見出し画像

【つの版】倭国から日本へ05・継体崩御

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

継体天皇は親百済外交で百済を復興させ、倭国の王権を強めましたが、代償として任那諸国は弱体化し、新羅や大加羅の侵略を受けました。倭国内にも不満が鬱積し、新羅と結んだ磐井の乱が起きます。このような状況が解決できないまま、継体は崩御の時を迎えました。

当時のチャイナや半島諸国からすれば「倭王が死んだ」「倭王が薨じた」となるでしょうが(卑彌呼も倭の五王も「死」で済まされています)、日本書紀では歴代の倭国王も遡って「日本国の天皇」として扱われていますので、敬意を払って「崩」を用います。「倭王ヲホドが死んだ」「継体が死んだ」ではなんかアレだな、とつのは思うというだけです。漢風諡号も当時は存在しませんが気にしないで下さい。分かりやすさ重点です。

◆鎮魂歌◆

◆真実◆

継体崩御

廿五年春二月、天皇病甚。丁未、天皇崩于磐余玉穗宮、時年八十二。冬十二月丙申朔庚子、葬于藍野陵。
継体25年(531年)春2月、天皇は病が重くなった。7日、天皇は磐余玉穂宮で崩御した。時に82歳であった。冬12月5日、藍野陵に葬った。

お疲れ様でした。82歳なら長寿ですが、つのは世代や年代からして30年削って50代ではないかと思います。20年以上在位したので寿命でしょう。

継体天皇の陵は、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳としています。墳丘長227mの前方後円墳で、規模に不足はありませんが、考古学的には5世紀中頃の築造で、継体とは年代が合いません。規模からして、大王かそれに次ぐ王族の墓であろうとは思われます。

歴史学上では、大阪府高槻市の今城塚古墳(墳丘長190mの前方後円墳)を継体天皇の真の陵だとするのが定説です。築造年代は6世紀前半で、被葬者の生前から作られ始め、大きな埴輪や家型石棺の破片が見つかっています。ヤマトで崩御しても河内に陵が作られたのは、両方に宮があるからです。

大王の石棺に用いられた兵庫県高砂市の竜山石の他、奈良県二上山の白石、熊本県宇土市の馬門石があり、三つの石棺があったようです。宇土市は火君(火国の豪族)の本拠地で、海路で畿内へ運ばれたのです。別に継体や妃が宇土出身というわけではなく(伝推古陵でも馬門石の棺があります)、遠く西の彼方に産出する美しい石材だから運ばれたのでしょう。

崩御年

さて、問題はここからです。実は継体天皇の崩年には複数の説があります。『日本書紀』継体紀の末尾にはこう書かれています。

或本云「天皇、廿八年歲次甲寅崩。」而此云「廿五年歲次辛亥崩」者、取百濟本記爲文。其文云「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歲、當廿五年矣。後勘校者知之也。
ある本によると、「天皇は在位28年目の甲寅年(534年)に崩御した」という。ここで「在位25年目の辛亥年に崩御した」としたのは、『百済本記』によって文を為したのである。その文にいう。「25年3月、(百済は)進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月、高麗はその王安(安臧王)を殺した。また聞くところによると、日本の天皇及び太子、皇子はともに崩御・薨去した」。これによって言うと、辛亥の年は在位25年に当る。(編纂者に判断はつかないが)後の考え調べる人が明らかにするだろう。

531年辛亥、なにか大変なことが起きたようです。クーデターでしょうか。また『古事記』にはこう書かれています。

天皇御年、肆拾參歲。丁未年四月九日崩也。
(継体)天皇の御年は43歳。丁未年の4月9日に崩御した。

丁未年というと、この頃では527年です。531年辛亥より4年、534年甲寅より7年も早く、「磐井の乱」と同じ年です。まさか磐井の乱の時に継体天皇は既に崩御しており、大伴金村がそれを隠して倭国を取り仕切っていたのでしょうか。古事記と日本書紀の干支はかなり違いがあります。

継体の跡を継いだのは勾大兄皇子(安閑天皇)ですが、『日本書紀』安閑紀は即位元年を「甲寅」とします。継体25年2月に父が崩御するとその月のうちに即位していますから、継体25年は甲寅になるはずですが、継体紀には辛亥とあります。辛亥は531年、甲寅は534年。キング・クリムゾンめいて時が吹っ飛んだのでなければ、2年間喪に服して即位しなかったのでしょうか。

『日本書紀』では安閑天皇が在位2年、同母弟の宣化天皇が在位4年で崩御したため、異母弟の欽明天皇が即位したとあります。『古事記』では継体が丁未年(527年)に崩御した後、安閑が即位して乙卯年(535年)に崩御したとあり、安閑の在位期間が伸びていますが崩年は日本書紀と同じです。宣化・欽明については干支表記がなく、在位年数も書かれていません。

さらに『上宮聖徳法王帝説』に「志帰島天皇(欽明天皇)は41年天下を治め、辛卯年(571年)4月に崩じた」とあり、逆算すると531年辛亥に即位したことになりますが、安閑・宣化を無視して継体の次に欽明が即位したことになり、辻褄が合いません。『日本書紀』で欽明天皇が32年在位したとあるのとも違います。また『元興寺伽藍縁起』に「斯帰嶋の宮で天下を治められた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の7年戊午538年)に仏法が伝来した」とあり、やはり531年辛亥に欽明即位とします。日本書紀の年代では、538年戊午は宣化天皇3年です。『法王帝説』にも「志癸嶋天皇御世、戊午年十月十二日、百済國主明王、始奉度佛像經敎并僧等」とあります。

これらの諸説を並べるとこうなります。果たして、527年から539年までの間に何が起きたのでしょう。

継体崩御 527年丁未(古事記)、531年辛亥(日本書紀)、534年甲寅
安閑即位 534年甲寅(日本書紀)
安閑崩御 535年乙卯(記紀共通)
宣化崩御 539年己未(日本書紀)
欽明即位 531年辛亥(法王帝説等)、539年己未(日本書紀)
仏法伝来 538年戊午(欽明7年?法王帝説等)
欽明崩御 571年辛卯(539年から32年、531年から41年)

辛亥の変

明治から昭和にかけて、この問題に関して議論が起きました。平子鐸嶺は継体崩年を古事記に基づいて527年丁未とし、欽明即位年を『法王帝説』『伽藍縁起』に基づいて531年辛亥とし、間の4年に安閑・宣化が在位したとしましたが、記紀の両者で安閑崩年を535年乙卯とするのと矛盾が生じます。

そこで喜田貞吉は「二朝並立」説を唱えました。531年の継体崩御後に欽明が即位したものの、彼の即位を認めない勢力が534年に異母兄の安閑天皇を擁立したというのです。安閑が1年で崩御すると同母弟の宣化天皇が擁立され、539年に宣化が崩御して欽明だけが残ったわけです。安閑・宣化は継体が天皇(大王)に推戴される前、尾張目子媛との間に生まれた年長の子で、欽明は継体が即位後に手白香皇女を娶って儲けた若い子ですから、両者とその派閥の間に対立が生じることは考えられます。

林屋辰三郎はこの説を敷衍して「継体天皇は暗殺された」としました。作家の黒岩重吾は「日本天皇及太子皇子、倶崩薨」とあることから「継体崩御後に安閑・宣化は即位することなく殺され、欽明が即位した」としましたが、じゃあ記紀に本紀が立てられているのはなぜでしょう。さらに宣化を架空とする説、安閑崩御後に宣化・欽明が4年間並立したという説、531年に滅んだのは宣化とその皇子とする説、あるいはヤマトの武烈天皇とその皇子(つまり継体・武烈並立)という説もあります(岡田英弘氏は武烈説でした)。

しかし、『日本書紀』で継体崩年を531年辛亥としたのは『百済記』の記述に基づいており、それ以前は継体崩年は534年甲寅とされていたわけです(安閑即位年は甲寅のままで、修正されていません)。その百済記にしろ、日本書紀に引用されているだけで現存せず、内容も「又聞」という伝聞に過ぎません。百済で書かれた史書が倭国に関して事実を正確に伝えているという保証はなく、天皇・太子・皇子が共に死んだら皇室は全滅ですが、記紀にそのような大事件が起きた話はありません。武烈には子がいません。「任那王の金仇亥が倭王家を滅ぼし乗っ取った」とかいう与太話は無視します。

要するに、『百済記』の記述は又聞きで、信頼できない噂話です。日本書紀の編纂者がこのフェイクニュースに惑わされて継体天皇の崩年を繰り上げてしまい、おかしなことになっただけです。魏志倭人伝にも記紀にも、チャイナやコリアの史書にも、たくさんの嘘や誇張、勘違い、デマや大本営発表が含まれていることはこれまで見てきました。一つのデマが鵜呑みにされると連鎖的に勘違いや陰謀論が生じます。それらを引っ剥がして整理すれば、

継体崩御=安閑即位 534年甲寅
安閑崩御
=宣化即位 535年乙卯
宣化崩御
=欽明即位 539年己未
欽明崩御      571年辛卯

とすっきりします。『法王帝説』『伽藍縁起』は日本書紀より後に編纂されたもので、公的な史書ではありません。欽明天皇が男系・女系とも天皇の血を引き長年在位した(かつその子孫が皇室として継続していた)のに対し、安閑・宣化が短命かつ傍系だったことから、仏教の箔付けのために安閑・宣化をオミットして欽明天皇の在位年数を伸ばし(日本書紀の継体崩年を欽明即位年とし)、彼の時代に伝来したと後付で設定したのでしょう。

これはつのがそう推定しているというだけであって、正確な歴史的事実であることをなんら保証しません。あなたは自分で考えて下さい。

それでは一体、なぜ「日本の天皇及び太子、皇子はともに崩御・薨去した」というセンセーショナルなデマがこの時期に流れたのでしょうか。当時の国際状況から見てみましょう。

噂の真相

北魏では528年に将軍の爾朱栄が実権を掌握し、529年に六鎮の乱を平定しますが、530年に孝荘帝に暗殺されます。しかし爾朱栄の一族や家臣が孝荘帝を弑殺し、数年の間に次々と皇帝を立てては廃します。534年に孝武帝が宇文泰に担がれて長安へ遷都すると、高歓は洛陽で11歳の元善見を擁立(孝静帝)し、北魏は東西に分裂します。実態は東魏は高歓、西魏は宇文泰が実権を握る国で、互いに正統な魏と称しました。

このような時代ですから、「(北魏の)皇帝と太子、皇子が同年に崩御・薨去した」という話が百済に流れて記録され、日本書紀の編纂者が「皇帝…天皇のことだな」と勘違いした、ということもなくはない…でしょうか。梁ではまだ武帝蕭衍が健在で、このような事態は起きていません。しかし百済は北魏とは475年以来断交しており、山東半島から難民が流出しても高句麗を頼るでしょうし、交流はあまりなさそうです。

「太歲辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」

辛亥(531年)の3月に何があったと『百済記』に書いてあるかというと、「軍が安羅(咸安)に至り乞乇城を築いた」「高句麗はその王安を弑した」「日本天皇及び太子、皇子が共に崩薨した」の3つです。このうち最初の話は百済が行ったことで、自国の行動の記録ですから誤りは少ないでしょう。安羅は倭国の友好国ですが、そこへ百済が駐屯して城を築いたのです。

それでは、二番目はどうでしょうか。

高句麗王安は、名が好太王安と同じですが、本名は興安とされます。その即位は519年で、520年に梁や北魏から冊立されており、『三国史記』では在位13年目に薨去しています。すなわち梁の中大通3年、北魏の普泰元年、西暦531年ですが、特に弑殺されたとは書かれていません。また『梁書』諸夷伝高句麗条に「普通七年、安卒」とあり、梁の普通7年は526年です。『三国史記』ではこれを引いて「梁書云、安臧王在位第八年、普通七年卒、誤也」、梁書は誤りで三国史記が正しい、としています。

しかしながら、梁書には「七年、安卒、子延立、遣使貢獻、詔以延襲爵」とありますから、この年か翌年に安の子延の使者が梁に来て高句麗王の爵号を受けたことは梁側の公式記録にあるわけです。ならば、当事者による同時代史料である梁書の方が正しいとみなせます。『三国史記』が安の卒年を梁書によらず、その6年後としたのは、おそらく『日本書紀』継体紀に『百済記』を引いて「太歲辛亥三月…是月、高麗弑其王安」とあるのを読んだためです。逸書となった『百済記』が高麗にはまだあったのかも知れません。

しかし王が弑されたとする記録は高句麗側の史書になく、高句麗(高氏高麗)の後継者を自認する高麗(王氏高麗)としても、王が弑されたと露骨に記せば差し障りがあります。それで悩んだ末に年代だけを合わせ、弑されたとはしなかったのでしょう。『日本書紀』の編纂者が『百済記』に合わせて継体の崩年を変更したのと同じ誤りを犯してしまったのです。安藏王の次の安原王の薨去年も、この影響か梁書と三国史記で3年ズレています。

「外国の史書より我が国の史書の方が信頼できる」というのはそうかもしれませんが、そうでないこともあります。もちろん外国の史書にも多数の誤伝や偏見がありますが、客観的な視点も必要です。

「日本天皇及び太子、皇子が倶に崩薨した」というのは、『百済記』の推定原文では「倭王及び世子、王子が倶にんだ」と書いてあったのを日本書紀編纂者が改変したのでしょう。531年にはまだ日本の国号もなければ天皇の称号もありません。そして高句麗王も倭王もこの年に死んでも殺されてもいないとなれば、百済か新羅か大加羅国かが、このデマを流したのです。

『百済記』にそう書かれてある以上、「軍が安羅に至り乞乇城を築いた」の主体である百済が流した可能性はあります。倭国に敵対的で高句麗にも介入して欲しくない新羅や大加羅が流し、百済が鵜呑みにしたとしても不思議はありません。このデマで誰が動揺するかと言えば倭人たち、そして倭国を後ろ盾にしてきた任那諸国、金官国です。果たしてこのデマが人心を惑わし、不安にさせ、532年に金官国は新羅へ降伏することになったのでしょう。淝水の戦いでも見たように、デマは国を滅ぼすほどの威力があります。

そういうわけで、継体の本来の崩年は534年甲寅、在位年数は507年から28年間でした。古事記で丁未年(527年)とするのはよくわかりませんが、これもなにかのデマか、元の史料が干支の数え方を間違えていたのかも知れません。江戸初期ですら各地で独自の民間暦が使用され、日付がズレていたぐらいですから(幕府は1685年に統一暦として貞享暦を採用しました)、干支の数え方が途中から何年分かズレた暦があったとしてもおかしくありません。

折悪しく古事記も日本書紀も、この頃に継体天皇が何をしていたか詳しく伝えておらず、妄想の余地を残しています。裏付けのある記録を残していれば疑惑やデマに対抗できるのですが、編纂者自身がデマに惑わされてしまってはこうなります。気をつけねばなりません。つののこの記事も真実かどうか定かではありません。つのはこう推測しているというだけです。

◆欺◆

次回は継体と欽明の間、安閑と宣化の両天皇について見ていきます。

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。