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【つの版】ウマと人類史01・騎馬以前

 ドーモ、三宅つのです。ニンジャばかりやるのも栄養価が偏りますので、久しぶりにこのコーナーを動かしてみましょう。今回は、ウマと人類の関わりの歴史についてです。ウマの高まりを感じたためです。

 まず、ウマとは何かを知るところから始めなければなりません。人類(ホモ・サピエンス)は様々な動物を家畜化しましたが、イヌがおそらく数万年前、ヤギ・ヒツジ・ブタが1万年前、ウシが8000年前と推測されるのに対して、ウマが家畜化されたのは比較的新しいと推測されます。それまでのウマは野生の動物でした。人類は野生のウマの食肉や皮革・骨材を利用しても、乳を飲んだり車を牽かせたり、乗り物としたりはしなかったのです。

 しかし、一度ウマが家畜化されると、それは人類に大きな変化を及ぼしました。移動速度は格段にアップし、情報の伝達も早くなり、戦闘においてもウマは圧倒的な戦力となりました。ウシと並んで農耕にもウマが用いられましたし、ヒツジやヤギの牧畜をウマに乗って行うことで多数の家畜を効率的に管理することが可能になり、騎馬遊牧という新しい生活様式が生まれました。遊牧の民は農耕に不向きな荒地をも生活の場に変え、騎射という技術で高い戦闘力を発揮し、スキタイ、匈奴、テュルク、キタイ、モンゴルといった巨大な帝国を生み出したのです。ここではそうした人類史とウマの関わりについて、ひいては人類史を揺るがした騎馬遊牧民の活動についても述べていきます。というかそっちがメインで、これはその序章です。競馬に関してはつのは詳しくありませんので、詳しい方に任せます。

 あくまでドシロウトがざっくり調べただけですので、完全な断定はしません。違っていても一切責任は持てません。あなたがなんかを熱狂的に信仰していても押し付けることはしません。コメントに反論を綴ったりDMを送りつけたりしないで下さい(感想や意見は大丈夫です)。つのはこれをここに置いておくだけです。あなたの頭で考えて下さい。あなたの家族や知人と論争して疎遠になっても、つのは知りません。

 覚悟はいいですか? では、ひとつひとつ噛み砕いて行きましょう。

◆馬◆

◆娘◆

馬類起源

 ウマ、学名Equus ferus caballusは、哺乳類(哺乳綱)のウマ目(奇蹄目)ウマ科に属する動物ノウマ(野馬、Equus ferus)が家畜化されたものです。ウマ目には他にバク科とサイ科が現存しています。ウシ・シカ・イノシシ・ラクダ・カバ・クジラなどはウシ目(鯨偶蹄目)に属し、脚に蹄(ひづめ、爪が角質化したもの)を持つ点は同じですが、ウマ目が第三指を体重を支える重心軸とするのに対し、ウシ目は第三・第四指を重心軸とします。それで「奇数の蹄」「偶数の蹄」とわけているのです。

 ウマ目の先祖は、ウシ目の先祖とは異なります。蹄を持つようになったのは収斂進化で、ウシなどと異なり反芻もせず、胃が4つに分かれていたりもしません(腸は長い)。意外にもコウモリやネコ、センザンコウなどと分類学的に近いといいます。バクやサイとは最も近く、始めは彼らの先祖とともに、熱帯雨林などの環境に適応していたようです。基本的に植物食でした。

 最古のウマ科の生物をヒラコテリウムと呼びます。体高は20-30cm程度しかなく、前肢の指は4本、後肢の指は3本あり、バクと同じ数です。発見者はアフリカの動物ハイラックス(イワダヌキ)に似ていることから「ハイラックスに似た獣(テリウム)」という意味の学名をつけました。彼らは新生代の暁新世(6600万-5600万年前)から始新世(5600万-3990万年前)の前期、北米大陸とヨーロッパの森林地帯に棲息していました。北米とユーラシアはかつてローラシアというひとつの大陸であり、この頃はすでに分裂していましたが距離は近く、同じような生物が暮らしていたのです。

 始新世前期が過ぎるとヒラコテリウムはヨーロッパでは姿を消し、北米大陸にのみ残存しました。次第に環境が乾燥化する中で、彼らの子孫は乾燥に適応した種が生き残り、5000万年前にはオロヒップス、4700万年前にはエピヒップス、4000万年前にはメソヒップス(中間のウマ)となります。顔や胴体や脚は細長く、前肢の指も3本に減り、体高は60cmに達し、草原に生えるイネ科植物を食べられるように歯も変化しました。

 漸新世(3390万-2300万年前)の中期にメソヒップスは絶滅しますが、それ以前に亜種から分岐し共存していたミオヒップスが生き残り、中新世(2300万-500年前)初期には様々な種に分かれていきます。森林に適応したのがカロバティップス/アンキテリウム、草原に残ったのがパラヒップスやメリキップスなどでした。その子孫は大いに繁栄し、300万年前に繋がったパナマ地峡を通って南米大陸へ、250万年前に氷河期が到来して繋がったベーリング地峡を通ってユーラシア大陸やアフリカ大陸へ渡っています。

 ロバやシマウマの共通先祖は、この頃アフリカに到達した者たちから分かれたものと思われます。そして、ウマ(エクウス)も北米大陸から南米やユーラシアへ渡り、草原地帯で繁栄しました。前後肢の指は第三指(中指)のみが残り、現在のウマとなったのです。なお鯨偶蹄目のラクダも同じく北米大陸から南米やユーラシアへ渡っており、ビクーニャやリャマ、アルパカやグアナコは南米に渡ったラクダの子孫です。

 しかし、今から1万3000-1万1000年ほど前に、南北アメリカ大陸のウマは多くの大型生物と同時に絶滅していきました。氷河期が終わって気候変動が起こり、草原地帯の植物が枯れていったことがひとつの要因でしょうが、この頃にアフリカ原産のホモ・サピエンスという恐るべき猛獣が現れたことも無関係とは思えません。彼らはマンモスをも狩る技術を持ったハンターであり、ベーリング地峡を渡って数万年前にアラスカに渡り、そこにコロニーを築きました。そしてカナダを覆う氷河が消えていくと、獲物を求めて南下し始め、手当り次第に大型動物を狩って絶滅に追い込んだのかも知れません。彼らはすでにイヌを家畜化していましたが、のちにリャマやアルパカなどを家畜化したものの、ウマを家畜化はしなかったようです。

 ユーラシア大陸でも、ウマは狩猟の対象でした。フランス南西部、ショーヴェ洞窟(3.2万年前)やラスコー洞窟(2万年前)の壁画にも見事なウマが描かれています。ウマが人類に家畜化されたのは、遥か後のことでした。

牧畜開始

 ホモ・サピエンスは世界中に拡散し、行く先々で野獣を狩猟し、植物を採集し、魚介類を漁って繁栄しました。野生動物は彼らの手が及ばぬ荒野や森林へ逃げ込み、あるいは飼い馴らされて家畜となります。ヤギやヒツジの家畜化は1万年前に遡り、最初に搾乳が行われたのはヤギと思われ、様々な乳製品もヤギの乳から発明されました。肉や骨、毛皮の利用は牧畜以前から行われていますが、酪農は牧畜の重大な要素です。ついでブタ(イノシシ)やウシが各地で家畜化されました。ブタは雑食で低湿地を好み、人類の糞便も食うので乾燥地では嫌われましたが、チャイナでは重宝がられています。

 これらの家畜は、農耕を行わなくても飼育できます。狩猟採集民は徒歩で移動しながら群れについていき、草を食わせて水を飲ませ、夜になると積石で囲んだ家畜小屋に導いて眠らせます。野生のムギはイネ科植物で、草原に生えていますから、これらを栽培したのが穀物農耕の始まりともいいます。やがて穀物が人間の食糧としても栽培されるようになると、半農半牧の生活様式となり、村落(都市)の周辺には牧場ができていきます。村落や都市の住民は、次第に彼ら牧畜民を獣臭い田舎のよそ者、畑を荒らすならず者として見下すようになりますが、定住せず各地を渡り歩くことが可能な牧畜民は商業/交易を行うようになり、定住民と商品を交換して富を蓄えます。やがて武力と経済力によって村落や都市の防衛を担い、支配者にのし上がる者も現れます。アーリヤ人やセム系諸族、ヘブル人とはこのような連中でした。

『創世記』によると、最初の人類アダムとイヴの子はカインとアベルです。兄のカインは父とともに大地を耕す農夫となり、弟のアベルはヒツジを放牧する牧夫となりました。ある日、ふたりはヤハウェに供物を捧げましたが、神はアベルが捧げた子羊の初子を喜び、カインが捧げた畑の収穫物は喜びませんでした。肉が好きというより捧げる者の心根を見たのでしょうが、怒ったカインはアベルを殺し、ノド(さすらい)の地へ放逐されたといいます。彼は放浪の末にエノクという子を儲け、地上に最初の街を建設して、息子の名を冠したとされます(アダム以外にも人類は大勢いたようです)。
 こうした農夫と牧夫の争いはシュメル神話に原型があり、女神イナンナが農夫エンキムドゥと牧夫ドゥムジのどちらを花婿にするかという神話があります。牧夫は太陽神に推薦され、牧畜の良さをアピールしますが、奥ゆかしい農夫は牧夫に花婿の座を譲ったといいます。また牧畜の女神ラハルと農耕の女神アシュナンが論争し、神々が「アシュナンの勝ち」と判定する神話もあります。ヘブル人は牧畜民ですから農夫を下げ、神に逆らって放浪者になったとしたのでしょう。ユダ族の王ダビデも羊飼い出身で、神は民を導く良き羊飼いと呼ばれています。

 しかし、まだウマは家畜化されていません。ウマより先に家畜化されたウマ科の生物はロバです。シュメル人はロバをアンシェ(anshe)と呼び、家畜として飼育していました。のちにウマが現れるとアンシェ・クルラ(山のロバ)と呼んでいますから、ロバを表す言葉がウマより先にあったのです。

 チャイナではウマが先でロバが後から来たので、ウマを示す字「馬」に「盧」という字を添えて「驢(ロバ、驢馬)」という文字を後から作りました。盧とは炉のもとの字で、飯の煮炊きをする土器(皿)を意味し、煤けて黒いさまや丈夫で粗雑なさまを表します。日本語ではウマに似ているが耳がウサギのようだとして「うさぎうま」と呼んでいます。

 ユーラシア内陸の広大な草原を駆け回るウマに比べ、ロバはシュメル人やセム系諸族の住む乾燥地や沙漠地帯に分布し、暑さに強く、比較的扱いやすい動物でした。しかしロバはウマほど背中が丈夫でなく、まだ鞍が発明されていないため、ロバに乗る時は尻の上にまたがることになります。また口に馬銜(はみ)を噛ませるのではなく、先に家畜化されたウシのように鼻輪をつけ、尻を棒で叩いて進ませていました。これでは速度が出ませんが、人類はウシやロバなど動物に乗って移動することをいつしか始めたのです。ヤギやヒツジに乗ることは、子供の遊び程度としてはあったでしょう。

車輪出現

 家畜化されたウシやロバは、開墾や耕作、脱穀などの農作業に使うことができます。また荷物を運んだり、川舟やを牽いたりすることも可能です。紀元前3700年頃、南カフカース地方かイラクで車輪が発明されました。当初は木板を円盤状に加工した(二つの半円形の板を繋いだ)程のもので重く、速度が出るものではありません。それでも紀元前2600年頃のシュメル文明の遺宝「ウルのスタンダード(軍旗)」には、槍を持った戦士を載せた四頭立ての四輪戦車(girgir)を牽くロバの姿が見えます。

 車輪と車(荷車、戦車)は、人類史を揺るがす大発明のひとつでした。これは交易路に乗って世界中へ広まり、陸路での移動と運搬を楽にしました。川沿いや湖のある場所なら舟で移動できますが、それ以外の場所へも交易路は伸び、人や物資や情報が盛んに動くようになっていったのです。ただ牽という文字に「牛」が含まれるように、古くはウシが牽引していました。

馬群畜化

 さて、いよいよウマの家畜化についてです。これについては古来様々な議論がありますが、つのが調べた限りを記します。

 ウクライナ南部のキロヴォフラート州東端、ドニエプル川に面したあたりにデレイフカ遺跡があります。紀元前4000年頃の小規模な居住跡(数家族)で、多数のウマの遺体が発掘されました。頭骨と四肢骨がイヌの骨とともに埋められており、なんらかの埋納儀礼が行われていたかも知れません。また馬銜(ハミ)の跡と思われる摩耗跡があったともされ、デレイフカこそウマの家畜化が始まった場所だとも喧伝されました。

 しかしよく調べると、出土したウマは牡馬が9割で、年齢は歯からして5歳以上8歳未満が半数を占めます。ウマを群れで飼うには、牡馬を中心とするハーレムを作る必要があるため、牝馬の方が多くなければ家畜化の証拠となり得ません。騎乗用や車の牽引用だとすれば、最も体力のある5-8歳で死ぬのは早すぎます(15歳頃まで使役可能)。食肉用に飼育していたというのであれば、2-3歳の若馬なら大きさも十分ですし、肉質も最も柔らかいはずです。5-8歳では成長しすぎ、やや肉が硬いのです。おそらく季節的にやってくる野生ウマの群れを数家族の狩人が待ち伏せて襲い、牝馬を逃がして立ち向かったハーレムの中心牡馬ばかりが殺され、食用となったのでしょう。

 このような状況では、馬銜をつけて家畜化していたとは思えません。一緒に出土した鹿の角を加工したものが「馬銜留め具だ」ともいいますが、ウマの革帯を通すには穴が小さすぎる上に一つしかなく、馬銜そのものは見つかっていません。そもそもデレイフカ遺跡自体が紀元前8世紀頃のものとさえ言われており、どうも怪しいものです。カザフスタン北部のボタイ遺跡では紀元前3500年頃の多数のウマ遺体が出土し、土器から馬乳に由来する脂肪酸が発見されたともいいますが、よくわかっていません。

 デレイフカを含む地域には、紀元前4500-前3500年頃に「スレドニ・ストグ文化」と総称される文化圏がありました。どれも集落は小規模で、狩猟や漁労、ムギやキビなどの栽培を行い、季節的にやってくるウマを狩っていたようです。人類とウマが接触しやすい地域ですから、家畜化がこのあたりで始まった可能性は高いでしょう。しかし年代や場所は特定できません。ウマのDNAを調べて遡ると、やはり黒海北部沿岸に多様性があり、牝馬は地域ごとに多様ですが、牡馬は割と均一性があるようです。

印欧祖族

 また、この時代のこの地域は、インド・ヨーロッパ(印欧)語族に属する諸言語の祖語(印欧祖語)が話されていたとも推定されています。この地域に住んでいた人々がユーラシア各地に移住し、言語や文化を伝えたというのです。彼らの拡散には、ウマや車輪が関わっていたようです。

 ウマを家畜化したと見られているのは、ウクライナを中心とするヤムナ文化(紀元前3600-前2300年頃)の人々です。彼らは牧畜・農耕・狩猟採集や漁労を行い、西はドナウ川下流部、東はウラル山脈やカザフスタンにまで分布していました。おそらく多種多様な起源を持つ人々によって構成されていたでしょうが、印欧祖語話者もその中に含まれていたようです。ウマは初めは乗用や牽引のためでなく食用に飼育されていたと思われ、移動用の荷車はウシが牽いていました。まだ遊牧民でもなく、土塁や溝を持つ定住集落に住んでおり、数日程度の放牧を行っていたと考えられています。

 紀元前2500年頃、北半球の気候は徐々に乾燥し始め、黒海北岸では広葉樹林が消滅して草原が広がり、カザフスタンでは草原と半沙漠が形成されました。これにともない、ヤムナ文化の民のうち乾燥地帯に住むようになった者たちは牧畜に生活の比重を移し、また遠隔地との交易に力を入れるようになったようです。バルカン半島からウクライナ、北カフカース、カスピ海沿岸やカザフスタン、北西イランにかけては「周黒海冶金圏」と呼ばれる文化圏が生まれ、エジプトやメソポタミア(シュメル・アッカド)、インダス文明などを結ぶ広大な交易網が作られました。この頃は青銅器時代ですが、青銅は銅と錫の合金ですから、各地の鉱山を交易路で結ぶ必要があったのです。

 印欧祖語話者の集団(印欧祖族)は交易路に乗って世界中へ拡散し、交易用の共通語を伝え、現地で妻を娶り、子孫を増やしていきます。父系で伝わるY染色体ハプログループの分布を見ると、R1系統が印欧諸語話者(バスク人にも)に多いため、この時期に拡散したのは彼らと思われます(イラン高原には先住民の勢力が強く、言語的には印欧化しましたが遺伝子上はカフカース系です)。別に大帝国が世界征服を行ったわけではありません。

 前2300年頃、カスピ海やアラル海の北方にはアンドロノヴォ文化圏が出現します。主な担い手はウクライナから東へ移動した印欧諸語話者のうち、インド・イラン語派の共通祖語にあたる言語を話していた人々、いわゆる「アーリヤ人」の先祖です。彼らは川沿いに交易路をつなぎ、アラル海を経てアム川流域に至り、バクトリア・マルギアナ複合(オクサス文明)と呼ばれる先住民の文明圏と接触しています。また東方では天山山脈やアルタイ山脈に達し、アファナシェヴォ文化圏と接触しましたが、これは古くに東方へ移住していた印欧語話者集団で、トカラ語という古い印欧系の言語を話していました。のちの月氏や大夏、亀茲などの先祖です。

 前20世紀初め頃、黒海の北方から別の印欧系諸族がアナトリア半島へやってきました。ルウィ語やヒッタイト語などアナトリア語派と総称される言語を話す人々です。カフカースを越えて東から来たとも、バルカン半島を経由して北西からやって来たともいいますが、いろいろなルートがあったのでしょう。彼らは先住民と衝突して大規模な民族移動を引き起こし、その文化を吸収して、紀元前17世紀頃にヒッタイト帝国を建設しました。彼らは紀元前16世紀初めにバビロニア王国を滅ぼし、エジプトと対等の外交関係を結び、浮沈ありつつも紀元前12世紀初めに崩壊するまで繁栄しました。

 また紀元前16世紀には、シリアからイラク北部にミタンニ王国が建設されました。支配層はカフカース系のフルリ人でしたが、文書の中にはインド・アーリヤ系の言語や神名がしばしば見られ、イラン高原を経て到来した少数のインド系アーリヤ人がいたようです。彼らはウマを操る技術に長け、紀元前15世紀にはミタンニ出身の「ウマの調教師」キックリがヒッタイト帝国へウマの体調管理について教授しています。これは極めて科学的で実践的なテキストであり、フルリ語やインド系アーリヤ語が混じっています。

二輪戦車

 この時代、ウマに直接またがることは、あまり行われていませんでした。ヒッタイト出現以前、前2000-前1750年頃のメソポタミアには、すでにウマは伝わっていたものの、ロバと同じように扱われ、尻側に乗っていました。ウマは二輪戦車(チャリオット)を牽くために飼育されだしたのです。

 紀元前2000年頃、ウクライナとカザフスタンにまたがるアンドロノヴォ文化圏で、馬銜と馬銜留め具、およびスポーク(輻)つきの軽快な車輪が発明されました。木の板を継ぎ合わせるより軽く、ウシやロバだけでなくウマも車を牽けるようになったのです。牛歩というほど遅いウシとは違い、ウマの速度は当時でも相当なもので、荷車だけでなく戦車を牽いて戦いに用いることが可能になりました。武器と手綱を同時に操るのは無理なので、御者と戦士が二人一組で軽快な二輪戦車に乗り、2頭立てや4頭立てで運用します。

 チャリオットは、現代の戦闘機にも匹敵する恐るべき兵器でした。人間が走るより遥かに速く移動し、高い位置から次々と矢を放ち、狩りの的のように敵を仕留めることができます。接近戦では長柄の斧や鎚、矛や戈(鎌状の武器)を振るい、歩兵に囲まれてもウマが蹴り倒し、車輪で轢殺しながら離脱することができます。湿地や山岳地帯では運用できませんが、平地であれば圧倒的な戦闘力を誇るのです。これはまたたく間に世界中へ広まります。

 ヒッタイトやミタンニは、チャリオットを戦闘の主力としていました。衰えたりとはいえ強大なバビロニアを滅ぼしたのは、これによるのでしょう。エジプトにはフルリ系やセム系の混成とみられるヒクソスという傭兵集団がこの頃に現れ、ついには軍事力で政権を握り、エジプトに王朝を打ち立てます。彼らもチャリオットを用いており、ヒクソスを追放したエジプトの土着勢力もチャリオットを採用しました。

 ギリシアには非印欧系の文明が古くから栄えていましたが、バルカン半島から南下した印欧系のミケーネ人(アカイア人、古ギリシア語話者)が襲来して征服しています。紀元前13世紀頃、ケルト人が東方から欧州へ侵攻してハルシュタット文化を築きましたが、彼らもチャリオットを用いました。イラン高原やインドに到来したアーリヤ人は、チャリオットを用いて土着勢力を駆逐しています(ヴェーダにも描かれています)。チャイナにも殷末にチャリオットが到来し、殷墟の王墓にウマやチャリオットが副葬されていますし、「馬」や「車」という象形文字が現れるのも殷代です。陝西に興った周は多数のチャリオットを用いて殷を倒しています。

 こうして、ウマが牽くチャリオットは世界各地の文明圏で採用され、ウマは王権や貴族の権力を支える軍事力としてもてはやされました。印欧系の神話では、ウマは天空神に捧げられましたし、太陽神や雷神はウマが牽くチャリオットに乗って天空を駆け抜けると歌われました。旧約聖書『列王紀』にも、ソロモン王が戦車用のウマ1万2000頭を持ち4000もの厩を所有していたと記されており(誇張でしょうが)、エジプトとクエ(キリキア)からウマを輸入し、戦車1両が銀600シェケル、ウマは150シェケルであったとあります。戦争の場面にも盛んにウマと戦車が現れ、エゼキエル書では主なる神が超自然的な戦車(メルカバ)に乗って顕現しています。

 かように普及したチャリオットでしたが、平地でしか運用できないという弱点がありました。そしてウマに直接またがって戦う「騎兵」が出現するとチャリオットは戦場から次第に消えていき、象徴的な存在となっていくのです。次回は騎兵、騎馬遊牧民の出現について見ていきましょう。

◆馬◆

◆娘◆

【続く】

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