」から続く「大秦への旅」は、これで終わりとします。ちょうど『悪魔くん』の新作アニメ化も発表されたことですし、次回からはいよいよユダヤの謎に迫ります。エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。

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【続く】

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