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【つの版】邪馬台国への旅15・卑彌呼02

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前回は卑彌呼がどのような女王か、鬼道とは何か、『日本書紀』で卑彌呼にあたるであろう女性は誰か、をざっくり推測しました。卑彌呼という名前についても考察しました。続いて彼女の住居について見て行きましょう。ただし何度も繰り返すように、帯方郡の使者は伊都國におり、卑彌呼に直接会ってはいません。伊都國での伝聞や倭國の使者の言葉を記録したものです。

◆封◆

◆神◆

宮室樓觀

自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室・樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。
(卑彌呼は)王となって以来、出会う者が少ない。千人の婢(女奴隷)が彼女に仕えている。ただ男子が一人あって(男弟とは別か)飲食を給仕し、出入りして卑彌呼の言葉を伝達している。卑彌呼の居る宮室や楼観(観は館)は城柵が厳しく設けられ、常に人が兵(武器)を持って守衛している。

卑彌呼は神功皇后のように積極的に遠征に出たりせず、宮殿の奥に引きこもって生活していたようです。それは邪馬臺國のどこにあったのでしょうか。

纒向遺跡

3世紀、卑彌呼が宮殿を置いていたと思われるのが、奈良県桜井市の纒向遺跡です。どんな遺跡かは、PROである「桜井市纏向学研究センター」のwebサイトを見れば理解ります。(つのは奈良県とかの回し者ではありません)

多くの調査報告や学術論文、学術書、一般向けの書籍があります。凡百のアマチュアや作家、ライター、郷土史家、政治家、非考古学者、非歴史学者(しばしば肩書だけは立派です)のベストセラー書籍や胡乱なネット記事を読むよりも、YouTuberやV存在の配信や匿名掲示板、SNSでの意見を信じるよりも、ちゃんとしたPROの文献を調べて読んで下さい。旧石器捏造事件で考古学への不信感が高まり、マスメディアも煽り立てましたが、考古学を無視や軽視してはいけません。魏志倭人伝やチャイナの文献、日本書紀や古事記だけに頼ると危険です。アニメやマンガや小説はフィクションです。考古学者は邪馬臺國や卑彌呼と安易に結びつけるのは避けますが、つのは公人でもない素人なので無責任です。あなたは自ら調べて考えて下さい。

今まさに調査中なので全貌はわかりませんが、調査面積は南北1.5km、東西2kmに及び(300ha=3km2)、シティ・オブ・ロンドン(2.9km2)やNYのセントラル・パーク(3.41km2)にも匹敵します。皇居と皇居外苑を合わせた面積(2.3km2)よりもなお広い、といえば伝わるでしょうか。大阪の方なら大阪城公園(約1km2)の約3倍です。吉野ヶ里遺跡や唐古・鍵遺跡は40haほど、池上曽根遺跡は環濠が25ha+墓域40ha、妻木晩田遺跡は156ha、奴國の中枢と思しき比恵・山王・那珂遺跡群は164ha。北京の紫禁城(故宮)は72haほどです。

日本初の都市の出現 纒向遺跡を歩く(スライド)
https://infokkkna.com/ironroad/2012htm/2012iron/12iron07slide.pdf

2世紀以前に集落が存在した形跡はなく、3世紀初頭に突然現れ、周囲に広がり、4世紀前半まで存続しました。周囲には城柵が張り巡らされ、多数の地域外土器や祭祀用具が出土し、大和川まで通じる運河があり、当時の日本列島における最大規模の広大な遺跡であるにも関わらず、人間が「居住」した形跡はほとんどありません。いくらかの竪穴式住居はありますが、多くは宮殿めいた居館と高床式倉庫で、王宮と祭儀場(神殿)と市場が合わさった場所のようです。域内には最初期の前方後円墳が6基存在します。前方後円墳については、卑彌呼の死のところでやることにしましょう。

今日び地図ぐらいはGoogle Mapsでいくらでも見られます。拡大や縮小してぐりぐり見て下さい。つのは三度の飯より地図が好きで、地図を見るだけで何日も過ごせますし、地図を使った拷問が百個は思いつくといいます。

卑彌呼の居館跡と見られているのが、桜井市大字辻の掘立柱建物群跡です。3世紀初めに建造され、3世紀半ばまで存続しており、推定で南北19.2m、東西12.4m、床面積は238.08m2(72坪)。この建物の西側には中心軸を同じくするやや小型の建物が三棟並んでおり、一番西側以外の建物は柵で囲まれていました。婢が千人とは誇張でしょうが(千[ち]は『古事記』などでも「無数の」程度の形容詞ですし、海上の千里はこれまで見たように適当な数でした)、「居處宮室・樓觀、城柵嚴設」とぐらいは言えるでしょう。

繰り返しますが帯方郡の使者は伊都國に留められており、邪馬臺國へ赴いて卑彌呼に直接出会ったことはありません。「自爲王以來、少有見者」というぐらいですから、倭人すら姿を見ることはなく、飲食を給仕し言葉を取り次ぐ役目の男子が一人いただけです。神秘のヴェールに隠されていればいるほど、宗教家・統治者としてのカリスマ性が増すというよくある仕組みです。伊都國王や諸国の豪族にしろ、その方が都合がよいでしょう。

大市

纒向遺跡のある地域は、令制の国郡でいうと大和国城上郡(しきのかみのこほり)/式上郡(しきじょうぐん)にあたります。もともとは城下郡/式下郡と合わせた磯城/志貴(しき)と呼ばれる地域で、志貴県が置かれました。

式上郡には辟田・下野・神戸・大市・大神・上市・長谷・忍坂の8郷、式下郡には賀美・大和・三宅・鏡作・黒田・室原の6郷があります。場所の比定には諸説ありますが、おおむね三輪山の麓一帯で、大和(やまと)の枕詞にいう「敷島(しきしま)」とは磯城のことです。このうち大市(おおいち)は、倭迹迹日百襲姫命が葬られた箸墓のある地と伝えられますが、箸墓古墳は纒向遺跡の南部にあり、このあたりが大市と呼ばれたようです。纒向遺跡の主要な機能のひとつが市(いち)、交易の場でした。

纒向遺跡は「日本列島最初の『都市』」だとも言われます。そもそも都市とは「城壁()に囲まれた場」のことで、國(国)や邑も同じ意味の字です。チャイナの例を見れば『周礼』考工記にこうあります。

匠人營國、方九里、旁三門。國中九經九緯、經途九軌。左祖右社、面朝背市、市朝一夫。
建築士が都市を設営する時、四角い城壁の一辺を9里(周制では1尺18cm、1歩6尺、1里300歩。9里は約3km)とし、各辺に3つずつ門を開ける。内部には(各門から道路を伸ばし)縦横に9本の道があり、道幅は車軌(わだち、8尺=1.44m)の9倍(13m)とする。左右(王が南面して左右、東西)に祖と社(祖神と土地神)を祀り、(王宮の)正面(南)に朝(朝廷)があり、背後(北)に市場がある。市と朝の面積は一夫(方100歩=108m)である。

『周礼』は前漢末か新の王莽の時に作られた偽経で、実際の周代の都市を理想化したものですが、都市の成り立ちについての類推の材料にはなります。市場は周辺諸部族が会合して話し合い、利害を調整して交易する場でした。遠隔地から言語や文化の違う人々が集まるわけですから、揉め事が起きるのは必然で、それを抑えるために祭祀儀礼が利用されます。

まず月の何日に市を開くと取り決め(だいたい朔と望、すなわち新月と満月です)、その日の早朝(朝にも月の字が入っています)に各地から人々が市場の門前に集まります。そこへ神主(君、后、王など呼び名は様々です)が出てきて挨拶し、諸部族の共通の祖霊とされる「=男根を象った柱状の偶像)」と、土地の神である「を盛り上げた祭壇)」を祀ります。人々は祖と社に肉や酒を捧げ(禮)、共に供物のお下がりを飲食し、全員その氏子となって、市場の開催中は争わないと神前で盟約します。これが「朝禮(朝礼)」で、朝礼を行う庭(廷、壁で囲った広場)が朝廷です。

これが終わると、人々は王宮(官)を通って市場に入り、取引を開始します。市場を管理するのが官吏で、手数料として商品の10分の1を脱(抜)き取り、市場の前の祖に捧げて「よし(宜)」としました。これが租税です(禾は穀物)。官吏は謝礼として賄賂を受け取ります(後には不正とされますが)。人々が遠方から来て朝礼に出席し、王に表敬して取引を行うのが朝貢です。は子安貝で、殷代には貨幣として用いられ、買・賣(売)・賞・貨・貢・賄・賂・財・貿・貯など取引に関わる字には多く貝がつきます。

「市」の字源は不明ですが、人々が歩(止)いて来て取引をする、木の杭の標識(刺・棘)を立てた一定の場所のこととも言います。また師と通じ、肉を刀(市)で切り裂いて分配するところを指すのかも知れません。市は家畜の屠殺場であり、古今東西で人間の処刑場でもありました。人々はその様を見て娯楽とし、また犯罪の戒めとしたのです。斬首した死体を市場に捨て置いて晒し者にするのを「棄市」といいます(腰斬や火刑よりマシです)。

やがて朝廷が周辺部族の会合の場となり、部族間の交易圏が支配・防衛の領域になってくると、王は朝廷での朝礼において防衛や軍事遠征(政、歩行して打つ)についても相談することになります。これが朝政です。市場が繁盛すればするほど、王のもとには財が集まります。國邑が発達しても基本は変わらず、祖を祀る建物が祖廟となり、社には穀物の神・稷(しょく)が加わって社稷となります。また父系同族集団を宗族といい、その共通祖先(宗)を祀るのが宗廟で、その直系の子孫が祭祀を行う宗主とされました。

こう見てくると、古代の市場に祭祀儀礼(まつりごと)がつきものであり、國を形成するのは交易、商業であることが理解ります。世界各地の大型神殿や都市国家も、このような周辺部族の共通の祭儀から形成されました。ギリシアのポリスにおけるアゴラ、ローマのフォルムも同じです。フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)は周辺部族が会合して交易する場として形成され、民会や元老院が開かれ、神殿や市場が立ち並ぶようになりました。

日本でも商売の神として稲荷や恵比寿、大黒などを商業施設や商店街に祀りますし、神社や寺院の前に門前町が形成されるのは一般的です。『古事記』を紐解けば素戔嗚命の妃神の一柱に大山津見神の娘・神大市比売がいます。彼女の子らは大年神(毎年の収穫の神、来訪神、祖霊)と宇迦之御魂神(食物の霊)であり、後者は稲荷神と同一視されています。

従って、「大市」であった纒向遺跡が、三輪山の神(ないしその娘)を「市神」として祀るものであった可能性はあります。またチャイナの(周礼の)都市は上記のように南北を基準軸としますが、纏向の基準軸は東西です。三輪山は東南にありますから、巻向山とか初瀬山を望む方角で、山の彼方から朝日が昇るという視覚的効果が望めます。早朝に朝礼を行って市場を開くのによいでしょう。日が沈む時は西へ鏡を掲げれば光が照りかえります。

纒向遺跡には大和川に通じる運河が掘られており、水運を利用していたようです。大和川を遡れば、三輪山の南麓を通って長谷(初瀬)の谷間を東へ進み、辰砂(丹)の産地である宇陀に出ます。そこから宇陀川沿いに東北に進めば、室生を経て名張に出、伊賀や伊勢への道が通じています。大和川を下って西へ進めば河内へ出て吉備へ進めますし、南へは葛城を経て紀の川から淡路や阿波へ、北へは山城を経て丹波や出雲、近江や越へと道が通じます。今は片田舎ですが、古代ヤマト王権発祥の地は伊達ではありません。

箸墓古墳に用いられていた石材は、大阪府柏原市の芝山から運ばれたことが判明していますが、ここはまさに大和川が奈良盆地から河内平野に抜け出る場所のほとりにあり、大和川の水運を利用して石材を運んだことは明らかです。『日本書紀』に「大坂山から人々が並び、手で石をリレーして作った」とあるのは後世の伝説です。箸墓については後でやります。

遼東公孫氏との関係

さて、卑彌呼が共立されたのは3世紀初頭、ちょうど公孫康が帯方郡を設置した頃です。卑彌呼の権威を承認するための外国の勢力として、公孫康のもとへ使者が送られたとしても不思議はないでしょう。倭奴國王も後漢の金印の権威がなければ、他の倭人の王とはドングリ・コンペティションです。まして新たに広大な地域の盟主として共立されたのですから、鉄や威信財の出どころである「海外の先進国」からの国際的な承認は必要不可欠です。

それにチャイナの皇帝や地方政権の君主も、遠く海外から「徳を慕って」蛮夷が朝貢に来るとなれば、国内外に自らの権威をアピールするまたとない好機ですから当然に歓迎します。互いの利益が噛み合って、卑彌呼は公孫氏からの承認を取り付け、海外との交易や国内の交易は倭王卑彌呼の名のもとに行われるようになりました。争いを起こせば共同体の和を乱すものとして、囲んで棒で叩かれるわけです。こうして新生倭國は成立しました。

当時の後漢は、皇帝を戴く曹操の政権とほとんど不可分なまでに一体化していました。公孫康も名目上は漢の臣下で曹操の下位にありますから、倭国のことを曹操に報告してもよさそうですが、していません。曹操は西暦208年の赤壁の戦いで敗れ、長江以南を制圧しての天下統一は難しくなります。当人も馬超や韓遂、張魯や劉備ら西方勢力との戦いで忙しく、遼東の彼方のことまでかかずらわっていられなかったのでしょう。

「韓国が統一されてもいない時代の倭地に広域政権が存在するなんておかしい、不自然だ」という意見をたまに見ますが、そうは言っても成立したのですから仕方ありません。大陸や半島から離れた島々という環境、各地を結ぶ交易網、そこそこの規模の地域連合が各地に存在した状況など、諸々の条件が整ってたまたまできたのです。大人や商人らが取り決めたものに過ぎず、卑彌呼の死後に空中分解しかかる程度のものでしかありませんが、できてしまえば20万戸の大国として三韓や公孫氏にもでかいツラができ、交渉も有利に進んだでしょう。また手分けして商品を集め、中小共同体の枠を超えて倭人諸国や海外と交易し、巨大な古墳を力を合わせて作る(強い権威が作らせるのではなく、作らせることで権威を作る)ことは、列島の住民集団の連帯感(絆)を強め、自我が肥大し誇らしい気分にさせたでしょう。共同幻想とはそういうものです。地元ナショナリズムの規模が広がっただけです。

◆Back in the◆

◆U.S.S.R.◆

次回はしばし倭国を離れ、遼東公孫氏の興亡を見ていきます。卑彌呼の倭國が魏と通好し、魏志倭人伝が成立したのも、この政権があればこそでした。

【続く】

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