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【つの版】ユダヤの謎11・神殿崩壊

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦30年頃に磔刑死したナザレのイエスは「復活した」と信じられ、彼をメシア(キリスト)と信じる人々は教団を形成します。このユダヤ教の異端・ナザレ派が発展して多数の非ユダヤ教徒を取り込み、ユダヤ教から独立した「キリスト教」となっていったのです。

◆United◆

◆We Stand◆

領主変遷

キリスト教史から離れ、ヘロデ家の領主らのその後を見てみましょう。西暦34年にゴラン高原の領主フィリッポスが逝去すると、その領地は一旦ローマ帝国に預かられます。37年に皇帝ティベリウスが崩御し、アウグストゥスの曾孫にあたるカリグラが即位すると、彼の友人でヘロデ大王の孫にあたるアグリッパにフィリッポスの領地が与えられました。アグリッパの父はヘロデ大王とマリアムネの子アリストブロスで、ハスモン家の血を引いています。

ガリラヤ等の領主アンティパスはこれを不満に思い、妻ヘロディアと共にローマへ陳情に赴きますが、「ローマに反乱を企んでいる」とのアグリッパの中傷で廃位され、ガリアのルグドゥヌム(リヨン)へ配流されました。アグリッパは彼の領地をも引き継ぎます。

41年にカリグラが殺害されてクラウディウスが即位した際、彼はローマにいて元老院と新皇帝の交渉を取り持ち、功績によってアルケラオスの旧領(ユダヤ属州、ユダヤ・サマリア・イドマヤ)の支配を認められ、ユダヤの王位を授かりました。ヘロデ朝ユダヤ王国が復活したのです。ローマからしても反抗的なユダヤ人は統治しにくく、現地の王族に自治を委ねて機嫌をとったのでしょう。

アグリッパはファリサイ派に迎合してナザレ派を迫害し、十二使徒のひとりヤコブ(ゼベダイの子でヨハネの兄)は殺され、ペテロは投獄されました。しかしアグリッパは西暦44年に逝去し、その領土は全てローマのユダヤ属州にされます(イトゥリアはシリア属州に編入)。

息子アグリッパ2世は当時17歳でしたが、52年にはイトゥリアを除く旧フィリッポス領(ゴラン高原)の領主とされ、54年に皇帝ネロが即位するとガリラヤのティベリアス市などを与えられています。この時点でローマのユダヤ属州はユダヤ、サマリア、ペレア、イドマヤを含むわけです。

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使徒迫害

この間、ナザレ派に改宗したサウロは迫害を受けつつ各地で活動し、シリア属州の首府アンティオキアを拠点として小アジアやギリシアへも布教しました。またキプロス島の総督セルギウス・パウルスの庇護を受け、彼にちなんでかギリシア名をパウロと名乗るようになりました。ヤコブやペテロらはエルサレムを中心にユダヤ人やサマリア人への布教を進め、パウロらはエルサレム教会へ経済的支援を行っています。アンティオキアの人々は、彼らをユダヤ人(ユダイオイ)ではなく「クリスティアノイ(キリストに従う者)」すなわちクリスチャンキリスト教徒)と呼び始めました。

サウロ(サウル)はベニヤミン族で、小アジア南東部のキリキアの州都タルソス出身の在外ユダヤ人です。州都の市民のため生まれつきローマ市民権を持っており、ギリシア語はペラペラですが、律法学者ガマリエルに師事したバリバリのファリサイ派で、ナザレ派を迫害していました。しかしなんらかの強烈な体験を経て回心し、熱烈なナザレ派に転向しています。彼は生前のイエスと面識はなかったようですが、復活したイエスに遭遇したと信じ、「神の召命だ」と思って精力的に活動しました。彼が各地の教会に書き送った書簡は、新約聖書の最古の部分に属します。

しかし、ローマ人やギリシア人ら異邦人への布教を主とする彼らの活動は、保守的なユダヤ教徒からは「売国奴、ユダヤ民族の裏切り者」と取られても仕方ありません。西暦60年頃、パウロはエルサレムで逮捕され、ユダヤ属州長官フェストゥスの前に引っ立てられます。彼は「海辺のカイザリア」でパウロを尋問しましたが、宗教的なことを裁くと非常に面倒なため「ローマの皇帝に裁いてもらえ」と送り出します。パウロはマルタ島に漂着したりしながらローマへ辿り着き、すでに存在したローマのキリスト教会に庇護されます。その後の消息は『使徒行伝』に記されません。

西暦64年、ローマ大火が発生しました。時の皇帝ネロは陣頭指揮をとって消火活動にあたりましたが、鎮火後に「ネロが古い街を焼き払うため放火したのだ」という風評が立ちました。それでネロはローマ市内のキリスト教徒を放火の犯人に仕立て上げ、処刑した…とタキトゥスは書いています。

前後の状況を鑑みるに実際そうかは怪しいですが、キリスト教徒は「ユダヤ教の異端の怪しいカルト教団」として忌み嫌われていたらしく、ローマ市民らによるなんらかの迫害があった可能性はあります。パウロやペテロはこの時に殉教したとされますが、普通に寿命で死んだとも思われます。

猶太戦争

一方エルサレムでは、イエスの兄弟ヤコブが西暦62年に石打ちの刑で殺されました。当時のユダヤ属州長官はフェストゥスの後任アルビヌスです。彼は功績をあげようとして過激派ユダヤ人を逮捕・処刑し、民衆の恨みを買いました。西暦64年に後任となったフロールスはさらに横暴で、神殿の財産を奪い取り、反対したユダヤ人を処刑しました。これが直接の原因となり、ユダヤ人はついにローマ帝国に対する大規模な反乱を起こしました。

この戦争についての一次史料は、当事者であるユダヤ人の反乱指導者だったヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティア)による『ユダヤ戦記』です。著者の都合による事実の捻じ曲げや自己弁護は多々あるものの、第一級の史料として不足はありません。彼はハスモン家の末裔でファリサイ派でしたが、ギリシア・ローマ的な教養を充分に身につけており、皇帝ネロやその妻ポッパエアとも面識があったといいます。

それによると、まずアルビヌスやフロールスの横暴に対し、西暦66年にエルサレムで過激派による反ローマ暴動が勃発しました。ローマ側は暴動首謀者を逮捕・処刑しますが火に油で、ユダヤ属州全土に反乱が飛び火します。フロールスはシリア属州総督ムキアヌスと共に鎮圧にかかるも手間取り、事態を重く見た皇帝ネロは将軍ウェスパシアヌスを派遣しました。彼はエルサレムを含むユダヤ地方を後回しにし、ガリラヤやサマリアから攻撃します。アグリッパ2世は彼に協力し、ローマと和解せよと呼びかけました。

ヨセフスは反乱軍を率いてガリラヤの町ヨタパタを守備していましたが、ローマ軍に包囲され陥落します。ヨセフスらは洞窟へ逃げ込み集団自決することになったものの、ヨセフスは命を惜しんで投降し、ウェスパシアヌスに「あなたは皇帝となるであろう」と予言したといいます。

この頃ネロは元老院議員や家族、軍の重鎮を何人も処刑して彼らの支持を失っており、西暦68年にガリアで反乱が勃発、ヒスパニア総督ガルバが皇帝に擁立されます。各地のローマ軍団がこれに呼応し、ガルバはローマへ進軍を開始、元老院や近衛軍にも裏切られたネロは同年に自決しました。しかしガルバも失策続きで支持を得られず69年に暗殺され、オトが帝位を簒奪するもウィッテリウスに敗れ、彼も横暴で人望がなく、ローマは混乱に陥ります。

東方にいたウェスパシアヌスは、ムキアヌスの推挙を受けて皇帝に名乗りをあげます。エジプト、アフリカ、ガリア、小アジア、ドナウ川流域の各軍団長や総督らもウェスパシアヌス支持を打ち出し、ムキアヌスは兵を率いてドナウ川流域へ向かいます。彼はダキア族と戦ってローマ帝国の防衛者というスタンスをとり、鉄砲玉としてプリムスに「暴走した」ドナウ軍団を率いさせ、ウィッテリウスを始末させます。ヨセフスの予言は的中しました。

ウェスパシアヌスはユダヤで東方諸侯や総督、軍団長らの服属を受け、西暦70年にローマへ向かいました。彼の子ティトゥスは残って陣頭指揮をとり、ついにエルサレムを包囲します。

この頃、エルサレムでは熱心党(ゼイロータイ)を率いるシモンの子エレアザル及びギスカラのヨハネ、短刀党(シカリ派)を率いるエドム人改宗者(ギオラ)の子シモンの勢力が対立していました。ティトゥスはヨセフスを派遣して説得させますが失敗し、城壁を破城鎚で破壊します。さらに街の北を守るアントニア要塞を陥落させ、神殿を囲む城壁に火を放ちました。火はそのまま燃え広がって神殿と市街地を炎上させます。バビロン捕囚から656年後、エルサレム及び神殿は再び瓦礫と灰燼に帰したのでした。

神殿や城壁は石造りですが木材も多数用いられており、それらが燃えれば石材も崩れ落ちます。神殿は以後再建されず、ユダヤ人は焼け残った西壁を嘆きの場とし、アラビア人から「涙の場(el-Mabka)」と呼ばれました。いわゆる「嘆きの壁」です(この名で呼ばれたのは20世紀以後)。

ユダヤ人はなおも激しく抵抗し、一部はトンネルで市外へ脱出し、各地の砦に立て籠もって戦いました。特に熱心党の一派は1000人足らずの集団で死海南西部のマサダ要塞に立てこもり、西暦73年に陥落して集団自決するまで抵抗を続けました。ここにユダヤ戦争は終わり、ウェスパシアヌスとティトゥスは「ローマの敵に勝利した」として栄誉を受けたのです。

ローマに従うユダヤ人はユダヤの居住を許され、各地の在外ユダヤ人も処罰はされませんでしたが、神殿は再建を許されず、廃墟のままに捨て置かれます。またエルサレム市街地はローマ軍団の駐屯地とされ、一個軍団が常駐することになりました。このことはユダヤ人に大きな衝撃を与え、ローマへの恨みをより大きくしました。なおアグリッパ2世はユダヤ人から恨まれていたこともあり、領地をユダヤ属州に編入され、家族と共にローマへ移住します。ヘロデ家のユダヤ支配も終わりを告げたのです。

戦後福音

神殿の消滅と共に大祭司の制度も消滅し、祭司階級やサドカイ派は力を失いました。代わって台頭したのが、会堂(シナゴーグ)で集会を行い、律法を読誦し守ることをユダヤ民族のアイデンティティとするファリサイ派です。彼らは例によってユダヤの滅亡と神殿の崩壊を「神の罰である」と解釈し、ローマ帝国に従いつつ律法に従って生きる道を選びました。ローマは悪ではあっても「神の道具」であり、地上の諸王国と同じくそのうち滅ぶ(神の王国が訪れる)という考えです。ヨセフスもこれに属していました。

この過程で『ダニエル書』の4つの獣は読み替えられ、第一はバビロニアかアッシリア、第二はメディアとペルシア、第三はギリシアとヘレニズム諸国、そして第四の獣こそローマ帝国だとされます。

彼らは新しいユダヤの長老議会(サンヘドリン)を「海辺のカイザリア」付近のヤムニア(ヤブネ)に設置します。そしてユダヤ教を研究する学院を作り、ナザレ派・キリスト教をユダヤ教から逸脱した異端・異教と認定、彼らがユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に参加することを禁止しました。

死海近辺に残っていたエッセネ派もこの頃消滅します。ナザレ派改めキリスト教徒は、エルサレム神殿の破壊にショックは受けたものの、イエスという権威と教会という神殿を持っていたためそのまま存続します。迂闊にローマに逆らえば迫害されて滅ぶので、初期のキリスト教徒は基本的には武装蜂起せず、じわじわと信者を広げていく作戦を取りました。

パウロも「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである(ロマ書13章)」と言っています。彼はローマ市民権を活用していますし、セルギウス・パウルスなど権力者に庇護されることの現実的メリットをよく知っていました。「神の国は人々の中にある」のですから、現世にキリスト教の国を建設するなら権力者を改宗させるのが一番です。ステファノの同僚だった執事フィリポもエチオピアの女王に仕える宦官に洗礼を授けています。

しかし、イエスの刑死から30年や40年が経過すると、生前のイエスと面識のある人々はだんだんいなくなりました。期待された終末やイエスの再臨は待てど暮らせど訪れず、ヤコブもペテロもパウロも世を去り、彼らの説いた福音や教えも散逸しそうになります。そこでこの頃、イエスの生涯や教えをまとめて文書化する動きが高まり、『マルコによる福音書(マルコ伝)』が成立しました。これはギリシア語で書かれており、パウロの協力者であったヨハネ・マルコが著者とされます。

これに続いて西暦80年代にマタイ伝、ルカ伝&使徒行伝(ルカ文書)などが編纂されます。パウロの書簡や使徒たちの書簡も、キリスト教の教義を説明するものとして参照されました。しかしまだ『新約聖書』とは呼ばれず、それぞれ別個の文書で、どれが「正典」かも定まっていませんでした。イエスの生涯や福音もユダヤ教の聖書に基づいて解釈されているため、キリスト教とユダヤ教の関係は微妙で複雑なものです。

西暦79年にウェスパシアヌスが崩御すると、ティトゥスが跡を継ぎましたが在位2年で崩御し、弟のドミティアヌスが即位します。彼は父や兄の功績を記念して「ティトゥスの凱旋門」を建て、ユダヤ人や小アジアのキリスト教徒らを迫害しました。軍人としての経験がなかったため戦争に弱く、腹いせに元老院議員を処刑したりしたためローマ人にも評判が悪く、西暦96年に暗殺され、ネルウァが擁立されて即位します。小アジアのパトモス島で『ヨハネの黙示録』が編纂されたのは、この頃であると考えられています。

ここには凄まじい破壊と闘争のヴィジョンが溢れ、神や天使や復活したイエスはサタンや大淫婦バビロンや獣(ローマ帝国)と戦い、これを打ち倒して聖徒の国、神の王国を地上に打ち立てます。まさに終末論の集合体で、キリスト教世界における歴史観は、この書やダニエル書などに基づいています。

◆APOCALYPSE◆

◆NOW◆

【続く】

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