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【つの版】ユダヤの闇03・宗教改革

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

1517年、ザクセン選帝侯領の神学者ルターは贖宥状に対する批判を行い、ドミニコ会の説教師テッツェルとの間に諍いを起こします。両者の論争は当時の政治状況と絡んで大炎上し、欧州を揺るがす戦争を引き起こしました。

◆レペゼン◆

◆ザクセン◆

独逸炎上

ルターは有名な『95ヶ条の論題』に続き、1518年に『贖宥と恩恵とについての説教(免償についての説教)』をドイツ語で刊行・出版しました。もはや各地の聖職者は黙っておれず、カトリック司祭ウィンピーナは「信仰の問題に関して疑問を投げかけることは、フィレンツェ公会議で決定された『信仰の問題に関する教皇の不謬権/不可謬性』への疑問と同じ意味を持つ」と脅しますが、これは反教皇派を勢いづかせ、論争を燃え広がらせただけでした。

ドミニコ会や神学者から「教皇の権威を揺るがす」「フス派に似ている」とレッテルを張られ、誘導尋問にひっかかって公会議主義をも否定してしまったルターは孤立を深めますが、メランヒトンブツァーなど賛同者も続々と集まります。1520年には『ドイツ貴族に与える書』『教会のバビロニア捕囚』『キリスト者の自由』を次々と刊行し、教会の位階制度や聖書に根拠のない秘蹟・慣習を否定、制度や行いではなく信仰によってのみ救われるという持論を展開します。同年末、ついにルターは教皇の回勅を市民の面前で焼き捨て、1521年に破門されました。以後はザクセン選帝侯フリードリヒに匿われ、隠棲しながら新約聖書のドイツ語訳を行います。

同じ頃、スイスのチューリッヒにはツヴィングリが現れ、やはり贖宥状の問題をきっかけにカトリック教会及び教皇と対立しています。ただ教義上の問題でルター派と相容れませんでした。彼はチューリッヒでサヴォナローラじみた神権政治を行い、改革派教会の祖となりました。

一方、ルターの信奉者ミュンツァーは下層階級に教えを説き、聖職者や王侯貴族、金持ちを打倒して財産を共有すべし、という過激思想に傾倒します。彼らはカールシュタットらと結んでヴィッテンベルクで破壊活動を行い、ルターはやむなく姿を現して過激派を糾弾します。ミュンツァーは彼のもとを去って社会革命を企図し、再洗礼派やヨアキム主義といった終末論系カルト思想と結びつき、1524年に農民暴動が起きるとこれに加わります。

ルターは最初こそ暴動を応援していましたが、彼らがルターの説を根拠にして破壊活動を行っており、かつミュンツァーが煽動していると知るや、手のひらを返して「狂犬を撲殺しろ!」と貴族や市民に呼びかけました。農民暴動は30万人もの農民が武装蜂起する戦争に発展し、1525年にミュンツァーらが斬首されて鎮圧されましたが、10万人が犠牲になったといいます。このため、ルター派は南ドイツでの諸侯や民衆の支持を失いました。

ルターは政治的には保守派で、「上に立つ権威に従うべきである」とパウロも説いたように、自分を庇護する世俗の君主には従順でした。教皇やカトリック教会には批判的で、万人が祭司となると言ったにせよ、民衆が煽動に乗って暴走しやすいものである以上、やはり監督する者は必要です。彼は各地のルター派諸侯の間を回りながら「領邦教会」の設立を進め、カトリックの司教に相当する監督を置き、教区内の牧師の任免権を与えました。

1527年、スウェーデン国王グスタフ・ヴァーサがルター派を国教とし、カトリック教会から離脱します。彼は国土の4分の1を占めていたカトリック教会の土地を没収し、王家の財産として中央集権を進めたのです。デンマーク・ノルウェー連合王国にもルター派は広まり、王子クリスチャン3世はルター派に改宗しました。彼はルター派諸侯の力を得て1536年に即位しています。

1531年、ザクセン選帝侯、ヘッセン方伯らドイツのルター派諸侯はシュマルカルデン同盟を結び、神聖ローマ皇帝とローマ教皇に反旗を翻します。これにはブレーメン、マクデブルク、ストラスブールなど有力な自治都市も参加しており、ザクセン公やブランデンブルク選帝侯も加わります。オスマン帝国の襲来もあり、皇帝は彼らに強く出ることができませんでした。

ヴェンツェルやジギスムントに裏切られたフスとは違い、ルターはこれだけの勢力を築き上げたのです。当時の政治状況のせいであり、彼にはムハンマドめいた独立宗教国家を建設する気はありませんでしたが、ルターが発端となった宗教改革は欧州全土に飛び火しました。彼らは皇帝や教皇に逆らう者として、「プロテスタント(抵抗者)」と呼ばれるようになります。

反猶太論

さて、ルターとユダヤ人・ユダヤ教について見ていきましょう。彼の活動が始まる少し前、ドイツではドミニコ会のプフェファーコルンによる反ユダヤ運動が盛んでした。彼は1505年にユダヤ教から改宗した人物で、ケルンのドミニコ会修道院に仕え、多数の反ユダヤ・プロパガンダを記したパンフレットを出版したのです。

彼は、ユダヤ人に高利貸しの悪習をやめ、キリスト教の説教に出席し、タルムードを捨ててキリスト教に改宗すべきである、と説きました。また当初は「ユダヤ人を迫害するのは、彼らの改宗を妨げることだ」と非難しており、「血の中傷」もデマであるとしていました。ところが別のパンフレットでは「ユダヤ人はキリスト教徒の殺害を善行とする悪党だ、彼らを追放せよ」「タルムードを焼却し、聖書以外の書物を取り上げろ」「ユダヤ人の子供を親から切り離してキリスト教徒の教育を受けさせるべきだ」といった、典型的な反ユダヤの論説が並べ立てられています。

当時のドミニコ会といえば、異端弾圧で有名です。1474年に異端審問官に任命されたクラーマーは1486年に『魔女に与える鉄槌』を出版していますし(非道行為をやりすぎて当時ですら非難されましたが)、1478年にはスペインでトルケマダが異端審問官とされ、元ユダヤ人の改宗者(コンベルソ)を弾圧しています。フィレンツェのサヴォナローラもドミニコ会ですが、彼は教皇の腐敗を非難したので、どちらかというとルター側でしょうか。

1509年から、プフェファーコルンらはドイツ国内でのユダヤ教の書物の焚書を皇帝マクシミリアン1世に進言し、賛同を得ました。このことは国際的な議論を呼び、ユダヤ教研究の権威である人文学者(ユマニスト)のロイヒリンらとプフェファーコルンらの間で激論が交わされています。

プフェファーコルンによるユダヤ教弾圧は、スペインの異端審問の影響もあるでしょうが、おそらくは皇帝の支援者であったフッガー家の差し金です。フッガー家はバイエルンのアウグスブルクに拠点を持ち、ヴェネツィアなど北イタリアとの交易で財をなしました。彼らはヴェネツィアで複式簿記を学び、南ドイツの銀鉱山やシレジアの金鉱山を買い占め、諸侯に莫大なカネを貸して様々な特権を得、1511年には神聖ローマ帝国の貴族に成り上がっています。メディチ銀行が破綻した今、欧州最大の金融業者はフッガー家です。

彼らの商売敵が「高利貸し」のユダヤ人、それも宮廷ユダヤ人(ホフユーデン)と呼ばれる人々でした。彼らは上流階級に資金の貸付を行って様々な特権を獲得し、地域のユダヤ人社会を庇護するなど社会的影響力を持っていました。しかし例によって王侯貴族の都合でちょくちょく弾圧され、借金をチャラにされたりするのも相変わらずでした。フッガー家が成り上がる過程において、こうした連中が邪魔になったのでしょう。なおフッガー家自身が元ユダヤ人、というわけではないようです。

さておき、ルターにとってもドミニコ会は敵ですから、彼らに迫害されていたユダヤ人は敵の敵です。活動当初のルターはユダヤ人に「イエスの同族である」として好意的に接し、反教皇のプロパガンダに活用しました。1523年には「ユダヤ人は同族のメシアであるイエスに敬意を表し、キリスト教に改宗するべきである」とのパンフレットを出版しています。

しかしユダヤ人のルター派への改宗者はごくわずかで、ほとんどがユダヤ教に回帰したため、1530年代にはユダヤ人を嫌悪するようになります。彼が尊敬するパウロもキリスト教に改宗したユダヤ人で、ユダヤ人に対して盛んに論駁していますし、キリスト教の起源自体がユダヤ教主流派に対する改革運動なので仕方ありません。ムハンマドもそうと言えばそうですが。

1543年、ルターは『ユダヤ人と彼らの嘘について』というヤバい書物を出版します。「シナゴーグやイェシーバー(ユダヤ教の学校)、ユダヤ人の家を破壊せよ。やつらを追放し、バラックや馬小屋へ移住させろ」「ユダヤ教の書物を没収し、ラビによる伝道をやめさせろ」「高利貸し業を禁止し、財産を没収しろ。若いユダヤ人に額に汗して働くことを強制せよ」といった典型的な反ユダヤ主義の主張が並べ立てられ、目を覆う程の悪罵が投げかけられています。年を食ってだいぶ気難しくなっていたのでしょうか。

メランヒトンら協力者らも流石にルターの反ユダヤ主義を諌めていますが、数カ月後にルターは『口にもしたくないあの名について(フォン・シェム・ハ・メフォラシュ)』という冊子を著し、ユダヤ人を悪魔の使い、呪われた敵と罵った末「もう関わりを持ちたくないし、彼らに対して何も書かない」と書きました。1546年に亡くなる4日前の最後の説教ですら「ドイツ全土からユダヤ人を追放せよ」と訴えています。

プロテスタントはカトリックに比べて反ユダヤ的傾向が強いとされますが、これは教義上の問題というより経済的な理由で、ユダヤ人がプロテスタントの金融業者にとって商売敵になったからのようです。

神権政治

ルター派と袂を分かったツヴィングリは1531年に戦死し、跡を継いだブリンガーはチューリッヒにとどまりますが、影響力はツヴィングリほどではありませんでした。やがてフランスから亡命したカルヴァンがスイスのジュネーヴに現れ、改革派教会による神権政治を30年に渡って続けています。

1530年代初め頃、ルター派の説教師メルキオール・ホフマンが北ドイツや北欧で活動し、独自の終末論を唱えます。彼は「1533年に終末が訪れ、キリストが再臨する!」と叫んで信者を集めますが(メルキオール派)、特に何も起きませんでした。彼が投獄されると、信者の中の過激派は「武力によって地上に千年王国を築こう!」と唱え、ハプスブルク家の支配下にあったネーデルラント(オランダ)出身のヤン・マティアスを指導者とします。

彼はアムステルダムで預言者を名乗り、各地に弟子たちを派遣し、再洗礼派のロートマンが占拠しようとしていた北西ドイツのミュンスターへ大挙して駆けつけます。そしてルター派やカトリックを市内から追放し、反対派を粛清し財産を没収しますが、1534年4月に帝国軍に殺されました。マティアスの跡を継いだボッケソンは12人の長老を任命して籠城を指揮し、「新エルサレムの王」を名乗って市内で恐怖政治を敷きますが、1535年6月にミュンスターは陥落し、ボッケソンら再洗礼派の多くは殺されました。

再洗礼派のうち、オランダ人のメノ・シモンズに率いられた一派はメノナイト、モラヴィア(チェコ東部)のヤーコプ・フッターに率いられた一派はフッタライトとなりました。メノナイトはオランダやスイス、ドイツなどに分散しており、アーミッシュもその分派のひとつです。

一方、1534年にイングランド王ヘンリー8世は教皇権から独立し、国王を教会の首長とするイングランド国教会を設立しました。これは教皇がヘンリーの離婚を認めなかったからという甚だ世俗的な理由からですが、これによって国内の聖職者は国王に従属し、修道院の財産などが没収され、中央集権が進みました。ただし教義上はルター派でもカルヴァン派でもなく、カトリックと同じく聖職者の位階があり、典礼上もほぼ同じです。聖職者が国家を統治する神権政治になったわけでもありません。

こうして16世紀前半、ローマ・カトリック世界は分裂し、教皇の権威は欧州北方には及ばなくなりました。カトリック教会に入るカネもごっそり減りますし、神聖ローマ皇帝の権威もガタ落ちです。カトリック勢力は巻き返しを図り、長きにわたるプロテスタント勢力との戦いが始まりました。

◆Till I◆

◆Collapse◆

【続く】

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