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【つの版】ユダヤの謎19・天啓聖戦

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

東ローマ帝国とペルシア帝国の数十年に及ぶ大戦争は、西突厥と手を組んだ東ローマ帝国の勝利に終わろうとしていました。しかし、両国が疲弊していたところへ、南からアラビア人の軍勢が押し寄せてきます。すなわち、イスラム教徒による大征服が始まったのです。

◆Muhammad◆

◆Avdol◆

使徒誕生

イスラム教は、預言者ムハンマドが唯一神(アッラーフ)の啓示を受けて創始した宗教です。古くは「回教」と漢訳されましたが、これは西域のウイグル人(回鶻)が信仰する宗教と漢人に認識されたからで、正しくは「(アッラーフに)身を委ねること」を意味するアル・イスラームと呼びます。アッラーフが全人類に下した最終啓示による世界宗教であるため、アラビア教でもムハンマド(マホメット)教でもありません。

アッラーフは、アラム語アラーハー、ヘブライ語エローアハ/エール(複数形エロヒム)などと同じく、セム諸語で「強い者」を意味する語から生じたアラビア語です。ウガリットやカナアンの神話では、エールは神々(エロヒム)の王にして父である最高神とされますが、バアルに実権を奪われています。ヤハウェはしばしば「エロヒム」「エル・○○」と呼ばれ(あるいは同一視され)、バアル崇拝者と激しく敵対しました。イスラム教以前のアラビアでもアッラーフは最高神・神々の王にして父として崇められ、メッカでは三柱の女神らを娘ないし伴侶としていたといいます。

西暦570年頃、ムハンマドはアラビア半島西部、紅海と山脈に挟まれたヒジャーズ地方の都市マッカ(メッカ、マコラバ)に生まれました。ペルシアのホスロー2世とほぼ同年で、聖徳太子(574年生まれ)よりやや年上です。この都市には黒い石を御神体とするカアバ神殿があり、「神殿」を意味するアラビア語ミクラーブ(mkrb)を語源としています。アラビア半島の諸部族はカアバを古来聖地とし、多くの巡礼者が訪れて礼拝し、交易を行いました。

彼が生まれた年、東ローマ帝国はエチオピアのキリスト教国アクスム王国を支援してアラビア半島を勢力下に置こうとしており、アクスムはイエメンのヒムヤル王国を支援してマッカを攻撃させました。ヒムヤル軍は戦象を率いてマッカの民を恐れさせましたが、疫病が流行して退散したといい、この年はマッカの民から「象の年」と呼ばれました。

当時のヒジャーズ地方では、様々な部族連合がそれぞれの都市を統治していました。マッカを治めていたのはクライシュ族で、6世紀初頭に族長ハーシムはイエメンとシリアを結ぶ交易路を掌握し、東ローマや周辺諸部族と盟約を結んで大いに富み栄えました。ハーシム家は人口1万人のマッカを支配する有力家系となり、ムハンマドはハーシムの曾孫として生まれています。

ムハンマドの父はアブドゥッラーといいますが、彼が生まれる数ヶ月前に亡くなっており、母アーミナも彼が6歳の時に没したため、ムハンマドは祖父のアブドゥルムッタリブに養育されます。8歳の時に祖父が亡くなると、叔父のアブー・ターリブが保護者となりました。

名門の生まれではありましたが裕福とはいえず、成人すると商人となり、シリアへの隊商交易に参加します。東ローマとペルシアの大戦争も591年には収まり、その情報も各地で見聞したはずですし、戦地からの難民や盗賊にも遭遇したことでしょう。595年、25歳の時に15歳年上の裕福な未亡人ハディージャと結婚し、ようやく生活が安定しました。

ムハンマドとハディージャの間には2男4女が生まれますが、男子は2人とも成人前に亡くなり、保護者で叔父のアブー・ターリブは幼い息子アリーをムハンマドの養子として養育させています。610年に40歳を迎え、人生に悩みを覚えたムハンマドは、暇があるとマッカ北東のヒラー山の洞窟にこもって瞑想にふけるようになりました。

天啓開始

ある夜、瞑想中のムハンマドは突然金縛りにかかり、目の前にたくましい男の姿をした天使が現れます。天使は震え上がるムハンマドの首根っこをひっ掴むと、「イクラー!」と凄んで来ました。これは詩文を「誦(よ)め」という意味で、文字の書いてあるものを読めという意味ではありません。当時のアラビアでは詩文が流行しており、優れた詩人は尊敬されました。

◆893◆

◆天使◆

ムハンマドが涙目で「私は(詩なんて)誦めません」と答えると、天使はムハンマドの首をぎゅうぎゅうと締めつけ、死にそうになったところで解放します。これを三回も繰り返されたので、ムハンマドはすっかり怯え、「あなたは何を誦めとおっしゃるのですか?」と問いかけます。すると天使はアラビア語でこう言いました。

誦め(イクラー)!一滴の凝血(アラク)から人間(インサーン)を創造し給うた、汝の主の御名において!誦め(イクラー)!汝の主は筆(カラム)によって書くことを教え給うた最も尊いお方、人間に未知のことを教え給うたお方であると!

これはアッラーフが大天使ジブリールガブリエル)を通じてムハンマドに啓示した最初の言葉で、聖典『クルアーン(コーラン、読誦するもの)』の「凝血」という章に収録されています。

天使はムハンマドに啓示を告げると、フッと姿を消しました。ムハンマドはわけがわからず、這々の体でヒラー山を駆け下り、自宅に戻ってハディージャの膝に飛びつきます。ガタガタ震える夫をハディージャは布団で覆い、何があったかを聞きました。ムハンマドは事情を話し、「わしは悪霊(ジン)に取り憑かれたのかも知れぬ」と恐れました。

ハディージャはとりあえず彼を寝付かせると、翌朝彼女の従兄弟でネストリウス派キリスト教の修道士であるワラカ・イブン・ナウファルを呼んで相談します。マッカは国際都市なので、いろんな宗教を信じる人々がいました。ワラカはムハンマドの体験を聞いて驚き、こう告げます。

「それは預言者ムーサー(モーセ)が体験したのと同じで、アッラーフが天使を通じて啓示をお授け下さったのじゃ。お前さんは預言者として神に選ばれたのじゃ。これからきっと、お前さんはみんなから嘘つきと呼ばれ、冷ややかに扱われ、追放されて戦いを挑まれるじゃろうて。ああ、わしが生きてその日を見ることができたなら!」

こうしてムハンマドは預言者として自覚し、しばしばヒラー山に赴いて天使から啓示を受けるようになりました。現実的に考えると、ヒラー山に住み着いていた修行僧らに教えを受けたというところでしょうか。妻ハディージャと従弟のアリー、友人のアブー・バクルらが最初の信者となります。しかし3年の間はごく親しい者たちの間にしか教えを説かなかったといいます。啓示の言葉は文字化されず、記憶・暗唱されました。

迫害聖遷

613年頃、ムハンマドは公然とマッカの民に教えを説き始めました。それは「アッラーフの他に神はない、偶像を崇めても無駄だ」「寡婦や孤児や貧しい者を搾取するな、女児の間引きを行うな」「もうすぐこの世の終わりが来るぞ、最後の審判を恐れよ」といったもので、信じる者は天国へ、信じぬ者は地獄(ジャハンナム)へ落ちると唱えます。

説くところはユダヤ教やキリスト教に似ていましたが、イエス(イーサー)は神ではなくアブラハム(イブラーヒーム)やモーセ(ムーサー)のような預言者のひとりであって、ムハンマドは最後の預言者にしてアッラーフの使徒(ラスール)であると自称していました。アッラーフが迷える人類を正しい道へ導くため、彼を地上に遣わしたというのです。

マッカの民は驚き呆れ、「彼は悪霊に取り憑かれたに違いない」と語り合いますが、貧しい民の中には彼を信じる者も現れます。それでも信者(ムスリム・ムスリマ)はせいぜい200人にとどまり、アブー・ターリブも庇護はしたものの改宗はしませんでした。マッカの有力者でムハンマドの叔父アブドゥルウッザー(アブー・ラハブ)は「マッカの神々にけちをつけるのか」と激しく迫害し、ムハンマドも「お前は地獄行きだ」と言い返します。

615年、ムハンマドは信者の一部をエチオピアのアクスム王国へ亡命させ、庇護を求めさせました。「やはり奴らと通じていたか」とクライシュ族は激怒し、ますますムハンマドたちを迫害します。619年、叔父アブー・ターリブと妻ハディージャが相次いで逝去し、ムハンマドは後ろ盾を失い孤立します。叔父のひとりアッバースは甥を庇護したものの、ムハンマドはマッカでの布教に限界を感じ、新天地を求めました。

この頃、マッカの北方500kmに位置する都市ヤスリブでは、アラブ系の2部族とユダヤ教徒の数部族による紛争が続いていました(ユダヤ人は東ローマでは迫害されていたため、結構な数がアラビア半島に移住しており、イエメンのヒムヤル王国にも多くのユダヤ教徒がいました)。ムハンマドはヤスリブの民から「調停者になってほしい」と依頼され、移住を決意します。

マッカの有力者らは、ムハンマドの教団がヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、刺客を放って暗殺を試みます。ムハンマドはアブー・バクルと共に新月の夜にマッカを脱出し、10日かけて無事ヤスリブに到着しました。マッカの信者らも続々とヤスリブに移住し、ヤスリブの住民も彼の教団の協力者(アンサール)となりました。

ムハンマドはヤスリブを「預言者の町(マディーナ・アン=ナビー、略称マディーナ)」と改め、宗教共同体(ウンマ)の首都と定めます。これを聖遷(ヒジュラ、移住)といい、のちにイスラム暦の紀元となりました。

聖戦護教

首領がなにやら神がかっていますが、要は天命を受けたカリスマ首長による新国家の建設です。彼らは都市国家マッカと敵対関係に入り、周辺のベドウィンと同盟したり、マッカの隊商を襲撃したりしながら勢力を広げました。またユダヤ教徒にならってエルサレムの方角へ1日5回礼拝しています。623年にはアブー・バクルの娘アーイシャと再婚しました。

624年、マディーナの兵300人はマッカの隊商を襲撃しますが、マッカは1000の兵を繰り出し、バドルの泉の近くで激戦となります。マディーナ軍は寡兵でしたが信仰心で団結しており、先に付近の泉を埋めてマッカ軍を苦しめ、一騎打ちで敵将を討ち取り、大勝利をおさめました。

マッカ側はこれに対して、マディーナに住むユダヤ教徒を煽動します。カリスマ教祖であるムハンマドに反感を抱いていたユダヤ教徒はこれに乗り、不穏な動きを見せます。マッカはこれに乗じて3000の軍勢を繰り出し、マディーナを攻撃しました。ムハンマドは700人の兵で迎撃しますが、本陣を護っていた弓兵部隊が釣り出されたところを騎兵部隊に襲撃されて大敗を喫し、自らも負傷してウフド山に立てこもります。

どうにかマディーナを奪還したムハンマドは、反乱を起こしたユダヤ教徒らを追放し、礼拝の方角をエルサレムからマッカのカアバ神殿に変えたといいます。敵に向かって礼拝する形になりますが、「マッカを征服してカアバ神殿の偶像を破壊するぞ」という意気込みを見せ、信者らの結束を強めたのです。この戦いで多くの男性が戦死し、寡婦や孤児が増えたため、ムハンマドは「婚資が支払えて平等に扱えるなら、4人まで妻をもってよい」とのアッラーフの啓示を告げています。クルアーンは割と臨機応変です。

627年、マッカは周辺諸部族と同盟して1万人もの大軍を集め、マディーナを攻撃しました。これに対しムハンマドは部下のペルシア人サルマーンの作戦を採用し、マディーナの周囲に塹壕(ハンダク)を掘らせて籠城しました。サルマーンはムハンマドによって奴隷身分から解放され信者となった人で、ペルシア伝統の地下水路による灌漑農法を知っていたのでしょう。

マッカ軍はこれに手こずり、前のようにマディーナのユダヤ教徒を内応させて崩そうとしますが、結局は攻略を諦めて撤退せざるを得ませんでした。勝利を得たムハンマドは、内通したユダヤ教徒のクライザ部族を攻撃して降伏させ、成人男子を皆殺しにし、女子供はすべて奴隷にするという厳しい措置を取ります。これは「敵に通じて味方を裏切った」ためで、友好的・中立的なユダヤ教徒は処罰されていません。また裏切りに対するこの程度の措置はローマもユダヤもやっており、当時では普通です。

マッカのクライシュ族の権威はこの敗戦で低下し、マッカとの同盟を離脱してムハンマドと手を組む部族も現れました。628年、ムハンマドはこの機運に乗じて「巡礼に行く」と告げ、非武装のまま手勢を率いてマッカへ向かいました。クライシュ族はこれを妨害しようとしますが、ムハンマドは近郊のフダイビーヤに駐留して交渉します。使節が何度か往来した末、両者は和議を締結し、ムハンマドは巡礼することなくマディーナへ帰還しました。

神殿巡礼

ムハンマドはマッカ征服を焦ることなく、ナディール部族やハイバル部族を攻撃して服属させ、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒の諸部族も相次いでムハンマドに服従します。この頃には東ローマとペルシアの大戦争も終結しており、ムハンマドは両国へ使節を派遣して国際的な承認を求めます。

629年には2000人の信者を従えてマッカのカアバ神殿へ平和裏に巡礼し、紛争を起こすことなく無事に帰還します。ムハンマドは叔父アッバースの義理の妹マイムーナや、ウマイヤ家のアブー・スフヤーンの娘を娶ってマッカの有力者と和解しました。有能な軍事指導者として彼の名声は大いにあがり、マッカの有力者の中にもイスラム教に改宗する者も現れます。

この頃、シリアのガッサーン王国へ送られた使者が殺害されたため、ムハンマドはザイドを指揮官としてシリアへ軍勢を派遣しました。しかし伏兵に遭ってザイドは戦死し、改宗したばかりの将軍ハーリドが潰走しかけた軍をまとめ上げ、無事に撤退させました。ムハンマドは彼を「アッラーフの剣」と讃えたといいます。このことがイスラム軍によるシリア再侵攻を招きます。

630年、ムハンマド側とマッカ側の遊牧民同士の争いが発端となり、休戦条約は破棄され、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカへ攻め寄せました。マッカは戦わずして降伏し、ムハンマドは数名の多神教徒を処刑しただけでほぼ全員を許します。こうしてマッカを征服すると、ムハンマドはカアバ神殿に祀られていた数百体の偶像を尽く破壊し、黒い石だけを残しました。これよりカアバ神殿はアッラーフのみを祀る聖所となったのです。

ムハンマドはマディーナに凱旋し、アラビア半島の諸部族はこぞって彼に帰伏しました。632年、ヒジュラから10年目、63歳のムハンマドはマッカへの大巡礼(ハッジ)を行い、この時の行いがその後の全ての巡礼者やムスリムの行動の手本となりました。マディーナへの帰還後まもなくムハンマドは体調を崩し、自宅で家族や信者らに見守られながら穏やかに逝去しました。

約束の地に入れずに死んだモーセ、磔刑死したイエスに比べると、ムハンマドは遥かにカチグミとして世を去っています。彼は唯一神の預言者、優れた軍事指導者、国家の建設者として栄光に包まれ、自宅のベッドで死んだのです。遺体は死んだ場所の床を外して埋葬され、簡素な墓が建てられました。死後に復活したり、何か凄い奇跡を起こしたとは伝えられていません。

ムハンマドの死後、ウンマ(イスラム国家)の後継者となったのはアブー・バクルでした。彼は離反した諸部族をまとめあげ、ムハンマドの死後も教団組織・国家組織を存続させます。これによってまとまったエネルギーは、北へ向かって一気に噴出することになるのです。

◆心◆

◆預言◆

【続く】

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