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【つの版】倭の五王への道02・前期古墳02:中四国

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

3世紀中頃から4世紀にかけて、日本列島の各地に前方後円墳や前方後方墳が出現します。この頃(古墳時代初期から前期)の古墳を前期古墳として、前回は九州の分布状況を日本書紀も参考にしながら概観しました。今回は九州と近畿の間、中国・四国地方の様子をざっくり見てみます。

◆鬼◆

◆滅◆

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西瀬戸内と四国

景行天皇は周防から豊国に渡ったといいます。この頃の周防はどのようだったでしょうか。4世紀初頭、山口県内最古級の古墳である国森古墳が熊毛郡田布施町に出現します。27.5m×30mの方墳で、三角縁神獣鏡などが出土しました。熊毛郡は瀬戸内海西部の航路を扼する交通の要衝で、長島との海峡である上関(かみのせき)は防府(中関)や下関と並ぶ船の関所でした。

隣の柳井市では全長80m、後円部径50mの前方後円墳・柳井茶臼山古墳が築かれ、直径44.8cm(2尺余)の銅鏡が出土しています。周防大島(屋代島)との海峡を掌握した勢力でしょう。4世紀後半には下関市に仁馬山古墳(全長75m)が現れます。ただ防府市には前期古墳は乏しいようです。

広島県(安芸や備後)にも古い前方後円墳は少ないようです。3世紀末から4世紀にかけて、安芸高田市に甲立2号墳(方墳)が築かれています。4世紀後半にはすぐ近くに前方後円墳の甲立古墳(全長77.5m)が現れ、三次市には円墳の岩脇古墳(直径31m)、次いで前方後円墳の若宮古墳(全長38m)、神石高原町には備後地方最大の前方後円墳・辰の口古墳(全長77m)が出現します。いずれも内陸部で、出雲に対する前線基地といった様相です。

四国を見ていきます。愛媛県(伊予)では、西条市に初期の前方後円墳である大久保1号墳(全長24m)があり、大きさは纒向石塚古墳の1/4です。4世紀になると今治市大西町に前方後円墳の妙見山古墳(全長55.2m)が築造され、吉備から伝わり独自の発展を遂げた伊予型特殊器台が用いられました。瀬戸内海の難所・芸予諸島の海峡部を抑える今治(越智郡)は、小市(おち)国造や伊予国府が置かれた要衝で、4世紀末からは相の谷古墳群が出現します。

また西予市宇和町岩木には、前方後円墳の笠置峠古墳(全長45m)が築かれました。4世紀前半の築造で、宇和盆地を南に望み、北には八幡浜への道が通る要衝です。佐田岬半島南岸を西へ進めば、豊予海峡を渡って大分市に至ります。弥生時代後期に北部九州から西予・土佐まで及んだ広幅銅矛文化圏は、このルートを辿って広がったものでしょう。それを抑えた形です。

讃岐(香川)は吉備の中枢部の対岸ですから、影響の強さは推察できます。古墳前期の主要な前方後円墳には、丸亀市綾歌町の快天山古墳(98.8m、4世紀中葉)、善通寺市生野の磨臼山古墳(49.2m、4世紀後半)、高松市の高松茶臼山古墳(75m、4世紀末)があります。また高松市には3世紀末から7世紀まで石清尾山古墳群が営まれ、200基を超える円墳や積石塚、盛土墳が築造されました。

3世紀前葉に出現する徳島県鳴門市の萩原墳墓群(積石墓)は、纒向のホケノ山古墳との内部構造の類似性が論じられています。交通の要衝である鳴門海峡を抑え、淡路島を渡って葛城・ヤマトと交流があったのでしょう。4世紀には三好郡東みよし町西庄に前方後円墳ないし前方後方墳の丹田古墳(全長37m、積石塚)が築造され、4世紀後半には名西郡石井町に山ノ神古墳が築造されています。

土佐国造・波多国造は共に阿波南部の長国造と同祖で、葛城地方の豪族(彌馬升≒観松彦)の系譜を引いているようです。土佐国一宮である土佐神社にも味耜高彦根命と一言主神が祀られています。4世紀後半には南国市岡豊町に長畝古墳群が出現しました。

出雲と吉備

出雲(山陰・北陸、投馬國)は前述のように方墳文化圏で、前方後円墳を受容していませんから、ヤマトにとっては吉備や播磨を中核とする東瀬戸内諸国がカギとなります。実際纒向遺跡や前方後円墳の成立には吉備の影響が色濃く見えます。ヤマト倭國の成立と発展は、瀬戸内海はあっても海外への直接の窓口を持たない吉備や播磨の生存戦略であったかも知れません。

出雲は日本海を隔てて朝鮮半島に面しており、北部九州も日本海側から抑えられますが、吉備からすれば関門海峡を抜けなければなりません。辰砂を産出する阿波やヤマトを味方につけ、ヤマトの彼方に広がる伊勢や東海、関東などの太平洋側フロンティアと結べば、裏日本もとい日本海側の大勢力である出雲にも対抗できます。出雲もまだ重要なのですが、主要な陸路と海路を抑えることで分断し、相対的に重要度を低くすることは可能です。

『日本書紀』によると、崇神天皇は武埴安彦命の反乱を平定した後、西道(播磨と吉備)へ大吉備津彦命を、丹波へ彦坐王を、北陸へ大彦命を、東海へ武渟川別命を派遣しました。これを「四道将軍」といい、神武東征以来初めてとなるヤマトからの対外遠征です。北陸・丹波を抑えれば出雲には打撃となりますが、出雲の本国までは踏み込んでいません。彦坐王の子孫は近畿北部に広がる有力氏族となり、子孫には神功皇后がいます。

武渟川別命は例のヌナカワヒメ(新潟県糸魚川市姫川の翡翠の女神)と関係があるとすれば北陸っぽく、大彦命の孫(比古伊那許志別命の子)の磐鹿六鴈が上総国へ行ったりしているので、ひょっとしたら大彦命は東海へ、武渟川別命は北陸へ向かったとあるのを後から取り違えたのかも知れません。

崇神天皇は後に「出雲の神宝を見たい」と言って武諸隅を派遣しましたが、出雲臣(出雲を支配する豪族)である振根は筑紫へ赴いていて留守でした。そこで弟の飯入根は勝手に神宝を出雲大神の宮から取り出し、弟の甘美韓日狭、息子の鸕濡渟と共に武諸隅に献上します。筑紫から帰還した振根は腹を立て、飯入根を止屋の淵(出雲市塩冶町)に誘い出すと斬り殺してしまいました。飯入根の弟と息子はこのことを天皇に訴え、天皇は吉備津彦命と武渟川別命を派遣して振根を誅殺したといいます。出雲と筑紫(旧・倭奴國)の繋がり、吉備やヤマトとの対立関係がうかがえます。

なお、後に丹波国氷上郡の氷香戸辺の子が「出雲人の祀る鏡が水底にある」と託宣したので、天皇は鏡を祀らせたといいます。出雲と丹波国氷上郡は遠く離れていますが、山陰道のうちではあります。丹波にも出雲系勢力がいたことを言うのでしょうか。丹波の亀岡市には出雲大神宮があり、「出雲国の杵築大社は我が社の分社である」と勝手に主張しています。

また神宝は出雲へ返還されたらしく、垂仁天皇の時代に物部十千根が派遣されて出雲の神宝を検校しています。武諸隅も十千根も饒速日尊の七世孫なので同世代ですね。『古事記』では景行天皇の時に倭建命(ヤマトタケル)が出雲建を討伐したとされますが、『日本書紀』には吉備と難波で戦ったとあるだけで出雲に行っておらず、倭建命が出雲建を倒すシーンは振根が飯入根を殺すシーンと全く同じです。同じ話が分けて伝えられたのでしょう。

古代出雲には西部の斐伊川流域と、東部の安来(意宇・西伯)という二つの勢力圏があり、ヤマトや吉備は両者の対立につけ込んで殺し合わせたのかも知れません。「分断して征服せよ」は古くから用いられてきた手法です。神武天皇も兄宇迦斯と弟宇迦斯、兄磯城と弟磯城の弟の方(弱い・若い方)を先に服属させ、兄の方を倒して弟にその土地を与えています。

山陰地方では、古墳時代前期後半(4世紀前半)に因幡・東伯耆(倉吉以東)・石見で前方後円墳が出現し、古墳時代中期(4世紀末から5世紀)以後に西伯耆や出雲でも前方後円墳が出現します。石見地方最古の前方後円墳は西部の益田市で出現しており(大本古墳群)、山口か広島側から伝わったと思われます。出雲(投馬國)はこうしてヤマトに取り込まれて行きました。出雲神話や各地の出雲系の神々は、かつての栄光の残響でしょうか。

対する吉備では前述のように岡山県総社市に宮山古墳が、兵庫県たつの市に吉島古墳が、姫路市に山戸古墳群が築かれます。岡山市東区には3世紀末に浦間茶臼山古墳が現れ、墳丘長は138mもあり、箸墓古墳の半分です。さらに岡山市北区には矢藤治山古墳、また大吉備津彦命の墳墓ともいう墳丘長105mの中山茶臼山古墳が出現します。規模からして吉備の首長級の墓には違いないでしょう。4世紀後半には南東に尾上車山古墳も築造され、この「吉備の中山」が吉備の中心地でした。吉備津神社もここです。ただし前方後円墳ばかりではなく、岡山市中区・備前車塚古墳は3世紀末頃の前方後方墳です。様々な勢力が混在していたのでしょう。

また出雲と吉備・播磨の勢力争いは、『播磨国風土記』では葦原志許乎命と天日槍命の争いとして語られます。天日槍命や都怒我阿羅斯等の放浪は、新羅(辰韓)や加羅(弁韓)から渡って来た人々が北部九州・播磨・但馬・近江などへ移住し、土着の民と争ったことを示すのかも知れません。温羅は吉備津彦命に退治されてしまいますが。

◆桃◆

◆黍◆

今回は以上です。次回はいよいよ近畿に入ります。

【続く】

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