見出し画像

【つの版】ウマと人類史30・羅馬劫略

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦370年頃、フン族はヴォルガ川とドン川を渡って黒海北岸に侵入し、アラン人やゴート族を駆逐・併呑します。押し出されたゴート族たちは多数の難民となってドナウ川を渡り、ローマ帝国に押し寄せて掠奪を働きます。ローマ皇帝テオドシウスはどうにかこれを鎮め、北部国境に住まわせて防衛を担わせますが、やがてフン族自身もローマ帝国に押し寄せて来ます。

◆戦◆

◆場◆


羅馬劫略

 フン族はアラル海やカスピ海の北部から黒海北岸に至る領域を手に入れましたが、全体を統一する王はおらず、多数の部族長や貴族がめいめい勝手に動いていたようです。381-394年頃にはゴート族やアラン人に混じってフン族もローマ国境を襲撃しており、パンノニアや小スキティア、トラキアにも侵入しています。彼らは比較的小規模な集団で、一部はローマ側に買収されて傭兵となり、西のガリアを襲っていたゲルマン系のアレマン人(アラマンニ)を防ぐため派遣されています。

 アレマンは「全ての人(All-Men)」の意ともいい、様々な部族集団が寄り集まったものです。この頃ベルギー付近にフランク、その東にサクソンといった部族連合が形成されており、ローマは彼らを同盟国として蛮族の侵攻を防がせています。「夷を以て夷を制す」というやつですが、あまり蛮族に頼りすぎたため、ローマの将軍は多くが蛮族出身者となる有様でした。また内戦においてもこれらの蛮族は駆り出され、軍事費はかさむ一方でした。

 395年夏、フン族の一派はカフカースを越えてアルメニアやペルシアへ侵攻し、一部はユーフラテス川を下ってペルシアの首都クテシフォンを脅かしました。また西へ進んだグループはローマ領カッパドキアや小アジアに侵略し、シリアの大都市アンティオキアまで迫りました。冬には別のフン族の一派が凍りついたドナウ川を渡り、トラキアやダルマチア(クロアチア)を荒らし回りました。これらのフン族が示し合わせて南下したのかは定かでありませんが、同年1月に皇帝テオドシウスはミラノで崩御しており、帝国は東方がアルカディウス、西方がホノリウスに分割相続され、混乱状態にあったのも確かです。二人の皇帝はアホのボンボンで対応能力がなく、フン族は各地で将軍たちに迎撃されながらも縦横無尽に帝国を蹂躙しました。

 この混乱に乗じて、西ゴートの族長アラリックは王(rex)に選出され、ローマに反旗を翻します。彼はローマ軍の指揮下で混成部隊を率いて内乱鎮圧のために戦っていましたが、多大な犠牲を払った割に報酬が少なく、部下からの突き上げを食らったようです。アラリック率いる西ゴートはトラキアから南下してコンスタンティノポリスに迫り、防備が固いと見て進路を替え、マケドニアを経てギリシアへ侵入、アテナイやコリント、スパルタなどを掠奪しました。東ローマ帝国は為すすべがなく、398年には彼をイリュリア地方(バルカン半島西部)の総司令官(マギステル・ミリトゥム、大将軍)に任命、自治を認めるとともに西ローマ帝国の攻撃を防がせました。

 この頃、西ローマ帝国で実権を握っていたのはスティリコという将軍で、かつてはアラリックの上司でした。彼は父がヴァンダル族、母がローマ人であるため「半蛮族」と呼ばれましたが、テオドシウスのもとで頭角を現し、マギステル・ミリトゥムに任命され、ホノリウスの後見人とされたのです。スティリコは西ゴートとの戦いで活躍したものの、東ローマからは疎まれ、ライバルのアラリックが彼を抑えるためにイリュリアへ置かれたわけです。

 東ローマはゴート族の援軍によりフン族の侵入をどうにか防ぎましたが、権力を握る宦官エウトロピウスに対してゴート系の将軍ガイナスが反乱を起こし、コンスタンティノポリスを一時占領します。しかし彼は聖職者や市民に嫌われ、トラキアへ逃げたところをフン族の長ウルディンに殺され、コンスタンティノポリスへ首級が送りつけられています。相手が敵とはいえ皇帝もビビったことでしょう。405年にゴート系の族長ラダガイススらがイタリアに侵攻すると、スティリコはウルディンを雇って翌年撃破しました。

 408年、勝ち誇ったウルディンはトラキアやモエシアを荒らし回り、東ローマに莫大な貢納金を要求します。彼は「わしが望めば、太陽が照らす場所はどこでも征服できる」と豪語しますが、部下たちが買収されて寝返ってしまい、翌年散々に撃ち破られてドナウ川の北へ撤退しました。彼は信頼できる史料に初めて個人名が現れるフン族の一人です。

 この頃になると、フン族は東西ローマ帝国の傭兵としてちょくちょく見られるようになっています。アラリックの義弟アタウルフ、西ローマ皇帝ホノリウスらもフン族の騎兵部隊を雇っており、イタリアとダルマチアには数千のフン族が駐屯して西ゴートを牽制していました。しかしアラリックは繰り返しイタリアに侵攻し、スティリコと戦います。408年、ホノリウスは愚かにもスティリコを処刑し、ゴート族の人質を殺したため、3万人のゴート兵がアラリックに寝返ります。アラリックはこれを好機としてイタリアに侵攻し、410年にはローマを陥落させて掠奪しました。ホノリウスは北イタリアのラヴェンナの宮廷にいて無事でしたが、800年も外敵に征服されなかった都市ローマの陥落は、帝国全土に衝撃を与えました。

皇女流浪

 アラリックは同年に南イタリアのカラブリアで病没し、義弟アタウルフが跡を継ぎます。彼は西ゴート族を率いてイタリア西部を北上し、アルプス山脈を越えて南ガリア(南仏)へ移動します。彼はホノリウスの妹ガッラ・プラキディアを捕虜として連行し、ホノリウスの対立皇帝ヨウィアヌスと戦う代わりに南ガリアとイベリアへの定住を許可され、414年にプラキディアと結婚しました。しかし415年、部下によりバルセロナで暗殺されます。

 次の王シゲリックは反ローマ派でしたが在位7日で殺され、次のワリアは南ガリアのトロサ(トゥールーズ)を都として王国を築き、ホノリウスとの取り決めで「租税の3分の2と土地の3分の1はゴート族の『客人』に、残りはローマ人に与えられる」と定められました。プラキディアはラヴェンナへ引き渡され、将軍コンスタンティウスと再婚させられた後、421年に夫が死ぬとコンスタンティノポリスへ亡命しています。

 423年にホノリウスが崩御すると、テオドシウス1世の血を引かない書記長官のヨハンネスが擁立されますが、東方皇帝アルカディウスの子テオドシウス2世はこれに反対し、プラキディアがコンスタンティウスとの間に儲けた幼いウァレンティニアヌスを西方皇帝として送り込みます。当然ヨハンネスを倒すべく軍勢が伴っており、アラン人の将軍アルダブリウスとその子アスパルが大軍を率いてイタリアに侵攻して来ました。皇帝の母プラキディアも一緒です。ヨハンネスは仰天し、ラヴェンナに籠城しました。

蛮夷君臨

 この時、ヨハンネスの部下アエティウスは、援軍を要請すべくフン族の地へ派遣されました。彼は小スキティア出身の父ガウデンティウスとイタリア出身の母アウレリアの子で、半蛮族と言える出自です。軍人の子として宮廷に仕えましたが、14歳から17歳(405-408年)まで西ゴート王アラリックの宮廷で人質として過ごしました。その後はフン族の王へ人質として送られ、彼らと親しく交わって教育された人物でした。

 この頃、フン族はドナウ川中流域に進出し、オクタル(Octar,Uptaros)とルーア(Rugila,Rougas)の兄弟が共同統治者となっていました。おそらくオクタルが西部、ルーアが東部を支配しており、オクタルはこの頃ヴォルムスに拠点のあったブルグント族と戦っています。とするとオクタルはオーストリアや南ドイツ、ルーアはスロバキアやハンガリーに割拠していたのでしょうか。彼らの弟のムンズクは、ブレダアッティラの父とされます。

 アエティウスはラヴェンナから北か北東へ赴き、フン族の大軍を率いて戻って来ましたが、すでにラヴェンナは陥落し、ヨハンネスは処刑されていました。アエティウスはアスパルと戦った後、プラキディアと和解して新皇帝を承認し、ガリアの軍司令官に任命されて西方へ派遣されます。彼は西ゴートやフランクを打ち破り、429年にはマギステル・ミリトゥムに任命され、政敵を排除して西ローマ帝国の実権を握りました。また一時暗殺されそうになった時はルーアのもとへ逃れ、その軍事力で権力の座に返り咲きます。

 東西のローマ帝国はフン族に頭が上がらず、東ローマ皇帝はフン族へ毎年350リブラ(130.8kg)もの黄金を貢納として支払っていました。アエティウスも自らの権力の後ろ盾としてフン族を優遇し、433年にはパンノニアとイリュリアの一部を割譲しています。さらにルーアは、東ローマに亡命して傭兵となっているフン族の従属部族を引き渡せと圧力をかけますが、434年春に急死しました。430年にはオクタルも死んでおり、王位はムンズクの息子ブレダとアッティラが継承します。やはり東西に割拠したのでしょう。

 彼らは改めて東ローマへ圧力をかけ、逃亡者の引き渡しを求めます。435年、二人はマルゴス(現セルビア北部のポジャレヴァツ、ベオグラードの東70km)で帝国使節団と騎乗したまま会見し、逃亡者の引き渡しに加えて貢納を倍額(黄金700リブラ)とすること、フン族支配下の商人への市場開放、ローマ人捕虜1人あたり8ソリドゥス金貨を支払うことを要求します。帝国はやむなくこれを飲み、満足したフン族はパンノニアへ戻りました。皇帝テオドシウス2世は、この平和を利用して各地の防御態勢を強化しています。

 同年、ブルグント王グンダハール(グンテル)がローマ領の都市トリーア付近へ侵攻したため、アエティウスは軍を率いて迎撃します。436年にはフン族の騎兵を用いてブルグント軍を壊滅させ、グンダハールは戦死します。アエティウスはブルグント王国をローヌ川上流、リヨン東方のサパウディア(サヴォイア、サヴォワ)地方に遷し、グンディオクを王としました。のちブルグント族はやや北に広がり、ブルゴーニュ地方の名を遺しています。

 440年、フン族は「マルゴスの司教がフン族の王族の墓を暴いて財宝を奪った」といいがかりをつけ、和平を破ってドナウ川北岸を襲い、さらに渡河して東ローマ帝国へ侵入、数年に渡りバルカン半島一帯を荒らし回ります。ヴァンダル族のカルタゴ征服、ペルシアによるアルメニア侵攻も重なり、帝都コンスタンティノポリスも脅かされ、やむなく皇帝はフン族の要求に応えます。貢納金は以前の3倍の2100リブラに引き上げられ、捕虜の身代金は12ソリドゥスとされ、賠償金として6000リブラもの黄金をせびられますが、皇帝はどうにか支払い、満足したフン族はドナウ川の北へ去っていきました。

 445年、ブレダが死んでアッティラが単独の王となります。その死には謎が多く、アッティラが狩猟中に殺したとも、雷に打たれたともされますが、真相は不明です。彼はドナウ川以北の広大な帝国に君臨し、東西ローマ帝国を畏服させ、ついにはガリアやイタリアにまで侵攻するのです。

画像1

◆AKIRA◆

◆KANEDA◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。