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【つの版】ウマと人類史:中世編38・東方見聞03

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1271年、父ニコロ、叔父マフェオとともにヴェネツィアを出発した若者マルコ・ポーロは、1275年頃に上都でクビライ・カアンに謁見し、彼に仕えることとなります。どのような仕事をしていたのでしょうか。

◆大◆

◆元◆

大元行省

 マルコ・ポーロは1254年の生まれと言いますから、クビライに謁見した時は20歳を過ぎた頃です。彼はイタリア語(ヴェネツィア方言)の他、フランス語、ペルシア語、テュルク語、タタール(モンゴル)語に通じ、漢語は習得しなかったようですが、どこへ行っても会話できました。当時はクビライが大元大蒙古国と国号を変え、大都と上都を首都と定めたばかりです。

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 この頃、クビライは自らが統治する大元ウルスを複数の行政区画に分けていました。首都である大都・上都を含む領域、南と南西は黄河(この頃は南流して淮水に合流)、北西と北はゴビに至るあたりは中央行政府「中書省」の直轄地で、モンゴル語でコル(中央)、漢語で腹裏(ふくり、和語でいうなら「はらのうち」)と漢訳されます。

 中書省は行政・司法・軍事の全てを管轄する機関で、名前だけは曹魏以来漢地にもありますが、実態はモンゴル帝国の大法官イェケ・ジャルグチ大書記官イェケ・ビチクチを漢訳したものに過ぎません。省とは「よく見る」が原義で、皇帝や大臣が文書を確認・吟味するための機関です。

 モンゴル帝国は、中書省とほぼ同じ権限を有する広域の地方行政機関として行中書省(行省)を設置しました。行とは代行の意で中書省(時により尚書省)の出先機関です。命令系統は皇帝に直属し、長官は丞相チンサンおよび平章政事ピンチャンと呼ばれました。その下には路・州・県などが置かれました。名称自体は金代からあり、尚書省の高官が遠征した時に、その幕営が臨時の出先機関となって行省と呼ばれています。クビライ以前にも行尚書省が各地に置かれ、モンケはこれらを整理して燕京(漢地担当)ビシュバリク(中央アジア担当)アム河以西(イラン担当)に再編しました。西夏の故地にも寧夏行省が設置されています。

 クビライが帝位につくと、中央アジアやイラン方面に直接命令を行き届かせることはできなくなりましたが、これを漢地にも適用し、軍事遠征やその後の統治を円滑ならしめるようにしました。1261年に中興(のち甘粛)行省が設置され、南宋平定に際しては1262年に陝西四川、1268年に河南江北、1274年に荊湖と雲南、1277年に江西、1278年に江淮行省が設置されています。東方では1269年に東京(のち北京・遼陽)、1280年に征東(高麗・日本)行省が設置されました。モンゴル高原にはカラコルム(和林)に宣慰司都元帥府が置かれ、クビライ崩御後の1307年に初めて和林(のち嶺北)行省が設置されました。これらの省は再編や改編を経て明清以後も受け継がれ、現代の中華人民共和国の省に繋がっています。ただしチベットはクビライが法王に任命したパクパの統治する宣政院の所轄地でした。国内には諸王や貴族ら封建諸侯の領地もあり、クビライの官吏と対立することもありました。

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』の往路には、カムル(ハミ、新疆ウイグル自治区クムル市)と粛州の間にサラマンダー(石綿、火浣布)を産する「チンギンタラス(Chingintalas)地方」があり、タングート地方に属するといいます。これは行省(中古音ɦˠæŋ ʃˠiæŋX)をモンゴル語やテュルク語で「チンギン」と訛り、「行省の管轄(darasi)下にある地域」という意味でそう呼ばれたものです。広さが16日行程あり、沙漠の傍にあって多くの集落があり、北端に鉄鋼などの鉱山があるといいますから、このあたりに置かれたビシュバリク行省(別失八里等処行尚書省)のことでしょう。この頃には西のカイドゥと東のクビライの間で係争地となっており、天山ウイグル王国は争いに巻き込まれてビシュバリクからトルファンへ遷都しています。

 さらに大雑把に分けるならば、黄河と秦嶺を境とする華北地方はカタイ/キタイ(漢地)であり、その南の旧南宋領はマンジ(蛮子)と総称されます。旧西夏はタングートです。帝国南西にはチベットと雲南(カラジャン)地方があり、ゴビの北方にはモンゴル本土があり、北東には遼東(女真/ジュルチェン)と高麗(カウリー)があるわけです。アフガニスタンの一部まで羈縻政策を施した最盛期の唐よりは少し狭いですが、その権威と軍事力は勝るとも劣らず、莫大な富が世界中からクビライのもとへ流れ込みました。

経済政策

 騎馬遊牧民や森林狩猟民の世界であるモンゴルや遼東、長年の戦乱で荒廃していたカタイ/漢地に比べ、マンジ/江南は肥沃で温暖な湿潤地帯であり、莫大な人口と富を生み出すことができました。南宋併合前の1271年と、併合後の1285年では、歳入の額が20倍に跳ね上がったともいいます。南宋が金に対して長年貢納しつつ存続できたのも、モンケやクビライが南宋をしつこく侵略したのも、この数字を見ればむべなるかなです。

 クビライは江南を接収すると、南宋の皇族や高官から田地を没収して国家直営の農地(官田)とし、官撰の農業書を刊行して農業を奨励し、穀物や絹製品、海塩や茶葉を生産させました。かつて隋の煬帝が掘らせた大運河は杭州・開封・燕京を繋ぐものでしたから、クビライはこれを再整備させ、江南の富をせっせと大都へ運ばせます。さらに外港である天津(当時は海津鎮、天津の名は明代以後)を整備し、大都との間を運河で繋がせ、内陸運河のみならず海路でも物資を輸送できるようにしました。こうして大元政府は江南の経済力に依存するようになります。

 モンゴル帝国の諸ウルスは、各地を征服し定着するにつれ、遠征の戦利品ではなく税収によって国を経営するようになりました。イスラム帝国も契丹も同様です。そのためには国内の安定、治安の維持が必要で、征服地での伝統的な法律や文化、宗教はおおむね尊重されました。ただ税収や貨幣に関しては大きく変わってきます。チャイナでは伝統的に銅銭だけが発行され、絹や穀物も貨幣・租税として流通していましたが、国際通貨である金や銀、さらに紙幣も流通するようになりました。

 各地の地方行政機関では、これまで通り穀物や絹などが租税として徴収されました。これに加えて、中央政府への納税にはが用いられました。銀は古来欧州・西アジア・中央アジア・インドなどで広く貨幣として流通したものの、チャイナで銀が一般に通貨として流通し始めるのはこの頃からです。主に商業税・関税として徴収され、歳入総額の1-3割に及びました。

 チャイナや高麗・日本で広く流通していた銅銭は、額面が小さい割に重くかさばり、持ち運びには面倒でした。また銅が不足すると鉄銭もしばしば造られましたが、額面は銅銭より低い上に重くかさばることは銅銭以上で、各地に軍閥・藩鎮が割拠すると領域外への銭の輸出が禁じられるなど、交易上非常に不便でした。これを解決するため、遅くとも唐代には「飛銭」という高額の送金手形が造られ、現金(銅銭)と引換にできることから貨幣代わりに流通し始めます。北宋代には四川地方で「交子」という預銭手形が商人組合の間で発行され、政府がこれを採用して有期限貨幣(紙幣)として流通させました。これは膨れ上がる軍事費を賄うためでしたが、大量発行したため価値が暴落して紙くず化しています。その後も銭引や会子などと名を変えて発行され、北宋を滅ぼした金でも発行・流通していました。

 金を滅ぼしたモンゴル帝国でも、1236年にオゴデイ・カアンの勅命により交鈔という紙幣が発行されています。しかし他の王侯も自分の領内で紙幣を発行し流通させており、統一されていませんでした。1260年、クビライは中統元宝交鈔を発行しています。これは不足する金銀や銅銭との兌換(交換)を保証して通貨としての価値を持たせたもので、最低額面は銅銭10文、最高額面は2貫文=銀1両とされ、偽造や受取拒否は死罪を以て禁じられました。これについてはマルコ・ポーロも記しています。

 しかし南宋併合後に江南へ流通させるため大増刷が行われ、貨幣価値が下落してしまいます。これに対し、クビライは1287年に至元通行宝鈔を発行して中統元宝交鈔の5倍の価値を与え、交鈔に塩との兌換機能を付与します。大元ウルス中央政府の歳入の2割は商業税でしたが、残り8割は塩の専売制による収益でした。チャイナの歴代王朝は、漢代以来塩や鉄を専売制にして莫大な利益を得ており、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、政府の販売する引換券「塩引」が必要でした。この塩引は塩と交換されることが政府から保証されているため、貨幣に匹敵する信用があり、貨幣として流通していたのです。これによって紙幣のインフレはやや抑えられましたが、抜本的解決にはなりませんでした。

 ともあれ、こうして皇帝のもとに集まった莫大なカネは、軍事費のほか王侯貴族への下賜としてバラ撒かれます。彼らが国際経済にそのカネを投資することで商業が盛んになり、商業税となって皇帝に戻ってくる仕組みです。理論上は完璧ですが、これには国際経済が回り続けることと、江南という莫大な富を生む地域が皇帝の手元にとどまり続けることが必須でした。

 マルコ・ポーロは、他にも駅伝や宗教、刑罰や法律についていろいろ記述しています。クビライが統治するカタイ(漢地)を中心として、北のカラコルム、東のジパング(日本)遠征やナヤンの乱、南のマンジ(江南)、南西の長安・漢中・成都・カラジャン(雲南)・ビルマ・ベンガル・東南アジア、西のチベットやカイドゥとの戦争、ジョチ・ウルス、ロシアについても記しています。実際各地へ派遣され、徴税や監督などの任務についていたようです。いちいち上げればきりがありませんし、誤認や与太話も多いので、ここではとりあげません。翻訳もいくつか出ています。読んでみて下さい。

 では、次回はジパングについての記述と、マルコ・ポーロの帰路について見ていきましょう。中世編があまりに多くなったので、クビライ崩御後については「中世後期編」とでもして分けることにします。

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【続く】

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