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【つの版】ウマと人類史:中世編12・澶淵之盟

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 907年に唐が後梁へ禅譲して滅亡した時、契丹では耶律阿保機が可汗に即位して天皇帝と号し、唐の天命を次ぐ天子であることを宣言しました。チャイナでは李存勗が後梁を滅ぼして後唐を建国し、華北と四川を統一して天下の再統一に乗り出します。しかし後唐の覇権は長続きしませんでした。

◆五代◆

◆十国◆

燕雲割譲

 925年に蜀を併呑した翌年、李存勗は反乱に遭って殺され、李克用の養子であった李嗣源(明宗)が擁立されます。彼は応州(山西省朔州市応県)出身の雑胡で、父は李克用の父・李国昌に仕えた李霓でした。雑胡といえども譜代の軍人で養子ですから、皇族として扱われたのです。彼は馮道を宰相として国政再建につとめ、質素倹約を旨として善政を敷きました。

 933年に明宗が崩御すると子の李従厚(閔帝)が即位しますが、節度使の権力を削減しようとしたため反乱が起き、934年には明宗の養子で鳳翔節度使であった李従珂に帝位を簒奪されます。明宗の娘婿であった河東節度使の石敬瑭は彼と対立し、936年に左遷を命じられたことで挙兵しました。

 石敬瑭は太原の人で、『旧五代史』には「春秋時代に衛の大夫であった石碏、漢の丞相であった石奮の末裔が甘州(張掖市)に移り住んだもの」などとありますが甚だ怪しく、『新五代史』では「もとは西夷」としています。石氏は昭武九姓のひとつで、タシケントを出自とするソグド人が名乗ったものですから、突厥沙陀部に仕えたソグド人の末裔でしょう。沙陀部が唐に帰順するとこれに従い、父の臬捩鷄は騎射に巧みで李克用に仕え、洺州刺史にまで至っています。後趙の石勒とは無関係ですが、有り様は似ています。

 この頃、契丹は後唐の混乱に乗じて盛んに北辺へ侵略しており、石敬瑭は北方を守る重鎮としてこれに対処していました。そのため強い軍事力を保持しており、李従珂は彼を警戒していたのです。反乱を起こした石敬瑭はたちまち後唐の討伐軍に晋陽を包囲され、進退窮まった末、なんと敵国である契丹に援軍を要請します。契丹の太宗・耶律堯骨はこれに応じ、長城を越え晋陽に到達、後唐の軍勢を撃ち破って石敬瑭を救出しました。

 936年11月、石敬瑭は堯骨によって皇帝に擁立され、晋(後晋)を建国します。彼は10歳年下の堯骨を「父皇帝」、自らを「児皇帝」と称し、代償として幽州(北京/燕京)・雲州(大同)を始めとする長城以南の十六の州を割譲し、毎年絹30万疋を貢納して臣従することを誓いました。名実ともに契丹の属国です。新末には匈奴、隋末には突厥がこうした辺境の群雄に帝位や王位を与えて支援したことがあり、これが初めてでもありませんが、あいにく後唐は契丹と後晋によって滅ぼされてしまいます。

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 937年、石敬瑭は都を晋陽・洛陽から開封に遷し、馮道を宰相として国政を担わせました。けれども建国の経緯が経緯でしたから節度使らは従わず、南方諸国も離反します。942年に石敬瑭が崩御すると甥の石重貴が擁立されますが、契丹への服従をやめて対決姿勢を明らかにし、怒った堯骨は後晋へ攻め込みます。後晋は二度にわたり契丹軍を撃退したものの、946年に開封を征服されて滅亡しました。947年正月、堯骨は開封に入城し、国号を漢風に大遼、元号を大同と改めて、チャイナを直接支配する意志を現しました。

晋遼漢周

 同年2月、太原で劉知遠が挙兵し、皇帝と称しつつも後晋の元号を保って南下します。旧新五代史とも「もと沙陀部の人で漢の明帝の後裔と称した」とし、いわゆる漢民族/漢人ではありません。やはり太原の人で、父は李克用に仕えています。劉知遠は石敬瑭より3歳年下(895年生まれ)であり、親世代にあたる後唐の明宗に仕えて活躍しました。石敬瑭が挙兵すると彼に従って重用され、河東節度使に登っています。のち幽州道行営招討使となり、契丹の侵攻をしばしば撃退して太原王・北平王に封じられました。

 ところが成徳節度使の杜重威が恒州(河北省石家荘市)で契丹に降伏し、契丹はそのまま南下して開封を陥落させてしまいます。これは納得いかないというので劉知遠が挙兵したわけです。契丹は開封を占領し中原を制圧したものの、疫病が流行し各地で反乱が頻発したため、やむなく北方へ撤退しました。耶律堯骨は帰還の途上で病死し、劉知遠は開封に入城して国号をと改めます(後漢)。しかし彼は即位の翌年に病死し、子の承祐が跡を継ぎますが節度使の反乱や天災が打ち続き、951年に弑殺されて漢は滅びました。

 続いて即位したのは郭威です。彼は邢州堯山県(河北省邢台市隆堯県)の出身で、漢人とも胡人ともわかりません。幼い頃に一家で太原へ移住して晋に仕えましたが、父の郭簡は燕との戦いで戦死し、孤児となった彼は潞州(山西省長治市)の常氏に身を寄せました。やがて兵卒から身を起こし、劉知遠に見いだされて出世したのです。

 劉承祐は彼の権勢を恐れ、郭威を枢密使・天雄軍節度使として鄴へ出向させ、開封にいた彼の一族を皆殺しにしました。激怒した郭威は挙兵して漢を滅ぼし、帝位に擁立されて国号を(後周)とします。唐→晋→漢→周と統一王朝の国号を借り、過去へ過去へと遡っていますね。

 漢はわずか4年で滅びましたが、劉知遠の弟の劉崇は太原で挙兵して漢の皇帝となり(北漢)、契丹/遼に服属して捲土重来をはかります。この頃の遼は堯骨の甥の兀欲(世宗)が帝位についていましたが、951年に暗殺され、堯骨の子の述律(穆宗)が即位するなど混乱しています。

 954年に郭威が崩御すると、劉崇は契丹とともに南下しますが、郭威の跡を継いだ柴栄(世宗)がこれを撃退しています。柴栄は郭威の妻の兄の子で、郭威の養子でしたが姓氏を変えず、国号は周のままとしました。父系血統を重視する儒教的にはアレですが、この時代にはよくあることです。

 なお馮道は柴栄の即位を見届けてから逝去しており、後唐・後晋・遼・後漢・後周の五朝、李(朱邪・雑胡・王氏)・石・耶律・劉・郭・柴の八姓十一人もの皇帝に仕えて天寿を全うしました。燕も加えれば六朝九姓十二君です。どれだけころころ王朝や帝位が代わったかを体現していますね。

 遼が内紛で混乱している隙に、柴栄は天下統一に向けて動き出します。まず955年には蜀(後蜀)に奪われていた秦・階・成・鳳の四州を奪還し、958年には南唐を服属させ、淮河以南・長江以北の地を割譲させました。南唐は国号を江南と改め、皇帝と名乗ることもやめています。

趙宋建国

 959年に柴栄が崩御すると、子の柴宗訓は幼少であったため、軍部からは有力な将軍の趙匡胤を帝位に擁立しようという動きが広がります。960年、北漢と契丹の連合軍が南下しているとの報を受けた皇太后は、趙匡胤に迎撃を命じて兵を授けますが、趙匡胤は兵士らに推戴される形で皇帝となり、柴宗訓から禅譲を受けて国号をとしました。これが宋の太祖です。周代の宋国は殷の王家の末裔ですから、名目上は周より遡っています。

 趙匡胤は莫州清苑県(河北省保定市清苑区)の人です。高祖父から祖父までは唐に仕え、父の弘殷は899年生まれで劉知遠や石敬瑭と同年代であり、後唐・後晋・後漢・後周に仕えて活躍した軍人でした。先祖は漢の名臣の趙広漢であると名乗っていますが疑わしく、実際の先祖が漢人か胡人かもわかりませんが、たぶん当人たちにもわからなくなっていたでしょう。どのみち晋・後唐の流れをくむ沙陀突厥系の軍人政権には違いありません。

 彼は柴栄の意志を継ぎ、天下を統一すべく群臣と協議します。契丹遼朝が内紛を続けている今こそ好機でした。弟の趙匡義(光義)、宰相の趙普が彼をサポートし、グランド・デザインを描きます。

五代后周形势图(繁)

 この頃、南方には後蜀、荊南(南平)、楚(武平)、江南、呉越、南漢の六国が割拠しており、華北の諸王朝に従ったり叛いたりしていました。宋は963年に最も弱い荊南と楚を併合すると、965年に後蜀、971年に南漢、975年に江南を平定し、天下の大部分を再統一します。976年に趙匡胤が崩御すると趙光義(太宗)が跡を継ぎ、978年に呉越、979年に北漢を滅ぼします。黄巣の乱から100年後、ようやくチャイナに統一王朝が復活したのです。唐代以来の節度使割拠の問題は、彼らから穏健な方法で兵力を取り上げ、皇帝と官僚/文官による中央集権体制に戻すことでどうにか解決しました。

 しかし唐に比べて宋の国土は小さくなりました。ベトナムは939年に南漢から独立し、969年には丁部領が皇帝と称し、国号を大瞿越としています。雲南では859年に南詔王世隆が帝位を称して大礼国とし、変遷の末に938年からは段氏の大理国となっています。寧夏からオルドスにはチベット系タングート族が唐末以来割拠して定難軍節度使・西平王と名乗っています。そして何より、契丹遼朝へ後晋以来割譲された長城以南の諸州がありました。

澶淵之盟

 契丹は938年に幽州(北京)を南京とし、幽都府を置きました。後周の世宗柴栄は燕雲十六州の奪還を目指し、莫州(保定市)・瀛州(滄州市)・寧州を占領しますが、早世したためそれ以上は取り戻せませんでした。特に歴代王朝が支配してきた北京と大同を奪われたことは、宋にとって国防上極めて不利であるばかりか、天下統一が完成していないことが内外に明らかになってしまい、メンツが立ちません。太宗は北漢併合後に余勢を駆って北伐を行ったものの、北京付近の高粱河で敗れて撤退しています。

 遼も内紛続きでこれ以上の南下はできず、969年に穆宗が暗殺されると世宗の子明扆が擁立されて即位し(景宗)、以後は世宗の子孫が帝位を継承します。982年に景宗が34歳の若さで崩御すると、12歳の長男文殊奴(聖宗)が擁立され、皇太后の蕭氏が摂政となりました。983年、遼は国号を大契丹国に戻しています。

 この頃、寧夏では李継遷が宋に反して契丹に帰順し、契丹より定難軍節度使、夏綏銀宥静五州観察使、特進検校太師・都督夏州諸軍事に任命されています。986年に宋は再び北伐を行いましたが、耶律斜軫に撃退されました。997年、宋の太宗は崩御し、子の恒(真宗)が即位します。

 999年、契丹は李継遷と結んで宋の北辺へ侵攻しました。当初は小規模でしたが、1004年には聖宗と皇太后が自ら20万と号する大軍で南下し、宋は大いに動揺します。大臣の王欽若らは「金陵(南京)へ遷都すべきです」と進言しますが、寇準は皇帝自ら迎撃すべしと強硬論を唱え、真宗はこれを採用してせん州(河南省濮陽市)まで出陣しました。

 両軍は黄河を挟んで膠着状態となり、和平交渉が開始されます。契丹はさらなる国土の割譲を求めましたが、宋は定期的に財貨を贈ることでお帰り願うこととし、毎年絹20万疋、銀10万両を出すこととなります。また宋の天子は契丹の皇太后を叔母として敬い、契丹の天子は4歳年上の宋の天子をとして敬うこと、国境は現状を維持することなどが取り決められました。澶州の河辺で盟約が行われたことから、これを「澶淵せんえんの盟」といいます。

 チャイナをほぼ保有する宋にとっては、この程度の出費で国境が安全になるなら大助かりです。宋の天子は「百万までなら出してもいい」と言ったとか、契丹との会議から戻った使者に指三本を出されて「三百万か」と問い、合計三十万と聞いて「それなら安心だ」と言ったとか、見てきたような話が伝わっています。宋人の自尊心をくすぐる与太話でしょう。

 強硬派の寇恂は王欽若の讒言を受けて失脚し、両国間にはようやく平和が訪れました。この平和は百年あまり続き、両国は内政に力を入れ、ともに最盛期を迎えることになるのです。

◆黄金◆

◆時代◆

【続く】

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