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【つの版】ウマと人類史23・漢光郷侯

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 秦漢から魏にかけて、匈奴や烏桓・鮮卑は長城の内外に居住し、遊牧生活を送る傍ら、交易や掠奪を行っていました。定住民には迷惑ですが、彼らのもたらす家畜や毛皮、異国の珍しい物はもてはやされ、遊牧民の方でも絹を始めとする珍しい品物を獲得するために活動しています。やがて彼らは互いに混じり合い、新しい社会を生み出すことになります。

◆僕らまだ◆

◆アンダーグラウンド◆

匈奴劉豹

 西暦251年、政敵を粛清して魏の実権を握っていた司馬懿は72歳で世を去ります。偶然にも同じ頃、幷州の南匈奴の王族に男子が生まれました。これが司馬懿の子孫の西晋朝を滅ぼす匈奴漢朝の建国者・劉淵です。

 彼については、唐初に編纂された『晋書』劉元海載記(唐の高祖李の諱を避けて字の元海で表記)が最も詳しいですが、相当に伝説化していて怪しいものです。北斉で書かれた『魏書(北魏の史書)』では、「匈奴劉聡伝」に付随して、その父・劉淵の伝を簡略に記すのみです。こちらの方が古いでしょうから、先に見てみましょう。

 匈奴劉聰、字玄明、一名載、冒頓之後也。漢高祖以宗女妻冒頓、故其子孫以母姓為氏。祖豹為左賢王。及魏分匈奴之眾為五部、以豹為左部帥。豹雖分屬五部、然皆家于晉陽汾澗之濱。父淵、形容偉壯、膂力過人。晉初為任子、在洛陽。豹卒、淵代之。後改帥為都尉、以淵為北部都尉。
 匈奴の劉聡は、字を玄明、一名を載といい、冒頓単于の子孫である。漢の高祖(劉邦)は一族の女子を冒頓の妻とし、ゆえにその子孫は母の姓(劉)をもって氏とした。祖父の劉豹は左賢王となった。魏が匈奴の衆を五部に分けると、劉豹は左部帥となった。彼は五部に分属していたが、みな晋陽(山西省太原市)の汾水・澗水のほとりに暮らしていた。劉聡の父の淵は、容貌魁偉で、膂力は人並み外れて優れていた。晋の始めに任子(朝廷の人質)となり、洛陽に滞在した。劉豹が亡くなると劉淵が代わって立った。のちに帥を都尉と改め、劉淵は北部都尉となった。

 生まれた年すらわかりませんが、劉淵の父は劉豹のようです。これは晋書でも同じですが、やや問題があります。劉豹は『三国志』魏志鄧艾伝に、この頃(251年頃)右賢王として匈奴を治めていたとあり、「去卑の子は功績を引き継いでいないから雁門郡に立てて匈奴を鎮めるべし」と鄧艾が提言しています。ならば呼廚泉の時に右賢王であった去卑はすでに逝去しており、劉豹は去卑の子ではありません。また単于呼廚泉は216年以来匈奴の地を去って都で貴族として暮らしており、匈奴には単于がいませんでした(名目的な単于はいたらしく、魏晋交替の時に南匈奴単于が列席しています)。

 呼廚泉の兄・於夫羅は195年頃に46歳で没したといいますから150年頃の生まれで、呼廚泉が155年頃の生まれとしても40歳で跡を継いでおり、漢魏革命の220年には55歳です。251年には100歳近く、生きている可能性は低いでしょう。劉豹は於夫羅の子ともされ、蔡文姫を娶った匈奴の左賢王とも同一視されますが、『後漢書』列女伝には劉豹の名がなく、年代的にも別人でしょう。251年に30歳とすると漢魏革命頃の生まれで、於夫羅や呼廚泉の世代です(血の繋がりは明らかでありませんが)。よしんば195年に於夫羅の子として劉豹が生まれていても、251年には56歳の老人です。

 於夫羅や呼廚泉が劉氏を名乗っていないのに、劉豹が名乗っているということは、漢代にはまだ劉氏を名乗っておらず、魏代に名乗り始めたのでしょう。『三国志』魏志孫礼伝によると、西暦240年代中頃に幷州で活動していた「匈奴王」に劉靖なる者がおり、勢力が強く盛んで、鮮卑とともにしばしば魏の国境を荒らしていたといいます。彼と劉豹・劉淵の関係は明らかでありませんが、すでに劉氏を名乗る匈奴王が存在したのです。

劉淵誕生

 では、晋書の方を見ていきましょう。

 劉元海、新興匈奴人、冒頓之後也。名犯高祖廟諱、故稱其字焉。初、漢高祖以宗女為公主、以妻冒頓、約為兄弟、故其子孫遂冒姓劉氏。建武初、烏珠留若鞮單于子、右奧鞬日逐王比、自立為南單于、入居西河美稷、今離石左國城即單于所徙庭也。
 劉元海は、新興(幷州新興郡、南匈奴北部、山西省忻州市五台県)の匈奴人で、冒頓単于の子孫である。名は(唐の)高祖の諱を犯すので、(ここでは)あざなで呼ぶ。漢の高祖は冒頓に一族の女子を公主として娶らせ、和約して兄弟となった。ゆえにその子孫は劉氏を勝手に名乗るようになった。(後漢の光武帝の)建武の初め頃、匈奴の日逐王の比が自立して南単于となり、西河郡美稷県(内モンゴル自治区オルドス市ジュンガル旗)に居住した。今の離石県(山西省呂梁市離石区)の左国城は、のちに南単于が遷ってきて庭(単于庭、宮廷)としたのである。
 中平中、單于羌渠使子於扶羅將兵助漢、討平黃巾。會羌渠為國人所殺、於扶羅以其眾留漢、自立為單于。屬董卓之亂、寇掠太原、河東、屯於河內。於扶羅死、弟呼廚泉立。以於扶羅子豹為左賢王、即元海之父也。
 中平年間(184-189年)、単于の羌渠は子の於夫羅に兵を率いさせて遣わし、漢を助けて黄巾賊を討伐させた。羌渠が国人に殺されると、於夫羅たちは漢にとどまり、自立して単于となった。董卓の乱に乗じて太原・河東を劫略し、河内に駐屯した。於夫羅が死に、弟の呼廚泉が立った。彼は兄於夫羅の子(孫?)の豹を左賢王としたが、これが元海の父である。
 魏武分其眾為五部、以豹為左部帥、其餘部帥皆以劉氏為之。太康中、改置都尉、左部居太原茲氏、右部居祁、南部居蒲子、北部居新興、中部居大陵。劉氏雖分居五部、然皆居於晉陽汾澗之濱。
 魏の武帝(曹操)は(216年頃)匈奴を五部に分け、豹を左部帥とし、その他の部帥はみな劉氏とした。(晋の)太康年間(280-289年)、(帥を)改めて都尉を置き、左部は太原郡茲氏県(呂梁市汾陽)、右部は太原郡祁県(晋中市祁県)、南部は平陽郡蒲子県(臨汾市隰県)、北部は新興郡(忻州市五台県)、中部は太原郡大陵県(呂梁市文水県)にあった。劉氏は五部に分居したが、みな晋陽(太原市)の汾水・澗水のほとりに暮らしていた。

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 南匈奴は河套地域からも追い出され、山西省に割拠して、牧畜や農耕、狩猟などで生計を立てていました。春秋時代にもこのあたりには「狄」が割拠し、晋公や貴族らと姻戚関係にあったことが伝わっています。その頃の姿に戻ったわけですね。その後も山西省はこうした勢力がよく割拠します。

 豹妻呼延氏、魏嘉平中祈子于龍門、俄而有一大魚、頂有二角軒鬐、躍鱗而至祭所、久之乃去。巫覡皆異之曰「此嘉祥也。」其夜夢旦所見魚變為人、左手把一物、大如半雞子、光景非常。授呼延氏曰「此是日精、服之生貴子。」寤而告豹、豹曰「吉征也。吾昔從邯鄲張冏母司徒氏相、雲吾當有貴子孫、三世必大昌、仿像相符矣。」自是十三月而生元海、左手文有其名、遂以名焉。
 劉豹の妻は呼延氏(匈奴王家の姻族)である。魏の嘉平年間(249-254年)、彼女は子供を授かりたいと龍門(山西省運城市河津の龍門山)で祈った。するとにわかに川(黄河)から大魚が現れ、その頭に二本の角があって髻のごとく、躍り上がって祭壇に至り、しばらくして去った。巫覡(シャーマン)はみなこれを吉祥だとした。また彼女はその夜に夢を見たが、あの魚が変じて人となり、左手に鶏卵の半分ほどの大きさの物を持っていた。彼は呼延氏にそれを授け、「これは日の精だ。飲めば貴い子を生むであろう」と告げた。彼女が目を覚まして夫に告げると、彼は「それは吉兆だ。むかし邯鄲の張冏の母に人相を見てもらった時、『あなたの子孫は貴くなり、三代もすれば必ず大いにさかえる』と言われた」と答えた。それから十三ヶ月が経って、呼延氏は男児を生んだ。左手には「淵(元)」という文字があったので、これを名とした。

 鮮卑の檀石槐、夫余の東明王、殷商の契や嬴姓の伯益とよく似た異常出生譚です。日光によって子を孕むタイプの話は古今東西にありますし、漢の高祖劉邦は赤龍の子と言われました。また掌に文字があって名としたというのは、周の武王の子で唐(晋)に封建された唐叔虞(子于)の伝説そのままです。掌線は虞や淵のように複雑ではありませんが、おそらく于や元のように見えたのでしょう。ただ漢は火徳であるのに対し、淵・元海だと水徳になりますが、五行では水が北方に配されるのでそうなったのでしょうか。劉備も字が徳で北方の涿郡出身でしたし、まあいいでしょう。

文武両道

 齠齔英慧、七歲遭母憂、擗踴號叫、哀感旁鄰、宗族部落咸共歎賞。時司空太原王昶聞而嘉之、並遣吊賻。幼好學、師事上党崔游、習毛詩、京氏易、馬氏尚書、尤好春秋左氏傳、孫吳兵法、略皆誦之。史漢諸子、無不綜覽。
 劉淵は幼い時から聡明であった。7歳の時に母が亡くなると、大いに嘆き悲しんだので、近隣の人々は感動して褒め称えた。時に太原郡出身の王昶(259年没)は魏の司空(法務大臣)であったが、これを聞いて称賛し、人を遣わして弔問させた。また劉淵は幼くして学問を好み、上党郡(山西省長治市)の崔游に師事して、毛詩・京氏易・馬氏尚書などを習った。もっとも好んだのは春秋左氏伝と孫呉兵法で、おおかた諳んじることができた。史記や漢書、諸子百家など、通覧しないものはなかった。

 匈奴の王族ではありますが、彼はすっかり漢の文化を身に着け、儒教的な孝行や学業に精を出していたようです。漢の皇族に準じる名門貴族として、成り上がりには負けないぞ、という意気込みを感じさせます。王昶など名士にも認められ、箔付けや人脈もバッチリです。唐初に編纂された晋書のことですからどこまで本当かわかりませんが、唐も山西省から興っていて高祖が李淵ですし、劉淵と彼を重ね合わせて持ち上げているのかも知れません。

 嘗謂同門生硃紀、範隆曰「吾每觀書傳、常鄙隨陸無武、降灌無文。道由人弘、一物之不知者、固君子之所恥也。二生遇高皇而不能建封侯之業、兩公屬太宗而不能開庠序之美、惜哉!」於是遂學武事、妙絕於眾、猿臂善射、膂力過人。姿儀魁偉、身長八尺四寸、須長三尺餘、當心有赤毫毛三根、長三尺六寸。有屯留崔懿之、襄陵公師彧等、皆善相人、及見元海、驚而相謂曰「此人形貌非常,吾所未見也。」於是深相崇敬、推分結恩。太原王渾虛襟友之、命子濟拜焉。
 かつて劉淵は同門生の硃紀と範隆にこう言った。「私はいつも書物を読んでいるが、文武両道を兼備してこそ大きな功業を挙げ、封侯(大名)となることができよう」云々。そこで劉淵は武芸を学び、弓術は常人の及ばぬほどの達人となった。また容貌魁偉で、身長は8尺4寸(1尺23cmとして193cm)もあった。彼のアゴヒゲの長さは3尺(70cm)余り、その中心に赤く細い毛が3本あって、他のヒゲより6寸(13.8cm)長かった。屯留(長治市屯留区)の崔懿之、襄陵(臨汾市襄汾県)の公師彧らは人相見に通じていたが、劉淵を見て驚き、「こんなすごい人は見たことがない」と言い合った。そこで彼と深く崇敬しあい、恩義を結んだ。太原郡の王渾(王昶の子)は虚心坦懐に劉淵と付き合い、子の王済を引き合わせて友人とさせた。

 容貌魁偉で膂力に優れていたというのは『魏書』にもあるところですが、背が高くアゴヒゲが長く文武両道というのですから、ほとんど関羽めいています。関羽は河東郡解県(山西省運城市塩湖区)の出身で、幷州からは南に行けばすぐです。なんか関係があるのでしょうか。しかし彼が付き合う人はみな幷州(山西省)の出身者ばかりで、地元の英雄というところでしょう。

晋朝任子

 咸熙中、為任子在洛陽、文帝深待之。泰始之後、渾又屢言之于武帝。帝召與語、大悅之、謂王濟曰「劉元海容儀機鑒、雖由餘、日磾無以加也。」濟對曰「元海儀容機鑒、實如聖旨、然其文武才幹賢於二子遠矣。陛下若任之以東南之事、吳會不足平也。」帝稱善。
 魏の咸熙年間(264-265年)、任子(朝廷の人質)となって洛陽へ行き、文帝(晋の文王・司馬昭)に深く期待された。(魏晋革命後の)泰始年間(265-274)の後、王渾はしばしば武帝(司馬炎)に劉淵を推薦した。武帝は劉淵を召し出して語り合うと大いに喜び、王済に「彼の容貌や礼儀正しさは、由余(秦に仕えた西戎の賢者)や金日磾(漢に仕えた匈奴の忠臣)でも及ぶまい」と告げた。王済は「まことに仰せの通りですが、文武の才能は彼らよりも遥かに優れています。陛下がもし東南(孫呉)の事をお任せなさいますれば、平定するのは容易いことです」と答え、武帝は称賛した。

 王渾はこの頃、安東将軍・持節・都督揚州諸軍事、すなわち対呉方面の総司令官でした。彼は地元出身で名門王族の劉淵を推挙し、孫呉討伐に活用しようとしたのです。しかし晋の天子は彼を「蛮夷」にしては優れた人物だとみなし、中央の人材としては扱いませんでした。

 孔恂、楊珧進曰「臣觀元海之才、當今懼無其比、陛下若輕其眾、不足以成事。若假之威權、平吳之後、恐其不復北渡也。非我族類、其心必異。任之以本部、臣竊為陛下寒心。若舉天阻之固以資之、無乃不可乎!」帝默然。
 孔恂楊珧が進言した。「彼の才能は実際無比です。陛下がもし彼とその部族(匈奴)を軽んじるならば、事は成りますまい。もし彼に兵権を授ければ、孫呉平定ののち、おそらく(自立して)北に戻ることはないでしょう。彼は我が族類ではない(異民族)のですから、必ず異心があります。これに本来の部族を任せるのも、私は陛下のために恐れます。もし天険の地を獲得すればよろしくありません」武帝はこれを聞いて沈黙した。

 孔恂は魯国曲阜の人で孔子の末裔であり、父の孔乂は曹魏に仕えました。楊珧は漢の名臣楊震の末裔にあたり(弘農楊氏)、従姉の楊艶と姪の楊芷はともに武帝司馬炎の皇后となっています。ともに超がつく名門貴族であり、劉淵の出世を阻む役どころを与えられたわけです。271-272年には南匈奴の部帥(右賢王か)の劉猛が晋に反乱を起こしていますから、彼らの心配も理由がないことでもありませんが。

 後秦涼覆沒、帝疇咨將帥、上党李憙曰「陛下誠能發匈奴五部之眾、假元海一將軍之號、鼓行而西、可指期而定。」孔恂曰「李公之言、未盡殄患之理也。」憙勃然曰「以匈奴之勁悍、元海之曉兵、奉宣聖威、何不盡之有!」恂曰「元海若能平涼州、斬樹機能、恐涼州方有難耳。蛟龍得雲雨、非復池中物也。」帝乃止。
 のち秦州・涼州(甘粛省)で兵乱が起きると(禿髪樹機能の乱)、上党の李憙は「劉淵を将軍とし、匈奴五部の衆を率いて西を征伐させれば、必ず乱は収まるでしょう」と進言した。すると孔恂は「いけません。劉淵が涼州を平定して樹機能を斬れば、彼によって兵難が起きるだけです。蛟龍が雲雨を得れば、池の中に戻りはしません」と説いたので、沙汰止みとなった。

800px-西晉時期北方各族分布圖

 樹機能は禿髪部の族長で拓跋部の分派ともいい、河西鮮卑を統率していました。270年に秦州刺史、271年に涼州刺史を討ち取り、277年には一旦服属したものの、279年に再び反乱を起こしています。劉淵が251年生まれとすれば279年にはもう28歳ですが、彼は故郷である匈奴の地にも戻れず、洛陽で飼い殺し状態となっていたのです。樹機能は279年12月に殺されて乱は平定され、280年3月には孫呉も平定されて、晋が天下を統一しました。

 後王彌從洛陽東歸、元海餞彌于九曲之濱。泣謂彌曰「王渾、李憙以鄉曲見知、每相稱達、讒間因之而進、深非吾願、適足為害。吾本無宦情、惟足下明之。恐死洛陽、永與子別。」因慷慨歔欷、縱酒長嘯、聲調亮然、坐者為之流涕。齊王攸時在九曲、比聞而馳遣視之、見元海在焉、言於帝曰「陛下不除劉元海、臣恐并州不得久寧。」王渾進曰「元海長者、渾為君王保明之。且大晉方表信殊俗、懷遠以德、如之何以無萌之疑殺人侍子、以示晉德不弘。」帝曰「渾言是也。」
 のち王彌が洛陽から東(故郷の東莱郡、山東省煙台市)へ帰ろうとすると、劉淵は送別の辞を述べ、「同郷の人々が推挙してくれるが、妨害されて用いられない。このまま洛陽で死ぬのを恐れる」と嘆きました。斉王司馬攸はこれを聞き「劉淵を除かねば幷州で騒乱が起きましょう」と進言したが、王渾は「劉淵は長者(有徳の人)で、王佐の才があります。かつ大晋は遠方の異民族を徳義で懐けていますのに、あらぬ疑いをかけて人質を殺すのは徳義に悖ります」と説いた。武帝は「もっともだ」と言った。

 王彌(王弥)は魏晋に仕えた王頎の孫にあたり、代々高官を輩出した名門でした。のち晋へ乱を起こし劉淵に仕えたため伏線めいています。司馬攸は武帝の弟で、英明でしたが283年に若くして亡くなりました。どちらも実際劉淵とこの頃に繋がりがあったかはわかりません。小説的ですね。

漢光郷侯

 會豹卒、以元海代為左部帥。太康末、拜北部都尉。明刑法、禁奸邪、輕財好施、推誠接物、五部俊傑無不至者。幽冀名儒、後門秀士、不遠千里、亦皆遊焉。
 父・劉豹が死去したので、劉淵は代わって左部帥に任命された。太康の末年(289年)に北部都尉に任じられた。彼は刑法を明らかにし、よこしまを禁じ、財物を軽んじて施しを好み、誠意をもってことに当たったので、五部匈奴の俊英・豪傑のうち彼のもとを訪れぬ者はなかった。また幽州や冀州の名高い儒者や後輩の秀でた者たちも、千里の道を遠しとせずにやってきた。

 280年を過ぎた頃、三十路を迎えた劉淵は、父の死によってようやく匈奴の地へ戻りました。劉豹を221年頃の生まれとすれば60歳頃で、年齢に不足はありません。魏書では「豹卒、淵代之。後改帥為都尉、以淵為北部都尉」とあっさりしていますが、晋書では彼を英雄として描くため、いろいろ潤色を施しています。左部帥や北部都尉と言っても、単于はいませんから事実上の単于代行で、幷州の五部匈奴(南匈奴)は彼に従ったのです。とはいえ晋に反乱を起こす気はなく、自らの領国を保つだけでした。

 楊駿輔政、以元海為建威將軍、五部大都督、封漢光鄉侯。
 楊駿が政治を輔佐するようになると、劉淵は建威将軍・五部大都督に任命され、漢光郷侯に封じられた。

 楊駿は楊珧の兄で、武帝の外戚にあたります。武帝は孫呉の平定以後、酒色に溺れて政治を顧みなくなり、楊駿は弟たちとともに政治を壟断します。290年に武帝が崩御すると、子の司馬衷(恵帝)が即位しますが、生まれつき暗愚なうえ甘やかされて育ったのでどうしようもなく、母の実家の楊氏に政治を全部委ねます。楊駿は恵帝を傀儡として専権を振るいますが、味方が少ないのを気にしてはおり、爵号を濫発して手懐けようとしました。劉淵の称号もその程度のものです。しかし五部大都督として五部匈奴全ての支配者と公的に認められ、「漢光郷侯」に封じられたのは大事です。

 漢光郷とはどこかわかりませんが、劉淵が劉氏で漢の皇統を(母方で)継ぐ者と見なされていたことを意識したのでしょう。「光」とは跪いた人が火をおしいただく象形で、あまり使われませんが「引き継ぐ」という意味があります。漢を中興した劉秀は「光武帝」の諡号を献じられましたが、その光です。漢魏革命から70年、蜀漢滅亡から25年しか経っておらず、献帝劉協の子孫は山陽公として敬意を払われていましたし、劉備の子孫も魏晋で郷侯に封じられています。劉淵も劉備の子孫と同列に扱われたのです。

 しかし楊駿は群臣に嫌われており、恵帝の皇后・賈南風は皇族や群臣と手を組んでクーデターを起こすと、楊駿とその一派を誅殺しました。彼女は反対派を粛清すると張華ら賢者に政治を委ね、晋朝は安定を取り戻します。

 劉淵も楊駿派というわけでもないため粛清はされず、建威将軍・五部大都督・漢光郷侯として幷州の五部匈奴を統治します。このまま平和が続けばよかったのですが、時流は再び乱世に向かっていました。

ROSSO

Outsider

【続く】

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