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【つの版】ウマと人類史:近世編29・大帝崩御

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1721年、20年以上に及んだスウェーデンとの戦争に勝利し、バルト海に進出したロシアの君主ピョートル1世は「全ロシアのインペラートル」を名乗り、名実ともにロシア帝国を打ち立てました。彼の内政や国内・宮中の問題についても見ていきましょう。

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地方行政

 まず、ロシアにおける地方行政区域の変遷から見てみましょう。古来ルーシ諸公の各々の所領はヴォロスチ(権威の及ぶ区域)と呼ばれ、その下に数十戸の農家からなるデレヴニャ、教会堂を有するセロや貢納集積所から発展したポゴストスタンといった村落がありました。複数のヴォロスチを包括する行政単位がウエズド(地区)で、その中心には都市法を持つゴロド(都市)などがありました。

 16-17世紀、モスクワ大公国は各地の分領公国を廃止し、ウエズドの上にラズリャド(軍管区)を設置しました。ウエズドやラズリャドの総督をヴォイヴォダ(司令官)といい、その地域における司法や行政を管轄しました。シベリアへの進出により多くのラズリャドが設置され、1680年までにモスクワ・ロシア全土は13のラズリャドに分かれていました。すなわちモスクワ、セフスク、ウラジーミル、ノヴゴロド、カザン、スモレンスク、リャザン、ベルゴロド、タンボフ、トゥーラ、トボル、トム、エニセイです。その下には合計166ほどのウエズドが存在し、多数の村落を統治していました。

 ピョートルは1708年、ラズリャドを再編して8つのグベールニヤ(県)に分けます。すなわちインゲルマンラント(イングリア、1710年からサンクトペテルブルク)、モスクワ、アルハンゲロゴロド(アルハンゲリスク)、スモレンスク、キエフ、カザン、アゾフ、シベリア(トボリスク)です。

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 1713年にリヴォニアを管轄するリガ県が置かれ、スモレンスク県はモスクワ県に併合されます(1726年に再設置)。1714年にカザン県西部を分けてニジニ・ノヴゴロド県が設置されますが、1717年に廃止され、カザン県南部を分けてアストラハン県が設置されます。1719年にはニジニ・ノヴゴロド県が再設置され、現在のエストニアにあたる地域がレヴァル(タリン)県としてリガ県から分けられました。

 同年、グベールニヤの下位行政単位としてプロヴィンツィヤ(属州)、その下にジストリクト(地区)が置かれます。これはスウェーデンの制度を真似たもので、プロヴィンツィヤは合計45から50あり、ジストリクトはウエズドとほぼ同じです(1727年にはウエズドに戻されます)。ピョートルの時代以後、ロシア帝国の地方は三段階に大きく分けられたのです。

 多くの日本語文献ではグベールニヤを、ウエズドをと訳しているようですが、これは明治期以後の日本での用法(道・州・県・郡・村)を適用したものです。しかしチャイナでは県は州や郡の下にあったのですし、規模的にもグベールニヤを道、プロヴィンツィヤを州、ウエズドを県とした方が近そうな気もします。とりあえずここではグベールニヤを県とします。

中央改革

 続いて、中央政府の改革を見てみましょう。1711年にピョートルは貴族議会(ボヤール・ドゥーマ)を廃止し、ローマ帝国を真似て元老院(セナート)を設置しました。その議員はわずか9人(翌年10人に増えました)しかおらず、皇帝が不在の時に政務を代行する機関とされます。ゆえに立法・司法・行政の三権を有します。1721年にピョートルへ「全ロシアのインペラートル」の称号を奉ったのも、名目的にはこの元老院でした。

 貴族に対しては古い爵位が廃止され、新しい爵位制度が導入されます。1714年に分割相続を禁じて長子相続制に移行させ、長男以外の貴族子弟は軍人や官僚として勤務せざるを得なくさせました。1718年には行政改革を行い、役割の重複した官庁制度を廃止し、9つの参議会に再編します。

 さらに1722年にはスウェーデンやドイツの制度に倣って官等表を定め、文官と武官を14等に格付けしました。然るべき学校教育を受ければ貴族出身でなくても官吏や軍人になることができ、給与を与えられます。昇格は勤務年数で決められ、8等以上は世襲の貴族となれました。

 正教会に対しても国家による統制を強め、1700年にモスクワ総主教を代行のみとし、1701年には修道院省を設置して教会領を統括させています。聖職者には国家の官吏に準ずる者として様々な義務が課せられ、多くの教会や修道院の土地や財産が国家に没収されました。また1708年には信者の痛悔(神に罪を告白して赦しを乞うこと)の内容に反国家的言動があれば密告せよと命じられます。

 1721年にはついにモスクワ総主教庁が廃止され、代わって聖務会院が設置されます。これは英国国教会やドイツのプロテスタント教会の制度を真似たもので、サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフなどの府主教ら高位聖職者と、皇帝に任命された総裁を含む俗人によって構成され、正教会を皇帝権力の制御下に置くものです。またピョートルはウクライナなどロシア以外の聖職者を好んで登用し、西欧的な教会改革を行わせました。

 ピョートルは経済政策にも積極的に投資を行い、官営工場を設立し、工業への保護育成政策も取りました。しかしそれらの費用や軍事費捻出のために重税を課し、1718年には人頭税制度が導入されます。官吏や軍人は教育不足のため腐敗し、汚職が横行して人民を苦しめ、各地で反乱が相次ぎました。人々は西欧化改革を矢継ぎ早に進めるピョートルについていけず、「黙示録の反キリストだ」「外国人村ですり替えられた偽物だ」と噂しました。

皇子獄死

 家庭面でもピョートルはトラブルを抱えていました。1698年には妃エヴドキヤを修道院へ追放し、愛妾のオランダ人アンナ・モンスを侍らせていましたが、1703年にはエカチェリーナという女性を愛人としました。彼女はリヴォニアの農民の娘で本名をマルタ(マルファ)といい、バルト・ドイツ人の牧師の養女となり、1701年にスウェーデンの軍人と結婚していましたが、ロシア軍の捕虜となって正教に改宗、エカチェリーナと改名しました。

 将軍メーンシコフから彼女を紹介されたピョートルは大層気に入り、1712年にはサンクトペテルブルクで正式に結婚し、皇后としています。彼は愛人時代から数えて合計12人もの子を産ませましたが、成人まで生き延びたのは次女アンナと三女エリザヴェータだけでした。

 一方、エヴドキヤが生んだ皇子アレクセイは父と対立していました。1711年にはドイツのブラウンシュヴァイク公女シャルロッテと結婚し、長女ナターリヤ、長男ピョートルを儲けますが、シャルロッテは産後の肥立ちが悪く1715年に急死します。アレクセイは愛人を侍らせて妻を顧みなかったため、父に叱られて腹を立て、母エヴドキヤともども反体制派に担がれたのです。

 1716年、アレクセイはウィーンに亡命しますが翌年ナポリで逮捕され、父のもとへ連れ戻されます。ピョートルは彼を国家反逆罪に問い、彼とエヴドキヤの支持者を粛清して皇位継承権を剥奪、1718年に死刑を命じました。アレクセイは直後に28歳で獄死し、1715年にエカチェリーナが生んだ皇子ピョートルが皇位継承者とされたものの、彼も1719年に夭折しています。

大帝崩御

 イヴァン雷帝のように我が子を殴り殺したわけではありませんが、跡継ぎ問題が拗れたことは同様です。アレクセイの子で自らの孫にあたるほうのピョートルはいましたが(ややこしいですね)、廃嫡した皇子の子を跡継ぎにするのも沽券に関わるため、ピョートルは頑張ってエカチェリーナに男児を産ませようとします。しかし生まれるのは娘ばかりで次々夭折し、どうにもうまく行きませんでした。1722年には皇位継承法を制定し、皇帝が後継者を指名すると定めたものの、肝心の後継者を定めることはできませんでした。

 1724年11月、52歳のピョートルはネヴァ川の河口の砂州に乗り上げた船を救出すべく自ら真冬の海に入り、持ち前の怪力で持ち上げたものの、体調を崩して膀胱炎を患い、翌年1月末に崩御しました。反ピョートル派は男系男子であるアレクセイの子ピョートルを皇帝に擁立しようとしますが、皇后エカチェリーナは愛人メーンシコフら重臣と手を組み、近衛部隊に元老院を抑えさせ、同日中に皇帝として即位します。

 実権はメーンシコフらに握られた傀儡ですが、リューリク家でもロマノフ家でもロシア人ですらないリヴォニアの農民の娘が、ロシア史上初の女帝となったのです。これ以後ロシアは短命の皇帝が続き、しばらく混乱の時代を迎えることとなりました。

◆石◆

◆海◆

【続く】

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