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【つの版】ウマと人類史:中世後期編01・大元政変

 ドーモ、三宅つのです。中世編が長くなりすぎたので区切りますが、前回の続きです。

 1294年、世界帝国「大元大蒙古国」の皇帝クビライ・カアンは世を去りました。チンギス・カンの崩御から70年近くが経過し、モンゴル帝国の各ウルスは拡大をやめて定着割拠し、新しい時代に対応しようとしています。しかし帝国中央部では、クビライに敵対するカイドゥが粘り、帝国全体の団結を乱していました。これをどうにかしなければなりません。

◆海◆

◆都◆

海都平定

 1294年5月に即位した新皇帝テムルは、クビライの孫にあたります。父チンキムは皇太子でしたが、父に先立って亡くなってしまいました。彼の長男カマラは寡黙で聡明でなく、次男ダルマバラは祖父に寵愛されたものの1292年に亡くなり、テムルが皇太孫として立てられたのです。クビライ崩御後、上都で開催されたクリルタイではカマラ派とテムル派で意見が分かれたものの、軍権を握るバヤンとチンキムの妃ココジンがテムルを支持したため、カマラは帝位を弟に譲りました。

 代わりに彼は1290年から晋王に封じられ、モンゴル高原の統治と宗廟の祭祀を委ねられていました。以後、晋王(モンゴル語で訛ってジノン)はカアンに次ぐ高位の皇族の称号となり、チンギス・カンの霊廟を祀る者が名乗るならわしとなっていきます。モンゴル高原の防衛を担う総司令官でもありましたが、実際の軍務はキプチャク人を率いるトトガクが担っています。

 テムルの即位後、1295年にバヤンが59歳で逝去しました。1296年にはアリクブケの子ヨブクル、モンケの庶子シリギの子ウルス・ブカ、コンギラト族コルラウト部のドゥルダカら三人の王侯がカイドゥのもとを離反して大元に投降しています。これは反クビライで団結していたカイドゥ派がジリ貧となる中、クビライが崩御した今こそカイドゥに見切りをつけるチャンスだったからです。テムルは大いに歓迎し、1297年に「大徳」と改元して祝賀パーティーを開き、カイドゥ派が崩れつつあることを内外に喧伝しました。同年にはトトガクが逝去し、子のチョンウルが跡を継ぎました。

 焦ったカイドゥは求心力を高めるべく、かえって大元への攻勢を強めました。テムルは従兄弟にあたる安西王アナンダらをモンゴル高原へ派遣し防がせますが、1298年にはチャガタイ家のドゥアがクビライの庶子ココチュ率いる大元軍に奇襲をかけ、オングト部の王コルギス(マルコ・ポーロが謁見したゲオルギオス)が捕虜になりました。テムルはココチュを更迭し、亡き兄ダルマバラの子カイシャンを前線司令官として派遣しました。

 1300年8月、カイシャン率いる大元軍はコベレでカイドゥ軍を撃破し、西へ進軍して12月にはアルタイ山脈の東麓まで進出します。カイドゥとドゥアは1301年夏にアルタイ山脈を越えて攻め込み、チョンウルはテケリク山でカイドゥ軍の先鋒隊に攻めかかって撤退させました。その二日後にドゥア軍が合流すると、大元軍との間にカラ・カダにおいて決戦が行われます。大元軍は劣勢に追い込まれますが、チョンウルがドゥア軍を撃破し、カイシャンも矢傷を負って病気となり、やむなく撤退します。

 カイドゥはこの時の負傷がもとで病死し、息子オロスを後継者として指名しますが、チャガタイ家の当主ドゥアはこの遺言を反故にし、カイドゥの庶子チャパルをオゴデイ家の当主に擁立します。当然オゴデイ家は当主争いで分裂し、ドゥアは1304年にさっさと大元に服属してしまいました。孤立したオロスたちは追い詰められ、チャパルも腹を立ててドゥアと大元に反旗を翻したため、1306年に彼らを討伐すべく遠征軍が送り込まれます。

 カイシャン率いる大元軍はイルティシュ川流域でこれを撃破し、アリクブケの子メリク・テムルら多くの諸王は降参します。しかし1307年にテムルが崩御し(諡号はオルジェイトゥ・カアン/欽明広孝皇帝、廟号は成宗)、カマラも1302年に逝去していたため、カイシャンは帝位を狙ってカラコルムへ戻りました。ドゥアも同年に逝去しており、カイドゥの残党はしばらく命脈を保ちます。

海山登極

 もともとテムルは病弱で、母ココジンが1300年に亡くなってからは皇后のブルガンが実権を握り、テムル崩御後は摂政監国となりました。彼女が生んだ男子ディシュは1306年に亡くなっており、テムルの男系は断絶します。となると皇位継承権のあるクビライ家の男性皇族は、ダルマバラの子カイシャンとアユルバルワダ、テムルの従兄弟である安西王アナンダとなります。カマラの子スンシャンは梁王として雲南を統治しており、その弟イェスン・テムルは父の跡を継ぎ、晋王としてモンゴル高原を統治していました。

 ブルガンはバヤウト部の出身ですが、ココジンはコンギラト部出身です。ダルマバラの妃でカイシャンとアユルバルワダの母ダギもコンギラト部出身で、ブルガンとは対立していました。カイシャンはモンゴル高原へ遠征中でしたから、ブルガンはダギとアユルバルワダを懐州(河南省焦作市)に追いやり、コンギラトの血を引かないアナンダを帝位に擁立しようと図ります。

 アナンダは誘いに乗って大都に入城しますが、ダルマバラ派は密かに懐州からダギとアユルバルワダを呼び戻し、クーデターを起こしてアナンダとブルガン、メリク・テムルを逮捕します。次いでカイシャンが上都に到着すると、アユルバルワダは彼をカアン/皇帝に推戴し、ここにカイシャンがカアンとなりました。彼はアナンダとブルガン、メリク・テムルを粛清し、弟アユルバルワダを皇太子とします。ダギは皇太后として権勢を振るいました。

 安西王家は取り潰され、アユルバルワダが領有します。アナンダの子オルク・テムルらは不満を抱きますが、逆らえば粛清されるため雌伏しました。カイシャンは即位すると帝国西方のウルスへ使節団を派遣し、帝国の再統一をアピールしたものの、クーデターを主導したコンギラト部はダギとアユルバルワダを支持しており、カイシャンは対抗するためキプチャクやアストを親衛隊として重んじました。カイドゥの残党はおおむね平定されたものの、今度はクビライ家の内部で勢力争いが勃発したのです。

西方反乱

 1311年、カイシャンは30歳の若さで突然崩御します(諡号はクルク・カアン/仁恵宣孝皇帝、廟号は武宗)。おそらくコンギラト派のクーデターによるものですが、アユルバルワダは皇太子として文句なく帝位を継承し、旧カイシャン派を追放しました。コンギラト派は権力を握り、権勢をほしいままにします。特にダギの寵臣テムデルは宰相となって国政を壟断しました。

 こうした中、西方で大元に対する反乱が勃発します。チャガタイ家では1307年に当主ドゥアが逝去した後、子のゴンチェクも1308年に逝去し、傍系で長老格のナリクが当主となりましたが、ドゥア派の貴族を圧迫したため1309年に暗殺されています。この混乱に乗じてオゴデイ家の残党が侵攻しますが退けられ、ドゥアの子エセン・ブカが当主に擁立されました。

 この頃、フレグ家の当主はガザンの弟オルジェイトゥでしたが、ドゥアの死後のチャガタイ家の混乱によって東方国境が不安定となります。ドゥアの子のひとりクトゥルク・ホージャはホラーサーン地方を治めていましたが、その子ダーウードが不穏な動きを見せたため、オルジェイトゥは軍隊を派遣してダーウードを追放しました。また大元へ使節を送って挟撃を目論んだため、エセン・ブカは大元とフレグ家を敵に回して反乱に踏み切ります。

 大元はキプチャク軍団を率いるチョンウルを派遣してエセン・ブカを攻撃させますが、エセン・ブカはこれに対してホラーサーンへ侵攻しました。これに乗じてホラズム地方でも反乱が起き、フレグ・ウルスは多大な迷惑を被ります。さらに1317年には、甘粛・陝西一帯で反乱が勃発しました。

 アユルバルワダは帝位についた後、兄カイシャンの子コシラを次の皇帝にすると約束していましたが、1315年にこれを反故にし、コシラを周王に封じて雲南へ左遷しました。また1316年には自らの子シデバラを皇太子とし、コシラを擁立して反乱を起こそうとしたカイシャン派を粛清します。しかし、コシラは追手から逃れて西へ亡命し、キプチャク軍団を率いるトガチらカイシャン派に奉戴されたのです。この反乱は同じくキプチャク軍団を率いるチョンウルらの裏切りで鎮圧されましたが、コシラはチャガタイ家に亡命して10年あまり雌伏し、やがて帰国して帝位につくこととなります。

南坡之変

 1320年、アユルバルワダは36歳で崩御し(諡号はブヤント・カアン/聖文欽孝皇帝、廟号は仁宗)、皇太子シデバラが帝位に着きました。しかし実権は祖母ダギとその寵臣テムデル、コンギラト派の手中にあり、シデバラは父ともども傀儡に過ぎません。1322年にダギとテムデルが相次いで亡くなるとシデバラはコンギラト派を追放・粛清し、ムカリ家のバイジュを重用して、皇帝の手に実権を取り戻します。ところが報復人事のやりすぎでコンギラト派から恨みを買い、1323年に弑殺されました。

 首謀者はテムデル派のテクシで、アスト軍団を率いる大物政治家でした。彼はシデバラの報復人事を止めるべく、安西王家のオルク・テムル、アルタン・ブカ、シデバラの庶弟ウドゥス・ブカと語らって暗殺を実行に移しました。次の皇帝に選ばれたのは、チンキムの長子カマラの子、晋王イェスン・テムルでした。やや傍系ですが血筋は正統ですし、母ブヤンケルミシュはコンギラト部の出身ですから、コンギラト派が擁立したのでしょう。

 しかしイェスン・テムルは、皇帝弑殺という(一応)帝国史上初の事件により帝位についたという汚点をそそぐため、テクシら首謀者を処刑や流刑に処し、シデバラにゲゲーン・カアン/睿聖文孝皇帝の諡号を奉り、廟号を英宗として丁重に祀りました。ただ皇太子にはカイシャンやアユルバルワダの子らではなく、自らの長子アリギバを立てています。これを不満とするカイシャン派は、イェスン・テムルの崩御後に大乱を引き起こすこととなります。

◆有◆

◆馬◆

【続く】

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