見出し画像

【つの版】ユダヤの闇01・隔都聚集

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。「ユダヤの謎」を古代編、「ユダヤの秘密」を中世編として、今回から近世編です。

近世(Early modern period)という時代区分については地域によって異なりますが、欧州史においては東ローマ帝国が滅亡した1453年(あるいは宗教改革が始まる16世紀初頭)から、フランス革命の起きた1789年、ないし神聖ローマ帝国が滅亡した1806年頃までを指すようです。もとは「古代・中世・近代(ルネサンス以後)」という三区分でしたが、ルネサンスから数百年が経過すると新たな分類法が必要になったのです。日本史で言えば応仁文明の乱から江戸時代後期までにあたります(織豊政権以後とも)。

◆閉塞◆

◆混沌◆

だいぶ駆け足で中世欧州史をやりましたが、ご覧頂いたように常時マッポーです。とはいえ農業革命や技術革新、ルネサンスなど明るい面も多々あり、古代よりも遅れていて悪かったとは決して言えません。ユダヤ教徒もその中でそれなりにうまくやっており、社会の一員ではあったのです。人権思想が一応存在する現代と比較してどうこう言っても不毛なことです。

しかしユダヤ人が医師や商人や高利貸しとして王侯貴族の手先となり、庶民からカネをむしり取っていたのは事実で(アガリの多くは王侯貴族に巻き上げられましたが)、庶民から敵視されるのも仕方ありません。新たに台頭した非ユダヤ人の商人にとってはユダヤ人は商売敵です。権力者に逆らうのは危険なので、不満のはけ口は必然的にユダヤ人に向かいます。

賤民階級は欧州にも存在しましたが、ユダヤ人はキリスト教徒にとってわかりやすい悪役、スケープゴートでした。悪魔の子、キリスト殺しの罪深い異教徒、裏切り者で不正な会計係であるイスカリオテの「ユダ」の仲間といった宗教的な差別に加え、子供を誘拐して血を過越のパンに混ぜているという「血の中傷」、井戸に毒を入れ疫病を流行らせたといった風説も流布され、拡散されます。肩身の狭くなった彼らはどうなったでしょうか。

西班追放

西欧や東欧のユダヤ人について見てきましたので、イベリア半島のユダヤ人であるセファルディムから見ていきましょう。11世紀末よりモロッコから襲来したムラービト朝・ムワッヒド朝は聖戦やイスラム原理主義を唱えてユダヤ人を迫害したため、ユダヤ人はキリスト教徒に庇護を求めました。彼らの協力もあって、13世紀後半までには半島南部を除く大部分がキリスト教諸国(アラゴン、カスティーリャ、ポルトガル)に奪還されました。

その後もユダヤ人は王室の財源や知識人として優遇されたものの、やはり黒死病や高利貸しを原因として迫害が始まります。1391年にはセビーリャで大規模なユダヤ人虐殺が発生していますし、カトリックの聖職者はたびたび反ユダヤ運動を煽り立てました。

こうした中で、迫害を逃れようとしたユダヤ人はキリスト教に改宗します。彼らは改宗者(コンベルソ)と呼ばれ、5万人も存在しましたが、表面的な改宗にとどまっている者が多く、イスラム教からの改宗者モリスコと共に嫌われました。キリスト教徒は彼らを「豚(マラーノ)」と蔑んでいます。

1469年、カスティーリャ女王イサベルとアラゴン王フェルナンドの婚姻により、両国は連合王国(総称してヒスパニア、エスパーニャ、スペイン)となりました。彼らはローマ・カトリック教会の守護者とされ、ローマ教皇から特別に国内で異端審問を行う権利を許可されます。両王は異端審問所の長官にドミニコ会の修道士トルケマダを任命し、コンベルソやモリスコを狙い撃ちして異端認定し、拷問・虐殺して財産を没収しました。

1492年、イベリア半島に最後まで残っていたイスラム教国のナスル朝グラナダ王国が両王に滅ぼされると、両王は国内全土からユダヤ人を追放するアランブラ勅令を発布しました。当時のスペインには30万人ものユダヤ人がいましたが、20万人以上がカトリックに改宗し、10万人ほどがスペインを去ってモロッコやオスマン帝国、ヴェネツィアなどへ離散しました。

画像1

隔都聚集

ナポリ王国の支配下にあった南イタリアとシチリアには、ラ・ジュデッカというユダヤ人居住区が存在しました。隔離はされていなかったようですが、ナポリ王となったアンジュー家、アラゴン王家、スペイン王家はユダヤ人を迫害し、シチリアからユダヤ人を追放しています。

最初のユダヤ人の隔離居住区は、1463年にドイツのフランクフルトで建設されました。ユダヤ人は交易の盛んなこの町に12世紀中頃から暮らしており、ある程度ユダヤ人同士で集まって暮らしていたものの、キリスト教徒とも普通に雑居していました。しかし黒死病以後ユダヤ人への迫害が頻発し、多くの国や都市でユダヤ人が追放されます。フランクフルトでは商業の都合上、ユダヤ人の経済力が不可欠だったため「ユダヤ人小路(ユーデンガッセ)」という隔離居住区が作られたのです。

キリスト教徒との接触がなるべく避けられるよう、ユダヤ人は教会から離れた場所に住まわされました。周囲は壁で囲まれ、夜になると城門が閉められ、日中に外を出歩く時はユダヤ人だと判別できる衣服やバッジを身につけるよう定められます。壁内の家屋は全て賃貸住宅で、家賃はユダヤ人税ともども市の収入とされました。ユーデンガッセのユダヤ人は、15世紀末には11から18世帯、100人から150人程度でしたが、16世紀後半には各地からの移民によって2000人に増え、18世紀初頭には3000人に達しました。人口が過密になって衛生状態は悪化し、しばしば疫病が流行しています。

「ゲットー」という呼び名は、1516年に作られたヴェネツィアのユダヤ人隔離居住区に由来します。ヴェネツィアでは古くからユダヤ人が交易商人として活動していたようですが、陰謀論者が説くような「ユダヤ人によるヴェネツィア支配」などはありませんでした。ヴェネツィア本島の南にジュデッカ島はありますが、特にユダヤ人が居住したことはないようです。

1516年、ヴェネツィア共和国政府は、本島北西部のカンナレジオ地区の新鋳造所(getto)跡にユダヤ人居住区を建設しました。設立当初の居住者は700人程度で、多くが神聖ローマ帝国から来たユダヤ人(アシュケナジム)でした。1538年には隣接する旧鋳造所跡にも拡大され、東地中海沿岸のユダヤ人(レバンティニ)、イベリア半島から追放されたユダヤ人(ポネンティニ、セファルディム)も住み着くようになりました。

ヴェネツィアは東ローマやイスラム圏と盛んに交易していたため、イタリアのカトリック圏でありながら狂信的な宗教思想を持たず、歴史上ユダヤ人への迫害・略奪・虐殺はほとんど起きていません。居住の自由が制限され、人頭税が課されていたものの、ヴェネツィアのユダヤ人は商人・金融業者・医師・船員・通訳・交渉役など多くの職業を持ち、比較的裕福でした。人口は最大5000人に達し、ドイツ系・レヴァント系・イベリア系でそれぞれ別の言語や生活風習を保ち、シナゴーグも別々に存在したといいます。

これに対し、1555年にローマ教皇パウルス4世がローマに設営したゲットーは、名前はヴェネツィア由来でも神聖ローマ帝国のユダヤ人居住区に近いものでした。彼は異端やユダヤ教を嫌悪しており、それまで経済的利益のため歴代教皇が庇護していたユダヤ人をテヴェレ川の彼方へ追放し、居住区を壁で囲んだのです。さらにパウルスは、イタリア中部の教皇領に属する各都市にもゲットーを作らせ、北イタリアにも広がって行きました。

東欧繁栄

プラハには古くからユダヤ人街がありましたが、1389年の虐殺で激減しました。1543年には神聖ローマ皇帝フェルディナントによってボヘミア全土にユダヤ人追放令が出され、ユダヤ人はフランクフルトやポーランドへ亡命しました。16世紀後半からは皇帝によるユダヤ人の庇護が行われ、プラハには多くのユダヤ人が戻ってきます。17世紀初頭には3000人、17世紀末には東欧からのユダヤ人難民を迎え入れて1万人を超えたといいます。

ポーランドやハンガリーなど東欧諸国では、ユダヤ人への迫害は西欧諸国ほど厳しくはありませんでした。彼らはシュテットル(小さな町)というコミュニティを形成し、キリスト教徒から隔離されず、王国の法令に基づいて安全と自由、自治を保障されていました。1453年にはカジミェシュ4世、1539年にはジグムント1世によって法令が再確認されています。

ハンガリーはオスマン帝国との戦いで弱体化しますが、ポーランドはリトアニアと連合し、ウクライナとベラルーシを併合して東欧最大の強国となり、オスマン帝国やモンゴル諸族(タタール)、ルーシ諸侯やモスクワ大公国と戦っています。1569年、ポーランド・リトアニアのユダヤ人口70万人もおり、これは全人口の1割に達したといいます。またこの頃は15万人程度で、70万人という数字は17世紀以後だともされます。

可薩問答

これら中欧・東欧のユダヤ人(アシュケナジム)の起源を、ハザールの改宗ユダヤ人だとする言説があります。これは近現代の政治的思惑や偏見が絡んだ俗説・陰謀論であり、学術的には論ずるにも足りません。詳しくは近代編でやりますが、中世・近世の状況からでも素人ですら理解ります。

まず、ハザール人はテュルク系の言語を用いていましたが、アシュケナジムの用いるイディッシュ語はドイツ語の一種です。多少は西スラヴ系の影響が見られますが、テュルク系の要素はほとんどありません。

またハザールの故地(北カフカース)やガリツィア地方(ウクライナ西部)から数十万人ものユダヤ教徒の移民があったとすると、その地域には数百年に渡って数十万人のユダヤ教徒が存在し続けたことになりますが、そのような記録はありません。モンゴル帝国の史料にも、ハザールのユダヤ教徒については書かれていません。修道士カルピニが1245年頃ハザールについて書いていますが、北カフカースに多少いた程度のようです。

ハザールの故地を統治したジョチ・ウルスはイスラム教に改宗しています。ハザール系のユダヤ教徒が残っていたとしても、イスラム教に改宗するか、クリムチャクなどテュルク系言語を話すユダヤ教徒になっていたでしょう。各地からハザールに集まっていた外来のユダヤ教徒は、イスラム世界や東ローマへ戻っていき、改宗するか「啓典の民」として扱われたでしょう。中欧や東欧のユダヤ人にハザール系がひとりもいないとまでは言いませんが、いたとしても少数だったと考えるのが穏当なところです。

「ユダヤ人は中東のアラブ系だから白人(コーカソイド)じゃない」という言説もありますが、人種という問題はさておき、ユダヤ人(ユダヤ教徒)は歴史的に混血者や改宗者を多数受け入れています。「純血の○○民族」など近代の民族主義による宗教的幻想で、存在しません。科学的にいうなら、全ての現生人類はアフリカのチンパンジーの親戚の子孫です。

「じゃあ『約束の地』にアブラハムの子孫じゃない自称ユダヤ人が国を建ててるのはおかしいじゃないか!」と言いたいのでしょうが、ユダヤ人/イスラエル人(ヘブル人)は雑多な人間集団の寄せ集めですし、宗教的にいうなら建国も滅亡も神様(ヤハウェ、アッラーフ)の思し召しです。つのの知ったことではありません。関係者の間で適当にどうにかして下さい。

さて、16世紀には欧州全土に宗教改革の嵐が吹き荒れます。カトリック教会ではこれに対して反宗教改革が起こり、ユダヤ人はますます肩身が狭くなりました。次回はゲットーが誕生した時代背景を見ていきましょう。

◆飛び出せ◆

◆ゲットー◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。