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【つの版】ユダヤの謎16・反猶太論

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

ローマ帝国は多神教の国であり、誰がどんな神を崇めようと、反乱や社会不安を起こさなければ信仰の自由は認めていました。皇帝やローマ古来の神々を礼拝することは求めましたが、ユダヤ民族はカエサル以来の特権としてそれを免除されています。しかしキリスト教徒は他の神や皇帝を崇めず、ユダヤ教徒とも対立していました。現代まで続くユダヤ人への差別や偏見の源流はキリスト教によるものです。

◆Old Earth◆

◆Against◆

殺基督罪

キリスト教は、ユダヤ教から派生した宗教です。ナザレのイエスはユダヤ教を信じるユダヤ人(ガリラヤ人)であり、弟子たちもそうです。イエスはユダヤ教の神ヤハウェを「自分を遣わした天の父」と呼び、ユダヤ教の聖書を引用して説教しました。正確に言うと現在に続くラビ的ユダヤ教(ファリサイ派)ではなく、エッセネ派などの影響を受けた「ナザレ派」です。

イエス本人は「争いをやめよ、許しあえ」と言い、十字架上でも「主よ、彼らの罪をお許し下さい」と言ったはずですが、弟子たちは自分たちを迫害したユダヤ教主流派に近親憎悪を募らせていきます。イエスを処刑したのはローマのユダヤ長官ピラトですが、ローマを直接敵に回すと教団の存立が危ぶまれますし、非ユダヤ人に布教する時にも得策ではありません。そこで「イエスを殺した罪はユダヤ人にあり、ローマにはない」という方便を造り出しました。西暦80年代に編纂された福音書ではこうです。

ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(マタイ伝27:24-25

より古いマルコ伝やルカ伝では「ピラトが群衆を恐れてイエスの処刑を承認した」としています。似た傾向ですが、マタイ伝ほど激烈ではありません。また、ユダヤ人であるパウロさえこう言っています。

ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。(テサロニケ第一書2:15-16

ユダヤ人、イスラエル人、ヘブル人たちが、どれほどヤハウェに律法や預言を授けられても多くの者が従わず、迫害し処刑したかは、ユダヤ教の聖書自体にまざまざと書き記されています。ヤハウェが自分の預言者を迫害する者を許さず、災害や戦争、亡国や捕囚によって苦しめたということも、ユダヤ教の聖書にあり、ユダヤ教徒自身も認めています。「律法を守らなかったから滅んだ」というのは律法学者の建前で、「預言に従い悔い改めなかったから滅んだ」というのは預言者側の建前ですが。

古代イスラエル王国やユダ王国、祭司階級が支配する神殿共同体、またハスモン朝やヘロデ朝にあって、預言者(ナビー、声を上げる者)は神の言葉を伝える人間として尊敬はされたものの、体制側を批判して「悔い改めよ」と叫ぶ反体制勢力でもありました。現代で言えば野党やマスコミ、ジャーナリストです。彼らは民衆の怒り、民の声を神の声として支配層に届ける重要な役目を担っていましたが、体制に迎合して都合の良い預言ばかり述べたり、自分の党派や外国の利益のために預言したりする者も無数におり、自称メシアも掃いて捨てるほど存在しました。だいたい「私は神の声を聞いた!」とか言って辻説法する人間など、古代社会であってもヤバい人と見られて不思議ではありません。預言が外れた預言者は偽預言者として処罰されます。

そんなわけで、自称預言者は治安を乱す者としてよく逮捕・処刑されていました。イザヤのように政治的にうまく立ち回った宮廷預言者もいますが、おおむね迫害されて死んでいます。ましてや「イエスはメシアだ、死んだが復活した」「彼は神の子だ」と言い触らす連中は、ユダヤ教主流派からすれば許しがたい異端です。迫害される側も「迫害されることは予言されていた、聖書にある通りだ」「真実は我々の側にある!」とかいきり立っていますから、否定されればされるほど過激に信仰にしがみつくのは当然です。やがてサウロのように啓蒙されて真実に目覚めてしまう人も出てきました。

サウロ=パウロは、当初は小アジアやギリシアに存在したユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で説教を行い、離散ユダヤ人に対して布教していました。中には改宗者も現れますが、「ユダヤ教を乗っ取る気だ!」と怒ったユダヤ人に当然迫害され、信者の家を集会所にしたと使徒行伝に書かれています。

一方ナザレ派改めキリスト教からすれば、ユダヤ人はせっかく彼らのもとに来たメシアであるイエスを認めず処刑した罪深い民族であり、キリスト教に改宗した後も頑迷に古い律法にしがみつき、非ユダヤ人のキリスト教徒にまで割礼や律法を押し付けようとして来る愚かな民族です。しかもイエスは「ユダヤ人の父は悪魔である」と(ヨハネ伝で)発言しています。

どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。(ヨハネ伝8:43-44

ヨハネ伝は1世紀末に編纂されたものですが、イエス自身がこう言った(言わせてしまった)からには、キリスト教徒たるものユダヤ人を「悪魔の子」とみなさざるを得ません。

もともとギリシア人やエジプト人やローマ人は、ユダヤ人を「我々の神々を崇めない野蛮人」「不合理な風習を頑なに守る奇妙な民族」として嫌っていましたから、キリスト教に改宗した後もユダヤ人への嫌悪感は残ります。ユダヤ人に差別されていたサマリア人やガリラヤ人、シリア人やフェニキア人も、キリスト教に加わってユダヤ人への憎悪を共有します。こうして万人を救済するはずのキリスト教の根幹には、ユダヤ人・ユダヤ教への差別と偏見が刻印され、現在まで連綿と続いているのです。

異教論駁

キトス戦争やバル・コクバの乱が起きると、キリスト教徒はテロリストの仲間とみなされるのを嫌い、「我々はユダヤ教徒ではない!」と主張します。当時現れ始めた教父らは、異端を論駁すると同時にユダヤ教を論駁し、口を極めてユダヤ人に非難を浴びせました。「彼らの国が滅亡し、エルサレムが破壊され、自称メシアが死んだのは、バビロン捕囚と同じく彼らの罪に対する神の怒りに違いない!」というわけです。ユダヤ教徒自身もそう考えてはいましたが、イエスを処刑しナザレ派を迫害したせいとはしていません。

アンティオキアのイグナティオスはユダヤ教から決別するため、週の末日である安息日(シャバット、七)ではなく、翌日の第一日(日曜日)を「主の日」として礼拝を守るべしと唱えました。イエスは過越祭の金曜日に「神の初子」として刑死して埋葬され、土曜日(安息日)を経て、日曜日に復活したと信じられていたからです。実際には安息日も守られましたが、321年にコンスタンティヌスの勅令で日曜日が礼拝日と定められたといいます。

ユダヤ教からすれば、キリスト教は人間イエス(よくてラビ、あるいは偽預言者や偽メシア)を尊敬するあまり偶像化してしまった宗教です。サマリア教団よりもさらに酷く逸脱し、異邦人の宗教思想が入り込みすぎています。ヤハウェを崇拝し、結果的に善行をするのなら良いのですが、イエスをメシアとするならまだしも、ヤハウェと同一視するなどあり得ないことです。

「神の子が神に自らを捧げて人類の罪を贖った」という教義も意味不明で、ヤハウェは人身供犠を禁止しています(イサクを生贄にせよとアブラハムに命じた後、実行に移そうとしたアブラハムを止めています)。しかも割礼を行わず、律法の大部分を守らないのですから、もはや異端を通り越して別の宗教で、ユダヤ教の律法で裁く対象にもなりません。

またユダヤ教は、アントニヌス・ピウスの勅令により強制的な改宗や積極的な布教を行わなくなったため、基本的にはユダヤ教徒から生まれた子のみに割礼を行い、律法を守って暮らす者のみをユダヤ民族とする民族宗教です。望んで改宗する者は喜んで受け入れますが、律法学者の承認が必要です。

血統は重要視されますが、神に従わないユダヤ人は民族共同体から追放されます(律法によれば石打ちの刑で殺されます)。元異邦人でも割礼を受けて律法を守ればユダヤ教徒です。エドム人のアンティパトロスやヘロデ、アディアバネ王国の王家はユダヤ教に改宗しています。もっともヘロデらは暴君として嫌われており、ユダヤ人はヘロデの親分のローマ帝国や、支配者になったキリスト教徒も隠語で「エドム」と呼びました。

キリスト教徒とユダヤ教徒はしばしば衝突しましたが、ローマ帝国は宗教的理由であろうと紛争を禁じており、コンスタンティヌスも相互の争いを禁じる勅令を出しています。またギリシア・ローマ・エジプトなど多神教の神々を崇めることは禁止せず、互いに攻撃することも禁じられています(やった連中はいたのでしょう)。しかしキリスト教が皇帝の強力な庇護下に置かれた以上、目端の利く者なら改宗し、教会内で政治力を発揮して高位につこうとしたり、他宗教を攻撃したりするのは目に見えています。

帝位変遷

西暦337年にコンスタンティヌスが崩御すると、三人の子が帝国を分割統治し、コンスタンティヌス2世はガリア・ヒスパニア・ブリタニアを、コンスタンス1世はイタリア・北アフリカ・パンノニア・ダキアを、コンスタンティウス2世は残りの東方領土を相続しました。

しかし340年にコンスタンティヌス2世がコンスタンス1世と争って戦死し、コンスタンス1世も350年に反乱で殺されたため、コンスタンティウス2世は西方の反乱を鎮圧して唯一の皇帝となります。彼はミラノに駐留して帝国を統治しますが、ガリアの反乱を鎮圧するため従弟のユリアヌスを副帝に任命し、自らは東に戻ってペルシアと対峙しました。やがてユリアヌスは西方で自立し、361年にコンスタンティウス2世が崩御すると跡を継ぎます。

コンスタンティウス2世はアタナシウス派ではなくアリウス派を支持していましたが、ユリアヌスはキリスト教徒に対する優遇政策をやめ、異端とされた者たちに恩赦を与えます。またユダヤ教徒に対してもエルサレム神殿の再建を約束し、ギリシアやローマの神々を祀りました。さらに「教師は自分が信じていない事を教えてはならない」との勅令を発布し、キリスト教の教師が「異教」であるギリシアやローマの古典文学を教授できなくしました。

ミラノ勅令の精神に基づけば、キリスト教だけを優遇するのは確かによくありません。しかしキリスト教徒は激怒し、彼を「背教者」と呼びました。ユリアヌスはアルメニアを巡ってペルシアと戦い、クテシフォン付近まで迫りますが、363年に陣没しました。

軍隊によりヨウィアヌスが擁立されてペルシアと講和しますが、364年に崩御してウァレンティニアヌスが即位します。彼は弟ウァレンスを東帝とし、375年に崩御すると幼いグラティアヌスウァレンティニアヌス2世が共同で西帝とされます。彼らはキリスト教徒でしたがアリウス派を信仰しており、正統教義とされたはずのアタナシウス派と対立していました。

378年にウァレンスがゴート族との戦いで戦死すると、将軍テオドシウス1世が東帝とされます。彼は379年にアタナシウス派(三位一体派)から洗礼を受け、380年には「三位一体を信仰しない者は異端とする」という勅令を出し、三位一体派のナジアンゾスのグレゴリオスをコンスタンティノポリス大主教に任命します。また381年にコンスタンティノポリス公会議を開催し、ニカイア信条の確認とアリウス派など異端の排斥を決定しました。

374年、ミラノ司教にアンブロジウスが就任しました。彼は教会政治家として辣腕を振るい、グラティアヌスにローマの伝統宗教を弾圧するよう唆します。383年にグラティアヌスがマグヌス・マクシムスに殺されると、テオドシウスはアンブロジウスを派遣して講和し、共同皇帝のひとりとして西方を統治させました。しかし387年にマクシムスはイタリアに攻め込み、ウァレンティニアヌス2世を追放したため、テオドシウスはこれを打倒します。

アンブロジウスはアリウス派やユダヤ教を弾圧するようテオドシウスを唆します。390年にはテッサロニキでの虐殺事件を理由に皇帝を破門し、改悛するまで聖体拝受を許さないとしました。カノッサの屈辱に先立つこと700年近く、皇帝と教会の権威の対立があったのです。テオドシウスはやむなく懺悔を行い、391年にはキリスト教以外の神殿の訪問と供犠を禁止し、翌年には帝国における全ての「異教」の礼拝を禁止しました。キリスト教はついにローマ帝国の国教となったのです。とはいえ、すぐに全ての異教が根絶されたわけではなく、ユダヤ教も存続してはいます。

アンティオキアの修道士ヨハネスは「黄金の口(クリュソス・トモス)」と呼ばれる弁論家でしたが、この頃に「ユダヤ人に対する説教」という文章を著し、「ユダヤ人は盗賊、貪欲な野獣」「彼らの救いの道は間違っている」「彼らの不信心は狂気、シナゴーグは悪魔の住まい」などと述べています。彼はのちにコンスタンティノポリス大主教となり、アンブロジウスやグレゴリオスら共々聖人として崇敬を集めました。

ウァレンティニアヌス2世は名目上は西の皇帝でしたが、マクシムスの打倒以来テオドシウスの傀儡となり、フランク人の将軍アルボガストが実権を握っていました。392年にウァレンティニアヌス2世が変死すると、アルボガストはテオドシウスに長男アルカディウスを迎えて西帝に立てたいと打診しますが黙殺され、友人でローマの元老院議員のエウゲニウスを擁立します。

彼はキリスト教徒でしたが、宗教的には寛容で、多神教の神殿や祭壇を再建しています。元老院やローマ市民は彼を讃えましたが、アンブロジウスは彼と対立し、テオドシウスをけしかけます。テオドシウスは393年に息子ホノリウスを西の皇帝とし、394年に軍勢を率いてイタリアへ侵攻、エウゲニウスとアルボガストを打倒しました。

かくて帝国は再統一されますが、テオドシウスは395年にミラノで崩御し、幼いホノリウスが西帝、アルカディウスが東帝に即位します。結果的に東西のローマ帝国は、これ以後再び一人の皇帝によって統一されることがなく、それぞれ異なる運命を辿ることになります。そして、キリスト教が国教となったローマ帝国において、ユダヤ教はどうなったのでしょうか。

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【続く】

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