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【つの版】ウマと人類史:中世編35・薛禅皇帝

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1281年に行われた、大元大蒙古国による第二回日本遠征は、日本の武士団の奮戦と台風の襲来によって失敗しました。皇帝クビライは東南アジアへも出兵しつつ、さらなる日本遠征を計画しますが、重い負担に苦しんだ人々は各地で反乱を起こし、計画を妨害しました。圧政のツケがやってきます。

◆大怪獣の◆

◆あとしまつ◆

骨嵬侵攻

 高麗の北、現在の遼寧省から内モンゴル東部にかけての地域には、「東道諸王」と総称されるモンゴル帝国の諸王家が分封されています。チンギス・カンの弟ジョチ・カサル、カチウン、末弟テムゲ・オッチギンと、異母弟ベルグテイの子孫です。チンギスは弟たちを左翼(東方)に、息子たちを右翼(西方)に分封して領国ウルスを授け、モンゴル本土の東西を守らせ、拡大していくようにしたのです。ただテムゲ家はオッチギン(炉を守る者)として家の跡継ぎの権威と義務を有するため、東方諸王の盟主とされ、他の東方諸王より抜きん出た勢力と権威を与えられています。

 このうちカサル家はモンゴル揺籃の地である北東部のアルグン川流域、カチウン家は仇敵タタル族の領域であった南のウルクイ川流域、テムゲ家はその間の湿潤肥沃なフルンボイル地方、ベルグテイ家は広寧(遼寧省錦州市)に領地を持っていました。のち彼らは王(ong)の称号を持つことからオンリュート(王に従う者たち)、チンギスの子孫であるモンゴル皇帝の叔父にあたることからアバガ(叔父)と呼ばれるようになっていきます。

 しかし右翼/西方諸王がユーラシア内陸から西方へ拡大し、皇帝の宗主権を認めつつ半ば独立した政権・帝国となっていったのに対し、左翼/東方諸王は盟主テムゲ家のもと、おおむね皇帝に従属していました。特にクビライとアリクブケの間で帝位争奪戦争が勃発すると、地理的にクビライの本拠地に近い東方諸王は一致してクビライ支持にまわり、多大な貢献をしました。

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 クビライはマンチュリアを統括する地方行政機関として1269年に東京行省(のち北京行省、北京宣慰司)を設置し、東方諸王家も一応その指揮下に入れられます。ただクビライが日本遠征を繰り返すと、後背地であるこれらの地域には負担がのしかかり、諸王は不満を強めていきます。

 またクビライは、アムール川河口部の彼方、樺太/サハリンに遠征軍を派遣しています。樺太が日本列島の一部と認識されていたかは怪しいため、これが日本遠征の一環とは考えにくいのですが、俗に「北の元寇」と呼ばれたりしています。当時の樺太にはニヴフ/ギリヤーク人や樺太アイヌが暮らしており、間宮海峡/タタール海峡を越えたアムール川流域の女真族、南の日本列島の住民とも盛んに交易を行っていたようです。

 女真族の王朝である金はこの付近へも勢力を伸ばしており、現ロシア領ハバロフスク地方ウリチ地区のトィル村にヌルガン城を建設して交易路を抑えました。金を滅ぼしたモンゴル帝国もこの地へ進出し、1263年には将軍シデを派遣して吉里迷(ギリヤーク/ニヴフ)族を服属させています。クビライはヌルガン城に東征元帥府を置いて統括させましたが、1264年には吉里迷から「骨嵬亦里于が毎年侵入して来ます」と訴えがあり、それらを討伐すべく最初の樺太遠征が行われました。骨嵬とは蝦夷、樺太アイヌであると考えられています。亦里于もその一派でしょうか。1268年には津軽で乱が勃発し、鎌倉幕府の蝦夷代官である安藤氏が殺害される事件が起きています。

 1273年には塔匣剌タカラが征東招討司に任命され、骨嵬攻撃を計画したと『元史』にあります。この時は賽哥小海(間宮海峡)の結氷を待って樺太へ侵攻する予定でしたが、結局実行には移されませんでした。

 1283年、女真の請願で鬼国(骨嵬)への遠征が計画され、翌1284年に聶古帯ニクタイが征東招討司に任命されています。同年冬、彼は20年ぶりに樺太へ侵攻し、1285-86年には征東招討司の塔塔児帯タタルタイ兀魯帯ウロタイが兵1万・軍船1000艘を率いて遠征しました。この遠征でモンゴル軍は樺太南端まで到達し、果夥城を築いて屯田を行ったといい、実際樺太南西端の西能登呂岬に存在する白主土城遺跡はチャイナ伝統の版築技法で建設されています。おそらく北海道からのアイヌの進出が盛んになり、それを抑えるために築かれたのでしょう。しかし日本遠征に加えて樺太遠征の負担がのしかかったためか、東方諸王は反乱を計画します。

乃顔之乱

 1284年に北京宣慰使となったタングート人イレグ・サカルは、オッチギン家当主ナヤンに反意あり、警戒すべしとクビライに進言しています。これは事後予言かも知れませんが、1282年には前述のように権勢を振るった財務長官アフマドが暗殺され、皇太子チンキム派が政権を掌握したため、そのつながりでなんらかの動揺があった可能性はあります(イレグ・サカルはアフマドの息子を弾劾しています)。

 1286年初頭チンキムが44歳で突如薨去すると、チンキムの妻ココジンが遺産を受け継ぎ、カマラ、ダルマバラ、テムルの三子の後見人となりました。クビライは彼ら皇孫を跡継ぎ候補としますが、みな20歳を過ぎたばかりで、70歳を過ぎたクビライの老い先は短いとみた諸王は反乱を計画します。クビライはこれに対処するため、イレグ・サカルの提言を入れて北京宣慰使を再び東京行省と改め、権限を強化しました。クビライの官吏らに口出しをされてムカついていた東方諸王は、ついに西のカイドゥと手を組みました。

 1266年から20年もクビライに逆らっていたオゴデイ家のカイドゥは、この頃にはシリギの乱の残党を集めて勢力をさらに拡大し、東はアルタイ山脈の東麓にあったアリクブケ家、北はトゥヴァ地方のオイラト部族、西はマーワラーアンナフルに至る広大な領域を支配していました。アム川の南のフレグ家はクビライ派ですが、当主アバカが1282年に逝去すると後継者争いが勃発し、1284年に叔父テグテルを処刑してアバカの子アルグンが即位しました。このためカイドゥに対して戦う余力も乏しいと考えられ、ナヤンたちはカイドゥの誘いに乗ったのです。クビライもこれを予期しており、反乱に対する準備は万端に整えてありました。

 1287年春、ナヤンは東方諸王家、およびモンゴル高原のコルゲン家のエブゲン、コデン家のイェス・ブカへ使者を派遣し、自分とカイドゥに呼応し挙兵するよう要請しました。コルゲン家はチンギスの庶子コルゲンの子孫で、元アリクブケ派だったことから警戒されており、コデン家はクビライ派でしたが、オゴデイの子孫としてカイドゥについたようです。

 ナヤンはカサル家当主シクドゥル、カチウン家当主カダアンとともに南下し、遼東・上都・大都へ進軍しました。エブゲンはクビライの子ノムガンの指揮下にあってカイドゥの侵攻に備えていましたが、反乱開始後にノムガン軍を内部から撹乱し、カイドゥの進軍を助けてモンゴル高原を制圧する予定でした。これに対し、クビライは庶子アヤチに遼東宣慰使のタチュと協力して防がせ、江南からは海路で兵糧を輸送させます。また使者をベルグテイ家に派遣して戦線離脱させ、自ら兵を率いて反乱鎮圧に乗り出します。

 5月、上都を出発したクビライ軍は遼河流域へ急行し、僅か21日でラオハ川付近のサラドゥルにおいてナヤン軍の先鋒と接触しました。クビライ軍には日本遠征から戻った李庭や洪茶丘らも参加しており、敵軍を偽兵で威圧して進軍をためらわせると、夜の間に火砲を放って奇襲をかけ、散々に撃ち破ります。さらに追撃をかけて先鋒軍を潰滅させ、シラ・ムレン河畔に駐屯していたナヤン軍の本隊を襲撃します。油断していたナヤンは慌てて戦列を整えますが、クビライはビルマから献上された戦象に乗って戦場を俯瞰し、激戦の末にこれを撃ち破りました。ナヤンは捕虜となったのち絨毯に包まれて撲殺される「貴人の死」を与えられたといいます。

 この反乱については、クビライの宮廷にいたマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記しています(彼については後でやります)。それによると、ナヤンはネストリウス派のキリスト教徒で、軍旗に十字架を掲げていました。クビライが勝利した後、ある将軍がキリスト教徒をからかって「お前たちの神はナヤンを守れなかったではないか」と発言します。クビライはこれをたしなめ、「神は公正であり、罪と不正を行った者に恩恵を与えない。ナヤンは邪悪な企みを持っていた反逆者なのだから、神の庇護を受けられなかったのは当然ではないか」と告げたといいます。キリスト教徒であるマルコの記録ですから誇張はあるかも知れませんが、モンゴル皇帝らしい言い分ですね。

 一方、カサル家のシクドゥルと戦っていたクビライの庶子アヤチは、敵の女真族部隊に敗れて苦戦していましたが、父がナヤン本隊を破ったこともあって体勢を立て直し、7月にこれを平定しました。シクドゥルは降伏して当主の座を追われたものの、命は助けられたようです。

 またコルゲン家のエブゲンは、カチウン家のシンナカルとともにモンゴル高原で反乱を計画していましたが事前に露見し、キプチャク人部隊を率いるトトガクらに撃破されて逃走します。同年7月、クビライは素早く戦後処理を行い、反乱に加わった王家の当主をすげ替えます。オッチギン家はナイマダイ(のちトクトア)、カチウン家はエジル、カサル家はバブシャが任命され、ナヤン以外の前当主らは処刑されず、処罰も軽微でした。抵抗勢力が残存しており、西方のカイドゥにも備えねばならなかったためもあります。

合丹之乱

 しかしカチウン家のカダアンはこの処置を不服とし、反乱を継続します。彼はクビライに降伏せず、嫩江の西岸沿いに北方へ逃走し、追撃に来たクビライ軍を撃ち破ります。クビライは兵を派遣し、秋までにナヤン軍の残党は平定されますが、カダアンは10月に再び蜂起して激しく抵抗しました。カダアンの勢力は上都の北のウルクイ川流域から嫩江・黒竜江流域にまで及び、クビライは東京行省を遼陽行省と改めて討伐軍を指揮させます。

 1288年春、クビライは皇孫カマラをモンゴル高原へ、テムルをマンチュリアへ派遣し、カイドゥとカダアンに当たらせます。もうひとりの皇孫ダルマバラはクビライに特に可愛がられており、彼は祖父に付き従ったようです。この頃ノムガンが薨去したため、カマラはその代わりとなり、実戦は歴戦の将軍トトガクらが担いました。トトガクはカイドゥ軍の侵略を防ぎ、続いてウルクイ川へ転戦して反乱軍の諸王コルコスンを破るなど活躍しています。

 テムル率いる軍は8月に大興安嶺東麓でカダアン軍と激突し、火砲によって敵軍の馬を驚かせ、大勝利を収めました。カダアンは這々の体でさらに北へ逃れ、1288年末から1290年にかけてマンチュリア各地を逃げ回ります。1291年には防衛線を破って高麗に侵入し、各地で殺戮と掠奪を行い、高麗の首都開京(開城)に迫ります。高麗の忠烈王は慌てて江華島へ避難し、クビライに援軍を要請しました。1291年4月、モンゴル・高麗連合軍はカダアンを挟撃し、最終的に鴨緑江付近で撃滅、カダアンとその子ラオデイを誅殺します。ここに反乱は終結し、クビライはマンチュリア方面に対する支配力を一層強めることとなりました。

 しかしカイドゥの侵攻はやまず、1289年にはカマラ率いる軍を破り、勢力をさらに強めていました。財政もアフマドの死と相次ぐ遠征や反乱によって破綻し始め、パクパの弟子サンガが1287年から財政再建のため改革を行ったものの、中書省の誣告を受けて1291年に失脚します。1292年には皇孫ダルマバラが薨去し、老いたクビライは深く悲しみました。1293年、クビライはモンゴル高原総司令官のバヤンを召還し、皇太孫テムルを派遣しますが、翌年2月に78歳で崩御しました。在位は1260年から数えて34年に及びます。

 クビライの遺体は、歴代の皇帝と同じくモンゴル高原の起輦谷へ葬られ、5月に皇太孫テムルが上都で即位します。彼は6月に祖父へ「聖徳神功文武皇帝」の諡号、「世祖」の廟号を奉り、モンゴル語でセチェン・カアン(薛禅皇帝、「賢明な皇帝」の意)と追贈しました。ここに一つの時代が終わったのです。次回からはマルコ・ポーロの『東方見聞録』を通じて、西方を含めた当時のモンゴル帝国の様子を見ていきましょう。

◆東◆

◆方◆

【続く】

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