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【つの版】邪馬台国への旅22・卑彌呼の死

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

倭國と狗奴國との紛争に対して、帯方郡は難升米に詔書と黄幢と檄文を授けて告諭させます。その直後、衝撃的なニュースが飛び込んできました。

卑彌呼以死。

親魏倭王、倭の女王、邪馬臺國の女王である卑彌呼が死んだというのです。

◆Rock is◆

◆Deader than Dead◆

以死

この「」に関して議論があります。以は「㠯、厶(い)」とも書き、農具の耜(すき)を表す文字で、「持つ、用いる」が原義です。それで和訓は「もって」と言いますが、転じて「○○を用いて、○○によって」という手段や方法を示す語となります。原因や理由、事の行われる時、区切りや限界を示す語ともなり、強調する場合にも用います。死を強調しても仕方ありませんから手段、方法、原因や理由とすると、前の文章と続けて読むならば、

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齎詔書、黄幢、拜假難升米、爲檄告諭之。卑彌呼以死。

倭の女王卑彌呼と、狗奴國の男王卑彌弓呼(卑弓彌呼?)はもともと不和であった。倭は載斯烏越らを(帯方)郡に派遣して詣でさせ、(倭國と狗奴國が)相互に攻撃する状況を説明した。(帯方郡は)塞曹掾史の張政らを(洛陽へ)派遣して、因って詔書と黄幢を(帯方郡に)もたらし、難升米に授け、檄文を作って告諭させた。それによって卑彌呼は死んだ。

となります。張政が難升米に授けた詔書と黄幢と檄文によって卑彌呼が死んだのならば、「卑彌呼には紛争を鎮める力もないのか」と失望した民衆や有力者、難升米、あるいは魏の張政、または狗奴國が「卑彌呼を殺した(死に追い込んだ)」と読むこともできるでしょう。

魏志東夷伝夫余条には「舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺(古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、あるいは王を替えるべきだと言い、あるいは王を殺すべきだとした)」と書かれています。倭國にもそのような風習があり(持衰のように)、卑彌呼もそのようにされたのでしょうか。そう言えばこの時期に北部九州で皆既日蝕が起きたとかどうとか……。

なんともセンセーショナルな説ですが、おそらく違います。ファクト・チェックしてみましょう。

以と已

「以」は、古くは「」と書かれます。読みは同じく「い」ですが、以と同じ意味で用いる場合と、別の意味で用いる場合があります。已は「やめる」あるいは「すでに(已然)」という意味があります。仕事をすでに終え、㠯(農具)を置いて作業をやめることから来ている…というか、以と音が同じことから仮借しただけともいいます。己(き、おのれ)や巳(み、へび)とはよく似ていますが、字源も意味も全く違います。

なので、「卑彌呼以死」は「卑彌呼はすでに死んでいた」となります。張政が洛陽から詔書と黄幢を借りて帯方郡に持ってきて、檄文と共に難升米に授けて倭國に送った時には、東方の邪馬臺國ではすでに卑彌呼が死んでいたのです。張政や狗奴國や難升米が暗殺者を差し向けたわけでも、狗奴國が邪馬臺國を征服したわけでも、民衆が独裁者を殺したわけでもありません。

西暦184年に黄巾の乱が勃発してから、247年冬か248年までに、すでに60年以上の歳月が経過しています。公孫康が帯方郡を設置してからでも40年近く経過し、卑彌呼が若くして倭王になってもすでに老人です。黄巾の乱の時に臺與と同じく13歳であれば80歳の老婆ですし、帯方郡設置の時に13歳でも50歳は過ぎています。間を取って帯方郡設置の時に20代とすれば、60歳ぐらいで病死したのでしょう。倭人には長寿の人が多いと言っても寿命は来ます。まして宮殿に引きこもって結婚もせず祭儀に明け暮れ、倭地の人々に女王として奉られているのですから、プレッシャーやストレスはあったでしょう。辰砂を摂取し過ぎて水銀中毒になってしまったのかも知れません。

だいたい張政は帯方郡の下っ端役人に過ぎず、金印紫綬の親魏倭王を暗殺して得られるメリットはありません。怒った倭人にぶっ殺されるか、露見しなくても担当地域で紛争が起きて忙しくなるだけです。マンガ『雷火』のように倭國の乗っ取りを企てたところで、それこそ暗殺者を送り込まれかねません。伊都國や奴國や難升米が卑彌呼を暗殺するメリットもありません。

舊夫餘俗

夫余の王殺しの風習は、東夷伝夫余条の前後の文脈をよく読んで下さい。

尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻餘。位居死、諸加共立麻餘。牛加兄子名位居、爲大使、輕財善施、國人附之、歲歲遣使詣京都貢獻。正始中、幽州刺史毌丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘。位居遣大加郊迎、供軍糧。季父牛加有二心、位居殺季父父子、籍沒財物、遣使簿斂送官。舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺。麻餘死、其子依慮年六歲、立以爲王。漢時、夫餘王葬用玉匣、常豫以付玄菟郡、王死則迎取以葬。

(夫余王の)尉仇台が死に、簡位居が即位した。彼には嫡子がなく、孽子(妾腹の子)の麻余がいた。(簡)位居が死ぬと、諸加(は夫余の官名、豪族たち)は麻余を共立した。牛加(夫余には馬加・牛加・豬加・狗加らの加がいる)の兄の子で名を位居という者を大使(大臣)とした。彼は自らの財産を軽んじてよく施し、国人はこれに付き従い、毎年京都(洛陽)に使者を派遣して朝貢していた。正始年間、幽州刺史の毌丘倹が高句麗を討伐すると、玄菟太守の王頎を夫余に派遣した。(大使の)位居は大加を派遣して(夫余の首都の)郊外で迎えさせ、兵糧を供出した。(位居の)季父(末のおじ)である牛加に二心があり、位居は季父の父子を殺し、その財物を没収し、使者を派遣して帳簿に納め、官(魏の官軍)に送った。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、あるいは王を替えるべきだと言い、あるいは王を殺すべきだとした。麻余は死に、その子の依慮は6歳で、立って王となった。漢の時、夫余王の葬儀用の玉匣(遺骸を包む玉衣)は、常に玄菟郡にあずけてあり、王が死ぬと迎え取って葬儀に用いた。

こういう文脈です。共立した王が殺されるという流れは似ていますが、よく読めば夫余の実権を握る大使の位居が邪魔になった夫余王の麻余を始末し、幼い王を傀儡に頂いて実権を握り続けたというだけです。はっきり「位居が王の麻余を殺した」と書くと、魏に(それも司馬懿の派閥に)協力した位居の名誉に傷がつくので、「ところで、こういう古い風習があることだなあ」とぼやかしたまでです。フィクションだとこういう悪党は主人公とかにスレイされますが、その後に位居がどうなったかは不明です。依慮は『晋書』によれば285年に鮮卑族の慕容廆に攻撃されて自殺しています。40年ぐらいは在位したのですね。

皆既日蝕

前にやりました。よくあるデマです。

倭の女王卑彌呼と、狗奴國の男王卑彌弓呼(卑弓彌呼?)はもともと不和であった。倭は載斯烏越らを(帯方)郡に派遣して詣でさせ、(倭國と狗奴國が)相互に攻撃する状況を説明した。(帯方郡は)塞曹掾史の張政らを(洛陽へ)派遣して、因って詔書と黄幢を(帯方郡に)もたらし、難升米に授け、檄文を作って告諭させた。(だが)すでに卑彌呼は死んでいた。

つまりは、こう読むわけです。おわかりでしょうか。タイムマシンで実際に見でもしない限り真相は不明でしょうが、つのはパルプ小説じみたセンセーショナルな陰謀論には飽き飽きしています。特に古代史にはこういう手合いがよくおり、カルトへの入口になりやすいようです。ニンジャはいます。

ついでに言えば、『晋書』東夷伝倭人条に「乃立女子爲王、名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏、其女王遣使至帶方朝見」とあるのを「卑彌呼は宣帝の平した公孫氏なり」と読んで「卑彌呼は公孫氏の一族、つまり中国人だ!」とかいう山形明郷氏の珍説をたまに見ますが、これは「宣帝の公孫氏を平する(司馬懿が公孫氏を平定する)、その女王が派遣した使者が帯方郡に至り朝見した」、と読むのです。魏志倭人伝にも魏略にも、卑彌呼を公孫氏だとする説などひとつもありません。気をつけないと「邪馬台国は朝鮮半島にあった」「いや満洲にあった」「朝鮮/韓半島は漢に支配されたことなど一度もない、漢四郡は遼東半島にあり、平壌にあったというのは嘘だ」といった超トンデモ史観に繋がります。真に受けないよう気をつけましょう。

◆オセアニアじゃあ◆

◆常識なんだよ◆

今回はやや短いですが以上です。次は卑彌呼の墳墓についてです。

【続く】

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