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【つの版】邪馬台国への旅19・親魏倭王03

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

時々前のを見直して追記や訂正しています。では引き続き、親魏倭王卑彌呼に賜与された品物について見ていきます。まずは金印紫綬です。

◆黒◆

◆王◆

金印紫綬

今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米・牛利、渉遠道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬。
今、あなたを「親魏倭王」とし、金印紫綬を授ける。これを箱に入れて(途中で悪さをされないよう)封印し、帯方太守に託して、あなたに授けさせよう。あなたの種族の人々(倭人)をなだめ鎮めて、(天子への)孝行と従順につとめよ。あなたの使者である難升米と(都市)牛利は、遠路はるばるやって来て、大変な任務をよく勤めた。今、難升米を「率善中郎将」、牛利を「率善校尉」とし、銀印青綬を授ける。

印や璽や章とはハンコで、綬はハンコを衣服に結びつける組紐です。『漢書』百官公卿表上『後漢書』輿服志下などによれば、印綬には位に応じた序列があります。皇帝は玉璽黄赤綬、国内の諸侯王は金璽綟(萌葱色)綬、諸侯や丞相(首相)級の高官は金印紫綬、秩禄比二千石以上(郡太守や上級官僚)は銀印青綬、六百石以上は銅印黒綬、二百石以上は銅印黄綬などと決まっていました。また綬を結ぶための印璽の環()にも序列があり、皇帝の玉璽は龍、諸侯王は駱駝、高官や上中級官僚は亀をかたどり、銅印黄綬の下級官僚は環がついているだけでした。これを帯から吊るして序列がひと目でわかるようにしたわけで、警察や軍隊や消防隊の階級章と同じです。衣服や冠、車にも秩序規定がありましたから、覚えていないと死にます。

皇帝は六つの玉璽の他、いわゆる「伝国璽」があります。後漢の衛宏によると、秦の始皇帝が藍田山の玉を以て玉璽を作り、丞相の李斯が「受命于天、既壽永昌」という字を書いて彫らせました。上部には螭(龍)が彫刻されていたといいます。漢や王莽を経て孫堅・袁術の手に渡りましたが、袁術が滅ぶと徐璆が回収し、漢に返納しました。これが伝国璽です。漢から禅譲を受けた魏もこの玉璽を使っていたでしょう。

異民族に対しても印綬が格に応じて授与されますが、外国の王は国内の諸侯王よりランクを下げて金印紫綬とします。ただし漢と対等以上の帝国であった匈奴の単于は「匈奴単于」で、漢から禅譲を受けた新の王莽が回収したのち破壊して「匈奴単于」と取り替えたため戦争が起きました。後漢は前漢と同じ璽綬を授けて関係を回復させています。烏孫王には金印紫綬、その臣下には銀印や銅印です。鈕の形は、おおむね東方は亀、南方は蛇、西方は駱駝、北方は羊や馬でした。「漢委奴國王」の金印は蛇鈕で、雲南の「滇國王」金印と同じ鈕であり、黥面文身のせいか南方の蛮夷に分類されていたようです。親魏倭王の金印も前例に従い蛇鈕であったはずです。

ところで、「漢委奴國王」の金印はどうしたのでしょうか。御存知の通り、江戸時代に博多湾の志賀島で出土しましたから、それまでいつの頃からか地中に埋まっていたようです。遼東公孫氏は後漢の臣とはいえ勝手に遼東侯とか燕王とか名乗っていましたから、後漢の金印を権威の象徴として付き合うのも支障があります(夫余は前漢が濊貊の酋長に授けた「濊王之印」を大事に持っていましたが)。たぶん「漢委奴國王」の金印は伊都(倭奴)國王が持っていて、漢が滅んで要らなくなったものの、他者の手に渡るのも嫌なので密かに埋めたのでしょう。卑彌呼の手に渡っていたらヤマトから出土したはずですし、魏が回収していたら破壊・溶融されたはずです。なおこの金印には偽造説が古くからありますが、つのは本物だと思います。

「親魏倭王」の金印がどこかで出土したら邪馬臺國論争に決着がつきそうですが(「偽物だ」「元の場所から奪われただけだ」とか騒ぎそうですが)、卑彌呼の後に即位した臺與は魏から禅譲を受けた晋に何度も朝貢しており、「親晋倭王」の金印紫綬を受けたでしょう。そして卑彌呼の「親魏倭王」の金印は晋によって回収され、破壊されたと思われます。なので「親晋倭王」の金印は見つかるかも知れません。東晋を継いだ南朝の劉宋に朝貢した倭の五王が返還していなければですが。

難升米と都市牛利が任命された「率善中郎将」「率善校尉」とは、魏の武官名である中郎将校尉に「(蛮夷を)善に率(みちび)く」という友好的な名前をつけた名誉称号です。銀印青綬は金印紫綬に次ぎ、郡の太守や上級官僚に匹敵する格付けになりますが、中郎将も校尉も確かに秩禄比二千石で、そのぐらいです。蛮夷なのでチャイナの官吏よりは格下扱いでしょうが。

下賜品

今以絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤。
今、絳地交龍錦(朱色の地に蛟龍を織り出した錦)五匹、絳地縐粟罽(朱色の地に細かい粟粒模様の薄布)十張、蒨絳(茜色の絹布)五十匹、紺青(紺色の絹布)五十匹をもって、あなたの献上品への代償(返礼)とする。さらに、特別にあなたに紺地句文錦(紺色の地に句の紋様を織り出した錦)三匹、細班華罽(細かい斑入りの華紋様を描いた薄布)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚真珠・鉛丹各五十斤を下賜する。

天子への朝貢は、基本的に「天子の徳」を内外に喧伝するためのセレモニーですから、貢物がどれほどショボくても、天子からは驚くほど豪勢な品物をたっぷりと与えて帰らせねばなりません。でなければ内外から侮られます。「蛮夷」はこれを悪用してチャイナにたかり、たっぷりとオミヤゲを貰って帰るので、あまり頻繁に来られると天子の懐具合に響きます。後世には何年に一回とか制限をつける有様になりました。

絳とは「深紅色(crimson)」の織物のことです。絳地は布の地の色が深紅で、そこに紋様があることを言うのだと思いますが、裴松之は「地は綈(てい、あつぎぬ、つむぎ)としなければならない」と注釈しています。交龍は龍が交わった姿か蛟龍(みずち)の姿、錦は色糸を用いて紋様を織り出す絹織物、縐粟は小さな粟粒のような紋様、罽(けい)は目の粗い薄絹(羅)、蒨絳は茜色、紺青は紺色です。匹も張も織物を数える単位ですから、僅かな斑布に対してやたらと絹織物を推してきます。女王なら豪奢な織物が好きだろうという思惑でしょうか。

織物に続いて金(黄金、ゴールド)が出て来ます。つのpediaでは度量衡のうち度しかやっていませんが、漢魏晋の1両は約14gなので8両は112gです。1斤は16両(222.72g)、1両は24銖、1銖は秬黍(黒黍の実)100個ぶんの重量(0.58g)だと定義されています。漢魏の頃の主要通貨は五銖銭(重さ5銖≒2.9g)という銅銭ですが、およそ穀物1斛(20リットル)が100銭、金1斤(1金)が1万銭=穀物100斛といいます。1銭を300円とすれば1金は300万円、金8両はその半分で150万円程度の価値でしょうか。もちろん金銭としてよりは威信財としての黄金ですが。

貨幣に関してはこのwebサイトが参考になります。

五尺刀

1尺は24.1cmですから5尺は120.5cmです。刀身の長さとすると長すぎますし(刀身90cm以上は大太刀扱い)、刀全体の長さだとしても長くて立派です。4世紀に百済王が倭王に贈った七支刀は全長74.8cm、稲荷山古墳出土鉄剣は73.5㎝ですから三尺余り。荒神谷遺跡出土銅剣は50cmほどで二尺余です。

刀は古くからチャイナにあり、三国志の時代にもいろいろな刀にまつわる伝説があります。奈良県東大寺山古墳からは「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出土しました。贈物にする刀には金象嵌等で文字が刻まれていることが多く、この五尺刀もそうだったでしょう。見つかれば大発見だと思うのですが、まだ見つかっていませんね。

銅鏡百枚

さて、問題の「銅鏡百枚」です。これがどのような鏡かは議論があります。青銅で鋳造され、鏡面の背面には様々な紋様や文字が鋳込まれており、その材質、紋様、文字、寸法などから多様な情報が読み取れます。

漢三國西晉時代の紀年鏡 : 作鏡者からみた神獸鏡の系譜
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180559/1/jic088_534.pdf

弥生時代中期前半(紀元前2世紀前半頃)、多鈕細文鏡という形式の銅鏡が朝鮮半島から倭地にもたらされました。満洲や朝鮮半島に多いため、当時の朝鮮王国から各地へ伝来したものでしょう。前漢末から新代には方格規矩四神鏡や連弧文銘帯鏡が出現し、銘文には吉祥文や元号などが鋳込まれています。後漢時代には内行花文鏡が流行し、大陸でも半島でも倭地でも多く出土します。特に北部九州が多いようです。

伊都國にあたる福岡県糸島市の平原遺跡からは、直径46.5cm(2尺弱)の大型内行花文鏡が5面出土しました。大陸にも半島にも類例がなく、倭地で鋳造された倭製鏡とされます。鏡の円周が146cmで「八咫(1咫は18.4cm)」あることから、これぞ八咫鏡ではないかとも言われています。平原遺跡からは他にも内行花文鏡2面、方格規矩鏡32面、四螭文鏡1面、合計40面もの銅鏡が出土し、卑彌呼の墓ではないかと騒がれましたが、惜しいことに2世紀後半の築造でした。ただ銅鏡が倭地では重要な宝物であったことは確かです。

後漢中期から魏晋六朝時代にかけて、神獣鏡という形式の銅鏡が出現しました。後漢の和帝の元興元年(西暦105年)の紀年銘を持つものがチャイナでは最も古いといいます。深入りは避けますが、倭地では2世紀末に北部九州の銅矛、畿内や東海の銅鐸が消滅し(埋納や破壊されて作られなくなり)、代わって畿内を中心として画文帯神獣鏡が出現します。これは倭地独自のものではなく、大陸でも多数出土しています。年代や状況から見て、卑彌呼の共立と邪馬臺國を盟主とする新生倭國の成立と無関係ではないでしょう。

画文帯神獣鏡が日本で60面ほど出土しているのに対して、三角縁神獣鏡560面以上も出土し、うち170面余りは近畿で出土しました(奈良県で44面、大阪府で30数面、京都府で50数面、福岡県で30数面、大分県で5面)。大陸に出土例がないとして倭製鏡とする説も根強いですが、倭製鏡と見られるのは130面ほどで、430面は舶載鏡(舶来品)ともいいます。描かれている図像や刻まれた漢字は明らかに大陸のもので、類似した魏晋鏡は山東半島から渤海湾沿岸に分布しています。かつ既に見たように、魏の元号を銘文に持つ三角縁神獣鏡も日本列島の各地に存在しているのです。

「百枚以上あるなんておかしい」と言われるでしょうが、倭國はこの後も魏晋と頻繁にやりとりがありますし、魏の天子だけでなく帯方郡からも銅鏡が輸出されていた可能性はあります。倭地で後から作ったのなら、なぜ銘の紀年がこの年代に集中したのでしょうか。呉の工人が作ったなら、呉の紀年銘がもっと多くてもよさそうです。あなたはどう思いますか?

真珠・鉛丹

これは前にやりましたが、鉛丹と並べて数えられることから真珠とはパールではなく真朱辰砂のことのようです。50斤(1kg余)ものパールは孫呉ならともかく魏では手に入りにくいでしょう。辰砂も魏ではあまり採れず、呉や巴蜀で多く産出するため、倭地で産出すると聞いて喜んだでしょう。ただ今回の使者は持って来なかったため、魏から辰砂を見せて「ベンガラや鉛丹とは違う、こういうのを持って来い」と告げたのでしょうか。あるいは朱を化粧として用いると聞いたことから、女王への化粧品のつもりでしょうか。

魏からの下賜品と詔書は以上です。では倭地へ帰るとしましょう。生口たちは魏で頑張って生きて下さい。たぶん司馬懿派の誰かに引き取られて、珍しがられながらも幸福に暮らしたと思います。

弓遵と梯儁

正始元年(240)、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、併齎詔、賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。
正始元年(240)、(帯方郡の)太守である弓遵は、建中校尉の梯儁等を遣わし、詔書と印綬を奉じて倭國へ詣でさせ、倭王の金印紫綬を授けた。あわせて詔書をもたらし、金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物(色々な品物)を下賜した。倭王は使者を再び遣わして文書を奏上し、謝恩の気持ちを表明した。

洛陽を出発した倭使は、帯方郡から付き添ってきた役人らに案内&護衛されて、一緒に帯方郡へ戻ります。もと来たように兗州から青州へ向かい、山東半島の東端から海を渡って半島へ行くコースです。1ヶ月半か2ヶ月あれば充分着きます。正月に洛陽を出発して、帯方郡到着が2月か3月。夏には南風が吹いて倭地に帰りにくくなるため、春のうちに戻らねばなりません。まあ帆を下ろして漕げばいいのですが。

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帯方郡に戻ってみると、太守が劉夏から弓遵に代わっています。劉夏はこのあと歴史から姿を消しますが、死んだのか転勤したのかさえわかりません。倭使を紹介した功績で本土に栄転したとかならいいのですが。ともかく難升米と都市牛利、彼らに付き添って来た役人らは新太守に報告を済ませ、倭地へ向かうことになります。魏の官吏としては初となる倭地への出向です。

帯方郡から倭地へ遣わされる梯儁の官位は「建中校尉」です。校尉は都市牛利の率善校尉と同じく秩禄比二千石の上級将校で、将軍の副官として部隊を率いる役職ですが、建中とは何でしょうか。漢代以来、異民族に対しては担当の校尉がおり、護烏桓校尉、鮮卑校尉、東夷校尉、護羌校尉、西域校尉と配置されますが、護倭校尉や護韓校尉でもありません。漢末魏晋には武猛校尉・折衝校尉・督軍校尉・討虜校尉など勇ましい名のついた校尉や将軍がごろごろしており、そのたぐいの雑号でしょう。ランク的に率善校尉や帯方太守と同格に見せる必要があるため、適当に名付けられたのかも知れません。

こうして正始元年(西暦240年)の春頃、難升米と都市牛利は長旅から倭地に戻って来ました。帯方郡の使者である梯儁はおそらく副使や秘書、通訳、従者、下賜品を運搬する人夫らを何人か連れていたでしょう。狗邪韓國から對馬・一支・末盧を経て伊都國に到着し、そこで歓迎を受けます。伊都國王や一大率とも面会し、倭國の様子を見聞しては記録し、報告書を作成します。しかし、邪馬臺國へは行っていません

「親魏倭王に任命するなら卑彌呼に面会するのが常識的に考えて普通だろ」とか言いたそうですね。何度でも繰り返しますが、帯方郡の使者は伊都國に留まっています。一大率の役目はなんですか? 思い出して下さい。

自女王國以北、特置一大率。檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遣之物詣女王、不得差錯。
女王國(邪馬臺國)以北には、特に一大率を置く。諸国を検察し、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都國で治め、國中(中国、魏)でいう刺史(州の長官)のようである。(倭の)王が使者を京都(魏都洛陽)や帯方郡、諸韓国(韓の諸国)に派遣する時や、帯方郡の使者が倭國に来る時は、みな津(港)に臨んで捜露(調査)し、文書を伝送して賜物を女王に届け、少しも錯(あやまち)がないようにしている。

文書や贈物は一大率によって検査され、邪馬臺國へ「伝送」されます。この時点で、伊都國から先へ帯方郡の使者が行く必要はありません。使者は倭地を攻め取る下準備に来ているわけではありませんが、卑彌呼は倭人にすら姿を現さないカリスマ的存在ですし、倭地の王や豪族にしろ魏の役人に倭地を見回られるのは嫌でしょう。伊都國王だってつい最近まで倭奴國の王として北部九州に権威を及ぼしていたのですから、邪馬臺國まで卑彌呼に会いに行かれると権威をないがしろにされた気がするでしょう。

わかりましたか?

わかりましたね? では、倭國からの返礼の文書を携えて帯方郡へ戻りましょう。後は郡から報告書が洛陽まで伝送されて、一件落着です。また倭國が朝貢に来ることを期待しましょう。

◆Get back, get back◆

◆Get back to where you once belonged◆

今回はここまでです。次に倭が魏へ使者を送るのは数年後、正始4年(西暦243年)のことです。次回はそれを見ていきましょう。

【続く】

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