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【つの版】ウマと人類史10・新騎襲来

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 前334年から前324年にかけて、マケドニアのアレクサンドロス大王はペルシア帝国全土を蹂躙し、バルカン半島からインダス川流域に至る広大な版図を征服しました。しかし前323年に彼が崩御すると、大帝国は後継者たちの争いで四分五裂となります。この頃、騎馬遊牧民たちはどうしていたのでしょうか。西から順に見ていきましょう。

◆Go◆

◆West◆

新騎襲来

 前339年にスキタイの王アタイアスがマケドニア王フィリッポスに討ち取られた後、黒海北岸のスキティアは混乱に陥り弱体化します。それでもすぐに崩壊はせず、アレクサンドロスの東征中にはトラキアを襲撃してマケドニア兵を打ち破ったりしました。またマケドニア王国のトラキア総督ゾピュリオンはドナウ川を越えてスキティアに侵攻し、オルビアを包囲しました。オルビアは一丸となって籠城し、スキタイの援軍により撃退しています。

 この頃、黒海北岸のギリシア系都市国家は連合して「ボスポロス王国」となり、支配領域を拡大していました。彼らはスキティアとギリシア本土との貿易を一手に握っていましたから、マケドニアの支配に反発したギリシア人やスキタイと手を組んだのでしょう。マケドニアとしてもスキタイを追いかけるよりは、都市という動かない拠点を囲む方がやりやすいわけです。

 前311年頃、ボスポロス王パリュサデスが逝去すると、長子サテュロスと弟エウメロスの間で王位継承争いが起きました。サテュロスにはギリシアやスキタイ、トラキアの傭兵が味方しましたが、エウメロスはタマン半島のシラケスという部族連合に援軍を要請し、黒海北岸は東西に二分されます。これは北カフカースのチェルケス人の先祖ともされ、ヴォルガ川を渡って東から到来したサルマタイ(シュルマタイ)という騎馬遊牧民の一派でした。ドン川からヴォルガ川に及ぶ勢力を持っていたサウロマタイとの関係は不明ですが、ウラル川流域にいた連中らしく、次第にサウロマタイの文化圏を呑み込んで西方へ移動していったことが考古学的に確かめられています。

 前310年、サテュロスはギリシア傭兵、スキタイの騎兵と歩兵、トラキア軽装歩兵の混成部隊を率いてケルチ海峡を渡り、エウメロスらの軍勢と対峙しました。エウメロスとシラケス王アリファルネスは2万の騎兵と2万2000の歩兵を率いて迎え撃ちます。どちらも騎兵が戦列中央で向かい合い激突しますが、この戦いではスキタイ騎兵の突撃がシラケスの騎兵を撃破し、エウメロスは敗走しました。しかしサテュロスは別の戦いで戦死し、末弟プリュタニスが王位を継ぎます。エウメロスはこの末弟を攻撃して倒し、ついに王位を奪い取りました。この時、サテュロスの子パリュサデス2世はスキタイ王アガロスのもとに身を寄せますが、王位奪還は成りませんでした。

 この頃、バルカン半島北西部にはケルト人が来ていました。彼らは中欧を拠点としてヨーロッパ各地へ拡散し、南はイベリアやイタリア、西はポーランド南部やウクライナ、ハンガリーまで広がっていました。前387年頃には都市国家ローマを一時占領したことすらあります。前335年、ケルト人はマケドニア王アレクサンドロスに使者を遣わし、トラキア人との戦いに協力を申し出ています。

 アレクサンドロスの死後、後継者たちが覇権を争い始めると、ケルト人はこの機に乗じて勢力を伸ばします。前310年、ケルトの将軍モリストモスはバルカン半島西部のイリュリアに侵入し、ダルダニア(現セルビア)やパイオニアなどを征服しようとしますが、ダルダニア人に敗れて撤退しました。前298年にはトラキアとマケドニアへ攻め込みますが、マケドニア王カッサンドロスに打ち破られます。しかしケルト人の侵入はやまず、前279年にはコモントリオスとブレンノス率いる部族がトラキアに押し寄せ、現ブルガリア北部のテュリスに首都を置いて周辺諸国に貢納を求めました。翌年にはビュザンティオンから小アジア側に渡って現アンカラ周辺の内陸部を征服し、ガラティア王国を建国しています。

 ケルト人はスキティアにも侵攻し、オルビアなどの都市を脅かしました。サルマタイは彼らと争いつつ勢力を広げていきます。前3世紀末にはサルマタイの部族サイオイの王サイタファルネスがオルビア周辺に駐屯し、貢納を求めています。スキタイのシマに手を突っ込んできたわけです。

 2世紀の歴史家ポリュアイノスによると、この頃のサルマタイの王はメドサッコスといい、贅沢に耽り酒浸りでした。彼の妻アマゲは腑抜けた夫より勇敢で、自ら敵の侵入を防ぎ、周辺国と同盟を結んで名を挙げました。ある時タウリケの都市ケルソネソスがスキタイに包囲され、サルマタイに救援を要請したので、アマゲは精鋭120騎を送りました。彼らは馬3頭ずつを乗り継いで、1日に1200スタディア(216km)もの距離を駆け抜け、スキタイの王のいる場所に到着して見張り兵を皆殺しにします。そしてアマゲも自ら部隊を率いて攻め寄せ、スキタイ王と一族郎党を皆殺しにしたといいます。

黒海王国

 スキタイはその後も消滅はせず、クリミア北西部からドニエプル下流域に定着してタウロイと混血し、タウロスキタイとなりました。その首都は「スキタイのネアポリス」、現クリミア中部のシンフェロポリ郊外です。また一部はドナウを南に渡って河口部に住み着き、そこは「小スキティア」と呼ばれるようになりました。面積的にも小さいですし、距離的にもギリシアやローマからは近い(小さい)のでそう呼ばれます(小アジアなどと同じ)。

 前160年頃、小スキティアの貴族アルゴタスは、ボスポロス王パイリサディス3世の未亡人カマサリュエーと結婚し、トラキア人とマイオタイの襲撃から王国を守ったといいます。前130年にはタウロスキタイの王スキルロスが台頭し、オルビアを保護統治下に置くことに成功、ボスポロス王国の王子に娘を嫁がせてサルマタイに対抗します。彼は首都ネアポリスに先祖アルゴタスを英雄として祀り、スキタイの団結と戦意高揚を図りました。

 前113年頃、自由都市ケルソネソスはスキルロスの圧力を恐れ、小アジア北東部のポントスの王ミトリダテス6世に救援を要請します。ポントス王国は将軍ディオファントス率いる6000の軍勢を差し向け、スキルロスはサルマタイ系ロクソラン族の王タシオスと協力して抗戦しました。しかしポントス軍は次々と都市を落とし、ボスポロス王国に服属を迫ります。国王パイリサディス5世は降伏しようとしますが、スキタイ系貴族のサウマコスに暗殺され、ポントス軍はこれを鎮圧して王国を征服しました。スキルロスやその子パコロスも死去し、黒海の北岸はポントスの版図となったのです。

 プルタルコスによると、スキルロスは臨終の床に80人の子らを集め、矢を束ねたものを渡して「折ってみよ」と命じました。子らは誰も折れませんでしたが、スキルロスは束を解いてバラバラにし、一本ずつ折ってみせ、「団結しておれば強い。バラバラになればこのとおりだ」と説いたといいます。同様の話はイソップの寓話にも「三本の棒」として見えますし、旧約聖書の『コヘレトの言葉』にも「撚り合わせた三本の糸は切れにくい」とのコトワザが記されています。地中海方面から伝わったのでしょうか。また『魏書』には青海地方の吐谷渾の王・阿豺(在位:417-426)の遺言として「20本の矢」の話があり、『元朝秘史』にはチンギス・カンの先祖のアラン・ゴアが息子たちを「束ねた矢」で諭す話があるといいます。

 前88年、調子に乗ったミトリダテスは共和政ローマの進出に対抗し、西方に侵攻します。彼はギリシア世界の解放者と喧伝し、小アジア西部諸国やギリシア諸国を服属させますが、ローマ軍には連戦連敗で、前66年には本国ポントスをも追われ、属国コルキス(ジョージア)へ逃れます。彼は非協力的な息子マカエルスを殺し、別の王子ファルナケスをボスポロス王に任命して最後の抵抗を試みますが、前63年にファルナケスの裏切りで自決に追い込まれます。ファルナケスはローマの将軍ポンペイウスに降伏し、王位の承認を与えられるとともにローマの宗主権を認め、ローマ兵の駐屯を受諾します。

 ファルナケスはのちポンペイウスに味方してユリウス・カエサルと戦いますが、前47年のゼラの戦いで4時間で倒され、「来た、見た、勝った」の名キャッチコピーをカエサルに書かせています。ファルナケスは黒海の北へ逃げますが殺され、アサンドロスに王位を簒奪されました。

 ポントス王国は紀元62年に王統が断絶し、属州化されます。ボスポロス王国は紆余曲折ありながらも6世紀まで名目的に存続しましたが、事実上ローマ帝国の一部でした。その北方のサルマタイの地を、ギリシア・ローマでは「サルマティア」と呼ぶようになり、スキティアの名は小スキティアや雅称以外では絶えたのです。

薩爾馬提

 サルマタイはスキタイと同じく東イラン系の言語を話す騎馬遊牧民で、弓騎兵を好むスキタイよりは重装騎兵を重んじましたが、文化的には似通っていました。曲がりなりにも黒海北岸に王国を築いたスキタイとは異なり、サルマタイには統一政権がなく、各部族連合がそれぞれ王を戴いていました。

800px-サルマタイとその周辺国

 サルマタイのうち最も東にはアオルソイがおり、アゾフ海北岸からカフカースの北側、カスピ海やアラル海に至る領域に住んでいました。『漢書』に奄蔡(えんさい)として見えるのが彼らです。1世紀にはさらに東方から来たアラン(阿蘭)に併合され、アラノルシイ(阿蘭聊)となりました。アランはマッサゲタイの子孫ともいい、北カフカースに住むオセット人はその子孫であると称しています。また彼らは鐙を発明したとも、ローマの傭兵や軍団兵となってブリタニアに赴いたアラン人が遺したのがアーサー王伝説のもとだとの説もありますが、これについてはまた後で考えてみましょう。

 アゾフ海の東、タマン半島(クバン地方)にはシラケスが定着し、ギリシア化を深めました。ドン川の西、黒海北岸に進出したのがサイオイとヤジュゲスで、その北にロクソラノイがいました。やがてロクソラノイが南下すると、ヤジュゲスらは西へ押し出されてパンノニア(ハンガリー)へ侵入し、ローマ帝国と戦うことになります。

安息建国

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 さて、カスピ海の東側・トルクメニスタンのあたりにはマッサゲタイがいましたが、次第に東方のソグディアナあたりへ移ったらしく、代わりにダアイ(ダハエ、ダオイ)と呼ばれる人々が現れます。彼らはアパルノイ、クサンティオイ、ピッスロイという騎馬遊牧民3部族の連合体で、しばしば沙漠を越えて南へ襲来し、定住民や牧畜民から掠奪を行いました。ペルシア帝国やアレクサンドロス大王に一応服属した後、イラン高原・メソポタミア・シリアを制覇したセレウコス朝にも一応服属していました。

 前245年にセレウコス朝北部のパルティア州総督アンドラゴラスが独立すると、ダアイの一派アパルノイ(パルニ)の族長アルサケスティリダテスは、混乱したパルティアへ攻め寄せます。前238年、彼らはアンドラゴラスを倒してパルティアを乗っ取り、その南のヒルカニア地方も手中に収めました。彼らの政権は「パルティア」ないしアルサケス朝と呼ばれ、東で同じくセレウコス朝から独立したバクトリア王国と手を組んで地歩を固めます。

 パルティアはセレウコス朝の宗主権を認めつつ勢力を広げ、ミトラダテス1世(在位:前171-前138)の時に大きく拡大します。彼はバクトリア王国の内紛に乗じて東方に領土を獲得し、セレウコス朝がローマに敗れエジプトやユダヤとの戦争に明け暮れている隙を突いて、イラン高原へ進出します。まずメディア地方を攻め取るとメソポタミアへ進軍、前141年にはセレウキアを占領します。さらにセレウコス朝の王を捕虜とし、メソポタミアとイラン高原を手に入れました。

 しかしこの頃、バクトリア王国とパルティア東部には北方からサカ族が侵入しています。彼らはアシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイと呼ばれ、ソグディアナとバクトリアを蹂躙し、ガンジス流域にまで版図を広げたバクトリア王国の本土は滅亡しました。インドに残ったギリシア人(ヨーナ)はインド・グリーク王国(ヨーナ朝)として存続しますが、やがてサカ族がさらに南下してこれを呑み込み、インド・スキタイ王国(サカ朝)を築きました。またサカ族の一派はパルティア王の許可を得てアフガニスタン南部のドランギアナ地方に定着し、そこはサカ・スターン(サカの国)と呼ばれるようになりました。のちのスィースターンです。

 このようなサカ族の大移動を引き起こしたのは、チャイナの史料で月氏と呼ばれる部族連合の東方移動です。そして彼らを突き動かしたのは、烏孫匈奴といった、さらに東方の騎馬遊牧民たちでした。いよいよキュロスもアレクサンドロスも到達しなかったシル川とパミールの彼方、ユーラシア東方の騎馬遊牧民について見ていきましょう。

◆Fire◆

◆Starter◆

【続く】

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