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【つの版】ウマと人類史26・高車勅勒

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 匈奴の劉淵が建国した漢は晋を滅ぼしますが、内紛によって滅亡し、華北を統一した石勒の趙国も349年に崩壊します。これを好機として、中原には鮮卑慕容部の燕国が侵入し、陝西には氐族の秦国が勃興しました。江南には東晋が割拠して巴蜀を奪還し、山東・河南の奪還をも目論みます。

 この頃、鮮卑拓跋部の代国と匈奴鉄弗部は北方に割拠し、婚姻して同盟を結びつつも、燕と秦の間で揺れ動いていました。さらにその北には、高車や柔然と呼ばれる連中が現れ始めます。また西方では、この頃から「フン族」らしき連中がちらほら現れ始めます。彼らは何者だったのでしょうか。

◆車◆

◆車◆


高車勅勒

 魏書序紀・高祖昭成皇帝(代王の拓跋什翼犍)本紀によると、その26年(西暦363年)と33年(370年)に「高車」を討伐したとあります。

 二十六年冬十月、帝討高車、大破之、獲萬口、馬牛羊百餘萬頭。……三十三年冬十一月、征高車、大破之。

 彼らが何者なのか何も解説はありませんが、魏書には高車について列伝があるため、そちらを見てみましょう。

 高車、蓋古赤狄之餘種也。初號為狄歷、北方以為勑勒、諸夏以為高車丁零。其語略與匈奴同而時有小異、或云其先匈奴之甥也。其種有狄氏、袁紇氏、斛律氏、解批氏、護骨氏、異奇斤氏。

 高車は、おそらく古代の赤狄の余種(残党)である。初めは狄歴と号し、北方では勅勒、諸夏(チャイナ)では高車丁零という。その言語はおおむね匈奴と大同小異で、先祖は匈奴の甥であるともいう。その部族には狄氏、袁紇(ウイグル)氏、斛律氏、解批氏、護骨(オグズ)氏、異奇斤氏がある。

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 狄歴、勅勒、丁零とは、みな「テュルク」の音写です。かつて丁零(釘霊・丁令)はバイカル湖のほとりにいましたが、匈奴が漢や鮮卑に駆逐され、鮮卑も分裂して南下したため、彼らは手薄となったモンゴル高原に南下してきたのです。しかし、高車とは何でしょうか。後の方にあります。

 其遷徙隨水草、衣皮食肉牛羊畜產、盡與蠕蠕同。唯車輪高大、輻數至多。

 水や牧草を追って遊牧し、ウシやヒツジなどの家畜の皮革をまとい、肉を食べることは、みな蠕蠕(柔然)と同じである。ただ(荷車の)車輪が高大で、その輻(ふく、や、スポーク)の数は非常に多い。

 車輪が高く大きいので「高車」というのですから、これは漢名です。彼ら自身や北方の諸族はテュルクと呼んだのでしょう。テュルクの語源には諸説ありますが、テュルク諸語で「車輪」をtekerlek/terekというので、高車はその漢訳、丁零・勅勒・鉄勒・突厥はその音写ではないかともいいます。彼らはゲルに住まう騎馬遊牧民で、家財道具もろとも荷車に積んで移動しますから、「車輪で移動する民」としてそう呼ばれたのでしょう。

 同じく車輪で移動した印欧系諸族では、車輪を英語でwheel、印欧祖語でkʷékʷlosといいます(梵語chakra,希語kyklosなど)。また英語truck(トラック、トロッコ)を遡ると印欧祖語dʰrogʰos(走るもの、車輪)で、ギリシア語trokhós、アルメニア語durgn、ケルト語droch、バルト語drazuと同じ語源です。あるいはテュルクと関係があるかも知れません。

 続いて、彼らの始祖神話が伝えられます。

 俗云、匈奴單于生二女、姿容甚美、國人皆以為神。單于曰「吾有此女、安可配人、將以與天。」乃於國北無人之地、築高臺、置二女其上、曰「請天自迎之。」經三年、其母欲迎之、單于曰「不可、未徹之間耳。」復一年、乃有一老狼、晝夜守臺嘷呼、因穿臺下為空穴、經時不去。其小女曰「吾父處我於此、欲以與天、而今狼來、或是神物、天使之然。」將下就之。其姊大驚曰「此是畜生、無乃辱父母也!」妹不從、下為狼妻而產子、後遂滋繁成國、故其人好引聲長歌、又似狼嘷。

 俗にいう。むかし匈奴の単于に二人の娘がおり、姿かたちが美しく、国人はみな神(ふしぎ)とした。単于は「わしにこのような娘があれば、どうして人にめあわせようか。まさに天に与えよう」と言い出し、国の北の無人の地に高台(楼閣)を築き、その上に二人を置いて「天が自ら迎えに来るだろう」と言った。三年して母親が迎えに行こうとしたが、単于は「だめだ、まだ天に届かぬ」と言った。また一年して、一頭の老いたが現れ、昼夜その台を守って遠吠えし、台の下に穴を掘って棲み付いた。妹のほうが「あれこそ神物で、天の使いです」と言い出し、台を降りた。姉は大いに驚き「あれは畜生です、父母を辱めるのですか!」と叫んだが、妹は従わず、狼の妻となった。こうして彼女は狼の子を産み、のちついに繁栄して国をなし、高車となった。それでその人々は、始祖である狼の遠吠えに似せた「引声長歌(喉歌、ホーミー)」を好むのだという。

 いわゆる「狼祖伝説」です。突厥やモンゴルにも類話がありますが、狼と人間の少女から部族が生じるのは盤瓠めいていますね。姉の方はどうなったか書かれていませんが、高車は匈奴の単于の娘を母とし、天が遣わした狼を父祖として語り伝えていたようです。

 無都統大帥、當種各有君長。為性粗猛、黨類同心、至於寇難、翕然相依。鬬無行陳、頭別衝突、乍出乍入、不能堅戰。其俗蹲踞褻黷、無所忌避。

 全体を統率する首領はおらず、部族ごとに長がいる。人となりは粗暴勇猛で、徒党を組んで集まり掠奪を行う。戦闘では陣を敷かず、頭目ごとに突撃をかけ、前進したり後退したりし、防御を固めて長く戦うことはない。座る時は膝を立てて座り、不潔で礼儀知らずである。

 婚姻用牛馬納聘以為榮。結言既定、男黨營車闌馬、令女黨恣取、上馬袒乘出闌、馬主立於闌外、振手驚馬、不墜者即取之、墜則更取、數滿乃止。俗無穀、不作酒。迎婦之日、男女相將、持馬酪熟肉節解。主人延賓亦無行位、穹廬前叢坐、飲宴終日、復留其宿。明日將婦歸、既而將夫黨還入其家馬羣、極取良馬。父母兄弟雖惜、終無言者。頗諱取寡婦而優憐之。

 婚姻には牛馬を結納品とする。互いに話が整うと、男は用意された馬に乗って女を奪い取り、女を抱えたまま車の柵を飛び越えねばならない。失敗して馬から振り落とされればやり直し、数回失敗すれば失格となる。穀物はなく(穀物では)酒を作らない。嫁を迎える日には男女が相対し、馬酪(馬乳酒)を作り家畜を解体してご馳走とする。(婚宴の)主人が賓客を迎える時は、ゲルの前の草むらに座り、終日飲み明かして引き止める。明くる日、新婦は夫を自分の実家の馬の群れの中に導き、よい馬を選び取らせる。新婦の父母や兄弟は別れを惜しむが無言でおり、彼女が寡婦になって帰ってくれば非常に優しくいたわる。

 騎馬遊牧民の成人男子たる者、馬術に巧みでなければ嫁も取れません。儒教の礼儀は知らずとも、家族の間柄は親密です。

 其畜產自有記識、雖闌縱在野、終無妄取。俗不清潔。喜致震霆、每震則叫呼射天而棄之移去。至來歲秋馬肥、復相率候於震所、埋羖羊、燃火拔刀、女巫祝說、似如中國祓除。而羣隊馳馬旋繞、百帀乃止。人持一束柳桋回竪之,以乳酪灌焉。婦人以皮裹羊骸、戴之首上、縈屈髮鬢而綴之、有似軒冕。

 彼らは自分の所有する家畜をみな記憶しており、混ざりあって放牧していても間違えることはない。その習俗は清潔でない。雷を喜び、(家畜に)落雷があれば「天が射た」と言ってよそへ行く。翌年の秋が来て馬が肥えると落雷があった場所へ行き、ヒツジを埋めて火を燃やし刀を抜き、巫女が祝詞を唱えてお祭りをする。チャイナの祓除(祓い清め)の儀式のようである。また馬に乗った者たちがその場所の回りを百回巡り、柳の枝を一束持ってきて、そこへ馬乳酒を振りまく。婦人はヒツジの皮を剥いで頭に被り、その編んだ髪が垂れ下がるさまはチャイナの軒冕(冕冠)のようである。

 其死亡葬送、掘地作坎、坐屍於中、張臂引弓、佩刀挾矟、無異於生、而露坎不掩。時有震死及疫癘、則為之祈福。若安全無他、則為報賽。多殺雜畜、燒骨以燎、走馬遶旋、多者數百帀。男女無小大皆集會、平吉之人則歌舞作樂、死喪之家則悲吟哭泣。

 死人があれば葬儀を行い、土を掘って屍を穴の中に座らせ、弓矢や武器を生きている時のように持たせるが、穴は埋めない。落雷や疫病で死ねば祀りを行い冥福を祈る。安全無事なら報恩の祭儀をする。様々な家畜を多く殺し骨を焼いて捧げ、数百の馬をめぐり走らせる。男女大小なくみな集会しては歌舞音曲を催すが、喪中の家では嘆き悲しむ。

 後徙於鹿渾海西北百餘里、部落強大、常與蠕蠕為敵、亦每侵盜于國家。

 のち鹿渾海の西北百余里に移動し、部落は強大となって、常に蠕蠕(柔然)と敵対し、また我が国(代/魏)に侵入して掠奪を行った。

 鹿渾海とは、おそらくオルホン川か、その上流の湖です。かつて匈奴の本拠地のひとつが置かれました。その西北100余里(北魏の1里は約500m、100里は約50km)ですから、そう遠くもありません。しかしフフホト付近で南の両大国にビクビクしながら領土を保つ程度の代国の王が、漠北の果てまで大遠征したわけではありません。北から襲来した高車の一派を撃退したのを、例によって誇大に言い立てただけです。

 遣其撫軍慕容垂、中軍慕容虔、與護軍平熙等、率步騎八萬、討丁零敕勒、於塞北、大破之、俘斬十餘萬級、獲馬十三萬匹、牛羊億余萬。

 また『晋書』慕容儁載記によると、燕の光寿元年(357年)5月、燕帝は慕容垂らに歩騎8万を授けて塞北(長城の北)の「丁零敕勒」を討伐させ、大勝利を得たといいます。また慕容儁の子・慕容暐の時代にも、362年に将軍の傅顔が北の勅勒を襲撃し、大戦果を挙げて帰還したとありますし、367年には燕の将軍慕容厲らが勅勒を攻撃しています。この時、燕軍は代国の国境を通りましたが、田畑を荒らしたために代王が怒り、燕国の雲中郡(フフホト)を攻撃して奪い取ったといいます。

拓跋大魏

 この頃、燕は南の東晋、西の秦国と争っていて多難でしたが、どうにか中原の統治を軌道に載せ始めていました。369年には東晋の桓温による大遠征を撃退し、秦とも和約を結んでいます。しかし同年、名将の慕容垂が内紛によって燕を去り、秦に亡命しました。これを好機として秦は燕への攻勢を強め、370年11月にあっさりと滅ぼしてしまいます。オルドスの鉄弗部は秦と結んで代国に対抗し、376年に代国は秦に併呑されました。

 華北を統一した秦は、勢いに乗って東晋を滅ぼさんと大軍を南下させますが、383年に淝水の戦いで敗れ、崩壊します。東方では慕容垂によって燕が復活し(後燕)、西では羌族の後秦が興り、北では386年に什翼犍の孫・什翼圭(拓跋珪)が代国を復興しました。彼は同年国号を魏と改め(北魏)、まずは慕容垂と同盟して南を固めます。この頃、西のオルドス地方は匈奴系の独孤部や鉄弗部が支配していましたが、魏はこれを打ち破り、付近の高車たちも撃破します。燕はこれを危ぶみ鉄弗部を支援しますが、魏はこれが原因で燕と国交を断絶し、山西省に割拠していた西燕を支援しました。

 慕容垂は中原を制覇すると394年に西燕を滅ぼし、返す刀で魏へ攻め込みますが、395年に大敗を喫し、翌年崩御します。魏王はこれを好機として燕へ攻め込み、中原の大半を奪い取ると、398年には平城(大同市)へ遷都して皇帝を称しました(道武帝)。

 陝西盆地を治める後秦は、これに対抗すべくオルドスや河南、河西へ進出しますが、北魏に撃ち破られます。また407年には、オルドスで鉄弗部の劉勃勃(赫連勃勃)らが自立してと称し、417年に後秦が東晋に滅ぼされるとこれを撃退して陝西を征服します。一時は西方で強盛を誇りましたが、425年に赫連勃勃が世を去ると一気に弱体化し、431年に滅亡します。夏はチャイナに興った匈奴系の国では一番最後まで残りました。北魏は周囲に残った小国も併呑して、442年にはついに華北全土を統一します。

 しかしこの頃、各個撃破された高車や諸胡をまとめ、柔然という大国が北魏の北方に現れました。またインド・イラン・ローマの周辺にも、まことに胡乱なる騎馬遊牧民が跳梁跋扈していました。西でフン族の大王アッティラが即位したのは、チャイナで匈奴夏国が滅亡した3年後のことなのです。

◆Gospel Of◆

◆The Throttle◆

【続く】

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