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【つの版】ウマと人類史:近世編02・欧州遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦1520年、オスマン皇帝スレイマン1世が即位しました。彼は46年もの治世の間に帝国をさらに拡大し、欧州諸国と渡り合うことになります。

◆Solomon◆

◆Megiddo◆

要衝陥落

 父セリム1世はサファヴィー朝に大打撃を与え、マムルーク朝を滅ぼして帝国を大きく広げましたが、1520年9月に在位8年で崩御しました。スレイマンはアナトリア西部のマニサの総督を勤めていましたが、セリムには他に男子がおらず、スムーズに帝位を継承しました。1494年生まれの26歳です。

 後継者争いこそありませんでしたが、皇帝の代替わりにつけこんで征服されたばかりのシリアで総督が反乱します。翌年にはサファヴィー朝に呼応したトゥルクマーンらの反乱も勃発しますが、スレイマンは速やかにこれらを鎮圧したのち、父が手をつけなかった欧州方面への遠征を開始します。

 1521年5月中旬、スレイマンはハンガリー王国の国境を守る要衝ベオグラードを攻撃します。ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世は15歳の若造で国内の貴族らが従わず、混乱していたのです。ムラト2世が1440年に、メフメト2世が1456年に包囲して落とせなかった堅固な城塞都市に対し、スレイマンは西からドナウ川に流れ込むサヴァ川沿いに進軍しました。ベオグラードは抵抗したものの8月末に降伏し、陥落します。

 翌1522年には、父が計画していたロドス島への遠征を行います。この島はアナトリア半島の南西沖にあり、エーゲ海交易の要衝ですが、十字軍の後継者・聖ヨハネ騎士団がこれを支配し、ムスリムに対して海賊行為を働いていました。1480年にメフメト2世が攻撃をかけますが失敗しており、オスマン帝国にとって目と鼻の先にありながら極めて目障りな存在でした。

 1522年6月末、400隻のオスマン海軍がロドス島に到着し、7月末にはスレイマン自ら率いる10万の大軍が上陸します。ロドスの街は堅牢な三重の城壁と大砲によって守られていましたが、オスマン海軍に港を封鎖され、市街地や城壁へ激しい砲火が浴びせられます。また城壁の下へトンネルが掘り進められ、9月に爆破して崩落させたものの、騎士団の激しい反撃にあって押し返され、崩落部は修復されてしまいました。

 オスマン軍は総攻撃を駆けますが攻めあぐね、疫病が流行して膨大な死者を出し、11月末には両軍ともに疲弊の極みに達します。交渉と攻撃の結果、12月22日にロドス島は降伏し、代わりに住民の生命・安全・食が保障されます。騎士団は12日以内の退去を要求されますが、武器や宗教的な物品の持ち出しは認められ、住民も退去を望む者は許可され、3年の猶予期間を与えられました。また残留する者は5年間免税とされ、教会を破壊・掠奪することも禁じられました。これはオスマン帝国の出した降伏条件としては破格の寛大さで、ロドス島の重要さと抵抗の激しさを物語ります。

 騎士団や住民はヴェネツィアの支援でクレタ島へ退去し、シチリアなどを経て、1530年にマルタ島を新たな拠点としました。これが現代まで続くマルタ騎士団です。彼らはオスマン帝国の侵略を防ぎ、キリスト教世界の防壁となって地中海で戦い続けました。

 1523年6月、スレイマンは寵臣イブラヒム・パシャを新たな大宰相に任命します。彼はスレイマンと同年代で、子供時代にギリシア北西部のエピルス地方から海賊に誘拐され、奴隷としてスレイマンに仕えました。有能なうえ皇帝の寵愛もあって異例の速さで出世し、ついに大宰相になったのです。当然嫉妬と敵意を集め、まもなくエジプトで総督が反乱を起こしますが、イブラヒムはこれを鎮圧して1525年にはエジプト総督となり、支配を安定させるため法制度や軍制を改革しています。

欧州遠征

 スレイマンはイブラヒムに南方と東方を任せ、自らは再び欧州へ進軍します。ベオグラードを落とした以上、次はハンガリー本土への侵攻です。1526年4月、6万の大軍と大砲300門を率いて帝都を出発したオスマン軍は、物資輸送路たるドナウ川沿いにベオグラードから北西へ向かい、現ハンガリー南部のモハーチに到達しました。

 ハンガリーとボヘミアの王ラヨシュ2世は、東欧の大国ポーランド・リトアニアの王家ヤギェウォ朝の出身で、1522年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世/スペイン国王カルロス5世の妹マリアを娶っていました。カールはフランス、英国、ポルトガル、ヴェネツィアを除くヨーロッパ全土の君主で、ヤギェウォ朝は中東欧の大部分を支配していましたから、これはもはやオスマン帝国とヨーロッパ/カトリック世界の衝突です。

 20歳のラヨシュは2.5万-3万のハンガリー軍に加え、トランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュの兵やポーランド兵を率い、数の上では互角でした。しかし大砲は85門しかなく、傭兵などが多くて士気は高くなく、兵站も不充分でした。これに対し、オスマン軍はルメリア(バルカン半島)の兵らを前面に押し立て、常備軍イェニチェリは火縄銃で武装しています。

 1526年8月29日の昼過ぎ、両軍は戦闘を開始します。ハンガリー騎兵を率いるパール・トモリはルメリア兵を騎兵突撃で打ち破り、スレイマン自身の胸甲に銃弾が当たるほど肉薄しますが、イェニチェリらの猛反撃で押し返されます。ハンガリー軍は包囲され、数時間に渡って戦ったのち、総崩れとなって逃げ出します。国王ラヨシュは川を渡って逃げる途中で落馬し、甲冑の重さのために溺死しました。オスマン軍の大勝利です。

 スレイマンはハンガリー平原を北上し、9月に首都ブダ(現ブダペスト)を占領します。カールは弟のフェルディナントをハンガリーとボヘミアの王位につけますが、ハンガリー貴族らはハプスブルク家の支配に反対し、東のトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュのもとに集まります。サポヤイはスレイマンに服属して新たなハンガリー王に任命され、オスマン帝国の傀儡政権となりました。ここにハンガリーは東西に分裂します。

 フェルディナントはスペインで生まれ育ち、1521年にオーストリアを相続し、ラヨシュ2世の姉アンナと結婚しています。兄カールはこの頃イタリアを巡ってフランス王フランソワ1世と争っており、ルターによる宗教改革も勃発していましたから、東方はフェルディナントに任されました。

維納包囲

 フランソワは1525年に北イタリアでカールに敗れて捕虜となり、雪辱を果たすべくローマ教皇やイングランド王ヘンリー8世、ドイツのルター派諸侯やオスマン帝国とすら密かに手を結びます。彼自身はカトリックですが、王権を強化して国家を強大ならしむるために手段を選ばない厄介な男でした。ドイツとフランスはフランク王国分裂以来仲が悪く、スペインや北イタリアまでドイツ(神聖ローマ・ハプスブルク家)のものになってムカつくという思いはわかりますが、彼のせいでヨーロッパは一致団結できませんでした。

 1528年、ハンガリー王フェルディナントはサポヤイを攻撃し、一時は彼をブダから追い払います。サポヤイはケツモチのスレイマンに泣きつき、スレイマンはフランソワの要請もあってハンガリーへ再び進軍しました。1529年5月、帝都を出発したオスマン軍12万は8月にモハーチへ至り、ブダを始めとするハンガリーの各地を制圧します。さらにドナウ川を遡り、9月23日にはついにハプスブルク家の都ウィーンを包囲しました。

 フェルディナントは西のリンツへ逃れ、兄カールや諸侯に援軍を要請します。しかしルター派諸侯ばかりかカトリック派諸侯さえ尻込みしてウィーンに向かえず、現地の守備軍が全力で防衛戦を担うことになりました。オスマン軍の攻撃は10月1日から始まり、ウィーン守備軍は死物狂いの抵抗を行います。堅固な城壁は大砲の猛攻にも耐え抜き、破壊されても修復され、坑道作戦も潰し、籠城戦は半月に及びました。

 オスマン軍は補給不足と寒さに苦しめられ、長引く遠征に士気が下がり始めます。当時は小氷期で冬が早く、ウィーンではが降り出しました。やむなくスレイマンは10月17日に撤退し、ウィーンは救われたのです。しかしハンガリーの分裂は解決せず、両者は翌年から交渉を開始しました。

 フランソワは北イタリアから手を引いたものの諦めず、ポルトガル王家と婚姻したり、ルター派諸侯の反皇帝同盟と手を組んだりしてカールと戦い続けました。オスマン帝国にとっても彼らは反ハプスブルク家という点では味方であり、「偶像を拝まず、(神聖ローマ)皇帝や教皇に従わない」としてルター派を好意的に見ていたといいます。ルターもまた「皇帝や教皇よりもトルコ人(オスマン帝国)の支配のほうがマシだ」と述べています。

 スレイマンは1532年に再びオーストリア遠征を行いますが、戦闘はせずにフェルディナントの使者と交渉し、1533年に和睦が成立します。フェルディナントはハンガリー東部におけるサポヤイの王位を承認し(自らのハンガリー王位は放棄していません)、残りの部分には「オスマン帝国に属するが、ハプスブルク家が借りている」という名目で貢納を課しました。ハンガリー分割は固定化され、オスマン帝国は欧州に対する侵略を一時停止して、次は東方への遠征を行うことになります。

◆秩序◆

◆混沌◆

【続く】

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