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【つの版】倭国から日本へ19・皇極天皇

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

641年10月、舒明天皇が崩御しました。順当に行けば、宝皇后との第一皇子である葛城皇子が即位するはずですが、彼は蘇我氏の血を引いていません。天皇による生前指名も立太子もされてはおらず、またも議論が起こります。倭国の実権を握る蘇我蝦夷は誰をチョイスするのでしょうか。

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586年生まれと推定される蝦夷は、この時56歳の壮年です。子の入鹿は611年生まれとされ、31歳の若造です。蘇我氏には他に蝦夷の兄で飛鳥寺の寺司である善徳、蝦夷の弟の倉麻呂とその子・山田石川麻呂らがいましたが、本流は蝦夷・入鹿の系統です。蘇我氏も一枚岩ではなく、蝦夷が叔父の境部摩理勢を殺したように勢力争いがあり、絶対的な権威を持ってはいません。その権威・権力の源である大王(天皇)選びには慎重を期さねばなりません。

まず、厩戸皇子(聖徳太子)の子である山背大兄王がいます。推古天皇崩御の後、田村皇子(舒明天皇)と皇位を巡って論争があり、推薦した境部摩理勢が孤立して殺されるという事件もありました。あの時はまだ若かったとしても、13年が過ぎており年齢にも不足はなく、蘇我氏の血を父母両系から引いてもいます。蘇我氏には都合がよいようですが、摩理勢を殺した蝦夷からすると、いまさら推せる人物ではありません。

敏達天皇の子である大派皇子は、敏達崩年の585年以前に生まれているはずですから、641年には60歳近く、生存中の皇族の中では長老格です。しかし母は春日氏であり、蘇我氏の血を引いていません。彼の子らも名が伝わっておらず、蘇我蝦夷に「鐘を鳴らして出仕の時刻を知らせよう」と提案した時も無視されています。候補者としては適当でありません。

舒明天皇の皇后・宝皇女は蘇我氏の血を引いておらず、彼女が産んだ子ら(葛城・大海人)はまだ10代です。夫人である蘇我法提郎女は古人大兄皇子を産んでいますが、彼も10代前半です。チャイナやコリアには幼い天子や王がいるのですから良いと思うのですが、この時代の倭国では「年長の王族が群臣に推挙されて大王となる」という暗黙の了解がありました。先代が指名して決めることも出来ましたが、蘇我氏や群臣の意見に左右され、絶対ではないのです。蘇我蝦夷に最も都合が良いのは古人なのですが…。

皇極天皇

悩んだ末に、蝦夷と入鹿は古人が成人するまでの中継ぎとして、舒明の皇后である宝皇女を女帝(女王)として擁立しました。これが天豊財重日足姫天皇、皇極天皇です。彼女はのちに退位しますが、復位した後は斉明天皇と漢風諡号をつけられています(当時は漢風諡号はありませんが)。女性の大王は推古という前例がありますし、敏達天皇の孫娘で舒明天皇の皇后ですから男系でも権威でも問題はありません(母は欽明天皇の孫娘)。舒明と同年代ですから50歳近く、年齢にも不足はないはずです。

しかし「次こそ」と思っていた山背大兄王の派閥には不満が鬱積しますし、宝皇女の子らも蘇我氏を憎みます。この空気を読んでか、蝦夷は政界を引退して入鹿(鞍作)に地位を譲りました。

皇極紀以後はこれまでと比べて妙に詳細で、何日に何があったというのを事細かに記しています。これは日本書紀編纂から80年近く前の近現代史であるためでもありますが、災異を多く記すことで当時の政権を暗に批判するという、チャイナの史書ではお定まりの「春秋の筆法」でもあります。しかし近現代史なので関係者やその子孫はまだ生きており、日本書紀編纂時の天皇や権力者を批判するような迂闊なことは書けません。気をつけましょう。

日本書紀巻第廿四 天豐財重日足姬天皇 皇極天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_24.html

半島動乱

皇極元年(642年)正月、百済に遣わされた大仁の阿曇比羅夫が筑紫から早馬で駆けつけ、百済使が弔問に来たこと、百済で大乱が起きたことを報告しました。2月に人をやって問わせると、百済では大臣の智積や国王の母が死に、王子の翹岐らが島流しになったといいます。これは641年に武王が薨去して義慈王が即位し、貴族主導による政治を改革したためのようです。彼は倭国の人質であった弟の塞上をも呼び寄せ、粛清しようとしています。

同じ頃に高句麗からも使者が来ていましたが、彼らが伝えるところでは高句麗でも乱が起きていました。なんと大臣の伊梨柯須弥(淵蓋蘇文)が大王(栄留王)を弑殺し、多くの王族・貴族らを粛清して宝蔵王を擁立し、同族の都須流金流を大臣に据えて実権を握ったというのです。

これは高句麗が親唐派(穏健派)と反唐派(突厥派か)に分かれて権力闘争を行い、反唐派の淵蓋蘇文がクーデターを起こしたものです。蘇我氏が実権を握る倭国も他人事ではなく、かなり動揺したことでしょう。ただ『三国史記』などではこの事件を642年のこととしています。日本書紀編纂者が百済の乱と高句麗の乱を合わせたのでしょうか。

倭国は百済王子の翹岐を庇護して厚遇し、百済の動乱に備えます。3月には新羅から使者が来て弔問と即位祝賀の挨拶をし、帰還しました。4月に翹岐は天皇に拝謁し、蘇我入鹿とも親しく対談しましたが、百済王が粛清しようとしている塞上は呼ばれませんでした。

5月に再び百済の使者が到来し朝貢しましたが、この頃に翹岐の子が死にました。翹岐と妻は恐れおののき(暗殺されたのでしょうか)、弔いもせずに家を遷ります。7月に百済の使者は朝廷で饗応を受け、翹岐の前で相撲をとらせますが、翹岐は途中で家に帰ってしまい、使者は門前まで行って拝礼しました。脅しのつもりでしょうか。

翹岐は義慈王の子・扶餘豊璋の別名であるとの説もあります。しかし豊璋は既に舒明3年(631年)に渡来しており、ことさらに同一人物とする必要もないのではないかと思います。

7月23日、蘇我入鹿の従僕が白雀の子を手に入れ、同じ時に別の人が白雀を入鹿に贈りました。白雀は瑞兆の一種ですが、別に珍しいものではないということでしょうか。皇極紀にはこの手の蘇我氏に対する筆誅が目立ちます。

蘇我専横

7月25日、群臣が「各地で色々な方法で雨乞いをしているが効果がない」と相談したところ、蘇我入鹿が「仏教式の雨乞いをやろう」と言い出します。27日に百済大寺の南で諸仏の像を安置し、多くの僧を招いて『大雲経(大雲輪請雨経)』を読誦させました。入鹿は手に香炉を持って祈願しましたが、28日に小雨が降っただけで、29日にやめました。

そこで8月1日、皇極天皇が南淵の川上で跪き、四方を拝し天を仰いで祈ると、雷鳴がして大雨が降ります。雨は5日降り続いて天下は等しく潤い、国中の百姓は喜んで天皇の徳を讃えたといいます。蘇我氏の(仏教式の)雨乞いより天皇の方が偉いんだ、と主張するためのありがた話ですね。これを見届けた後、百済・新羅・高句麗の使者は帰国しました。

9月には近江と越から人夫を集めて百済大寺を築き、諸国に船舶を作らせ、遠江より安芸に至る諸国から人夫を集めて板蓋宮を築造させました。21日には越の蝦夷数千人が帰伏し、翌月朝廷で饗応が催されました。12月には舒明天皇の葬儀を行い、滑谷岡に葬った後、皇極天皇は小墾田宮に遷りました。

10月から12月にかけてはやたらと地震や雷が頻発していますが、これは蘇我氏の専横を天が戒めたものだとする筆誅でしょう。引退した蘇我蝦夷はこの頃葛城の高倉に祖廟を建て、天子にのみ許された八佾の舞を催し(『論語』に臣下の専横の象徴として出てきますからパクリですが)、諸国の部曲(豪族の私有民)や太子の部民をもこき使って自分と入鹿の生前墓を築造したので、聖徳太子の娘である上宮大娘姫王は無礼を嘆いたといいます。

皇極2年(643年)にもやたらと災異や異常気象が起こり、蘇我蝦夷は祖廟を盛大に祀ります。翹岐は結局百済へ戻っていたらしく、この年に百済の朝貢の使者と共に筑紫の大宰府へやってきます。天皇は飛鳥の板蓋宮が完成したのでそちらへ遷り、百済・高句麗の使者を迎えますが、7月に貢物を難波で点検すると、百済の朝貢品は例年より少なくなっていました。9月には舒明天皇を押坂陵(桜井市忍坂の段ノ塚古墳)に改葬しました。また皇極天皇の母である吉備姫が病気になり、同月に薨去して檀弓岡に葬られています。

上宮襲撃

11月、蘇我入鹿は巨勢徳太臣らを斑鳩宮へ遣わし、上宮王(山背大兄王)を攻撃しました。王は部下が防ぎ戦っている間に馬の骨を寝殿に投げ入れ、妃や子弟、側近を率いて生駒山へ逃亡します。巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼き払い、焼け残った馬の骨を見て「王は死んだ」と判断し、囲みを解いて帰還します。王たちは山の中に数日隠れた後、下山して斑鳩寺に入ります。入鹿は再び兵を発して寺を囲ませ、ついに王は一族郎党と共に自決しました。

于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。(皇極紀)

聖徳太子の一族はここに滅び、日本書紀は彼らが昇天したかのように描写しています。太子をブッダの化身とし、その子らを滅ぼした蘇我氏を貶めているわけですが、要するにまあ筆誅のたぐいです。蘇我蝦夷は「入鹿の大馬鹿者め!お前の命は危ういものだ」と罵ったといいますが、真かどうか定かではありません。この時になって上宮王家を突如滅ぼしたというのは、上宮側で蘇我氏を倒そうという動きを察知して先んじて潰したのかも知れませんが日本書紀は黙して語らず、単に蘇我氏を悪として描写しています。

なおこの年、百済太子豊璋は三輪山にミツバチの巣4枚を持ち込ませ、初めて養蜂を行いましたが、うまく繁殖しませんでした。

中臣鎌足

皇極3年(644年)元日、天皇は中臣鎌子を神祇伯に任命しましたが、彼は再三辞退して受けず、病と称して退去し、摂津国三島郡に移り住みました。彼こそは中臣鎌足、のちの藤原鎌足です。父の御食子(みけこ)は推古天皇崩御後に田村皇子(舒明天皇)を推挙した一人でした。

鎌足はこの時30歳で、神祇伯任命は父の跡を継いでのことと思われますが、辞退して受けなかった理由はわかりません。彼は以前から軽皇子(皇極天皇の同母弟)と親しく、その宮に参上したところ、厚くもてなされて感激し、「皇子が天下の王となられることを誰も阻みますまい!」と発言しました。軽皇子は喜びましたが、鎌足は次に中大兄皇子(舒明天皇と皇極天皇の子、葛城皇子とも)に接近しようとします。彼はこの時18歳ほどの青年でした。

中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾𨶳𨵦社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。(皇極紀)

中大兄が法興寺の槻木の下で蹴鞠を催した時、鎌足は仲間に加わっていましたが、中大兄の皮靴が脱げ落ちたのを拾い上げ、両手に捧げ持って跪き、恭しく奉りました。中大兄はこれに対し、自ら跪いて恭しく受け取ったので、両者は親しい友人となり、隠さずに心中を話し合うようになりました。有名なシーンですが、ほんとかどうか定かではありません。

また彼らはあまり親密にしていると他人が「何か企んでいるのでは」と疑うのを恐れ、共に南淵請安のもとへ儒教を学びに赴き、往復の路上で肩を並べて密かに話し合いました。30歳のおっさんと18歳の貴公子がサッカーもとい蹴鞠の場や通学路でベタベタ肩を寄せ合っていたわけで、なんか別の意味で親密さが疑われそうな気もしますが。

それはさておき、鎌足は「大事を図るには助力者が必要ですね。蘇我倉山田石川麻呂の娘を妃とし、共に事を図りましょう」と提案します。

蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらやまだの・いしかわの・まろ)はどこで切っていいかわかりにくい名ですが、ここでは倉山田麻呂(くらやまだの・まろ)と表記されています。彼は上述の通り蘇我馬子の子・倉麻呂の子で、蝦夷の甥、入鹿の従兄弟にあたります。蘇我氏ですが蝦夷や入鹿とは対立関係にあり、喜んで協力してくれるでしょう。

中大兄は大いに喜び、鎌足を仲人として倉山田麻呂の長女を娶りましたが、彼女は初夜の後に蘇我氏の身狭臣(倉山田麻呂の弟・日向)に盗まれてしまいます。日向が彼女に横恋慕していたか、倉麻呂の子らの間でも対立関係があったのでしょう。このことで彼が咎められた記録はありません。

倉山田麻呂はしょんぼりしましたが、次女が事情を聞いて「私を身代わりにすればいいじゃないですか」と申し出たので、父は大いに喜んで彼女を奉りました。これが遠智娘(をちのいらつめ)です。

こうして中大兄と倉山田麻呂は姻戚となり、互いの後ろ盾となって蘇我蝦夷と入鹿に対抗していくことになります。鎌足はさらに佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らを同志として紹介し、計画を練ります。うまくいくでしょうか。

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【続く】

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