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【つの版】ユダヤの謎10・原始福音

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

セレウコス朝シリアから独立したユダヤでしたが、内紛の末にローマの属国となり、さらに属州とされます。異民族による支配、神殿による重税、律法学者によるマナー差別、経済格差の拡大、独立派によるテロ事件が続く中、ユダヤ民族は救世主を待ち望んでいました。

◆神◆

◆佛◆

史的耶蘇

エリコから数km東、ヨルダン川の東岸にアル=マグタスという古代遺跡があり、世界遺産に指定されています。伝説ではヨシュアに率いられたイスラエル十二支族が約束の地に入った時、ここでヨルダン川を渡ったとされます。また預言者エリヤもここから東へ渡り、弟子エリシャに神の使命を伝えたのち昇天したとされ、共に川を渡る時は「水が堰き止められ、乾いた地が現れた」というモーセめいた奇跡譚が伝わっています。

ヘロデ大王の死後、ユダヤ教の聖地であるこの地に、ヨハネという預言者が現れました。彼はラクダの皮衣をまとい革の帯を締め、蝗と野蜜を食料とするという荒野風スタイルで民衆の前に現れ、「悔い改めよ、天の国は近づいた!」と叫びました。エリヤやエリシャを真似た預言者集団はこのあたりに結構いたようですが、ヨハネは「洗礼/浸礼(アラム語maʿmōḏīṯā、ギリシア語baptisma)を受ければ罪は許され、救われる」と告げました。

これは信者をヨルダン川に顔まで浸からせ、頭を押さえつけて溺れさせかける荒行で、苦しくなったところで水面に出し深呼吸させます。すると「おまえは水と風(霊)によって生まれ変わった」と告げられ、心のストレスから解放された(救われた)と感じるのです。そう言われるとそんな気もしますから、この宗教運動は人気となり、各地から人々が集まってきました。ナザレのイエス(ヨシュア)も洗礼を受け、彼の教団に加わっていたようです。

ヨシュアは「ヤハウェは救い」の意で、イエス(イエズス)はギリシア語形です。当時のユダヤ人には珍しくない名前ですが、ユダ族よりはエフライム族の英雄ヨシュアを思わせます。

ヨハネの教団はエッセネ派の一派だった可能性はありますが、積極的に俗世と関わろうとした点では異なります。彼はサドカイ派やファリサイ派と対立し、西暦28年頃に領主アンティパスを非難したとして逮捕・処刑されます。教団は残存しますが活動は下火になり、イエスはガリラヤへ戻って新たな教団を立ち上げました。その教説はヨハネと似ていましたが、各地を放浪して病気治しなどの奇跡を行い、熱狂的な崇拝を集めたようです。彼はイスラエル十二支族になぞらえて十二使徒を任命し、各地に派遣したといいます。

やがて「イエスは預言者ではない、神が告げられた救世主だ」とする声が高まり、ユダヤ独立を目指す活動家やテロリストも彼のもとに集まりますが、彼自身は自分がメシアだと公言はせず、また「天の国(神による地上統治)はもう来ている、いつでもおまえたちの中にある。互いに愛し合え(仲良くしろ)」と言っていたようです。ヤハウェは天地創造の最初から世界と人類を支配し続けているはずですから、原理的にはそうですね。

この教説を福音(ギリシア語eu-angelion「良い知らせ」)といいますが、弟子たちは「たとえ話でほのめかしておられるのだ」と誤解を深め、イエスは「お前たちはわかっとらん」と嘆いたと福音書に書かれています。

ナザレのイエスやキリスト教については山ほど研究や論争がありますので、迂闊に踏み入ると危険です。つのはなんかこう思っているというだけです。あなたの頭で調べて考え、あなたの信仰を大事にして下さい。

刑死復活

やがて弟子たちを率いてエルサレム神殿に参詣したイエスは、「私の父の家を商売の家にするな」と屋台を蹴り飛ばし、商店主を鞭打ち…したかどうか知りませんが、なんか騒動を起こしてわざと逮捕されたようです。当時のユダヤにはこの手の自称メシアは山ほどおり、ちょくちょく反乱を起こしてはローマに逮捕されていましたが、イエスはまだ反乱を起こしてはいません。しかし彼は大祭司や律法学者を挑発し、自分をメシアとほのめかす「人の子」と称し、ヤハウェを「父」と呼んだため、異端と断定されます。

「人の子」とは『ダニエル書』に見える救世主的存在ですが、単に「アダムの子、人類一般」をも指します。またイスラエル民族は預言書では比喩的に「神の子ら、神の娘」と呼ばれていましたから、人の子イエスが神を父と呼ぶのは特に間違いではありません。炎上するように誤解させたのでしょう。イエスは田舎の出身の割に教養のある人物だったようです。

ただしユダヤの議会サンヘドリンにも大祭司にも、宗教上のことを裁く権限はありましたが、処刑する権限はローマの属州総督(ユダヤ属州はシリア属州の下なので長官)に委ねられていました。イエスはローマ市民でもない属州民ですが、ローマの覇権下で暮らす以上はローマの法律に従います。

ユダヤ属州長官ポンティウス・ピラトゥス(ピラト、在任期間は西暦26-36年)は面倒なことを持ち込まれて顔をしかめ、「わしには彼に罪があるとは思えんが」と答えます。大祭司や議会はメンツがありますから無罪放免とはいかず、「処刑すべきです」と食い下がり、手下のユダヤ人を煽動します。イエスの弟子たちは逃げ隠れたものの、何をしでかすかわかりません。

ピラトは絶対権力者でもない中間管理職で、ユダヤ人に反乱でも起こされようものなら上役や皇帝に睨まれて査定が下がりますから、「ガリラヤ人なら領主アンティパス殿に裁いてもらえ」とお鉢を回します。彼はヨハネを処刑したことがあるため手を汚させようという魂胆ですが、アンティパスはこれを見抜いて鼻で笑い、イエスに派手な服を着せて「ユダヤ人の王」と呼び、ピラトのもとへ送り返します。これにはピラトも苦笑いしたでしょう。

イエスも釈放される気は毛頭なく、イザヤ書53章に預言された「苦難のしもべ」を気取って殺される気満々ですから始末におえません。

彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。(イザヤ書53:10-12

ピラトはやむなく処刑に同意します。この時に手を洗って「わしの責任じゃない、ユダヤ人のせいだ」と言ったとも伝えられますが、最終決定権は彼にあります。この記述のせいで後世のキリスト教徒は「イエスの死はローマのせいではない、ユダヤ人のせいだ」と教えられることになります。ローマに都合がいい話なので、福音書記者が伝道の便宜のためそうしたのでしょう。

かくてイエスは鞭打ちを受けた後、ゴルゴタの丘で磔刑を受けて死にます。その死は遺された弟子たちに大きなショックを与え、「彼は死んでいない」「死んだのは偽物だ」「死んで埋葬されたが復活したのだ、(ユダヤ教の)聖書にもそう書かれている」といった超自然的な解釈が現れます。

「死者が神の奇跡で復活する」ということは、サドカイ派では否定されていましたが、ファリサイ派では広く信じられていました。預言者エリヤやエリシャは死者を蘇生させたと伝えられますし、エゼキエル書やイザヤ書、ホセア書、詩篇などにもそう取れる箇所がいくつかあります。イエスもそれを信じていたか、弟子たちにそう信じさせ、教え(ミーム)を永遠に彼らに刻み込むために死んでみせたのでしょう。

イスカリオテのユダに裏切らせたのも仕込みですが、彼は後悔と絶望のため自殺したとも(マタイ伝)、自分が裏切ったカネで購入した土地に真っ逆さまに落ちて内臓が全部出て死んだともいいます(使徒行伝)。前者ならまだしも、後者の場合は弟子たちに殺されたのでしょうか。

イエスの死後、信者らは多くが離散してユダヤ教やサマリア教に復帰したでしょうが、弟子たちの一部は「彼は復活した」という教義のもと再集結し、「復活した彼と出会った」「生身の肉体があった、傷口に触れた」「彼が焼き魚を食べた」とか風説を流布します。仮死状態になっただけで本人が蘇生してみせたのか、影武者を立てたのか、弟子たちの集団幻覚や作り話なのかはともかく、「イエスの復活」という神話はこうして生まれました。

イエスは聖書に預言されたメシアと信じられ、ギリシア語で訳されてクリストス(油を塗られた者)、すなわちキリストと呼ばれるようになりました。イエスをメシアやキリストと呼ぶのは、彼がそのような存在であると認める信仰告白です。またイエスは復活してしばらくした後に昇天しましたが、代わりに天国からヤハウェが聖霊を下して信者を助け導くと信じられました。これは神の息とか言葉とかそういうなんかです。

また昇天したイエスは「もうすぐ地上に降臨して神の国を打ち立てる」とされ、その時がいつなのかは神のみぞ知ることであるから、常に備えておくよう唱えました。終末論を利用して求心性と倫理性を高めたわけです。こうした教義がある程度定まるまでには大論争があり、いろんな分派が生じます。イエス自身は単にユダヤ教を改革するつもりだったとしても、彼が遺したミームは変容していったのです。仏教とかもそうなので仕方ありません。

原始教会

このようにして復活したイエスの教団は、シモン・ペテロ(ケパ)ら十二使徒(ユダは死んだので代わりはくじで選びました)、及びイエスの兄弟であるヤコブを代表者としていました。ヤコブはイエスの生前には活動に加わらず、「復活したイエス」に出会って改心したといいます。しかし彼らはあくまで「ナザレのイエスをメシア(キリスト)だとするユダヤ教徒の一派」と自認し、ユダヤ教イエス派ないしナザレ派と認識されていました。

大祭司や議会、ユダヤ教の主流派からは異端として睨まれたものの、彼らは武装蜂起せずに律法を守り、エルサレム神殿にも参詣し、病気癒やしの奇跡などを行って民衆の間に信者を増やしました。彼らは日常語としてアラム語を話していましたが、公用語としてギリシア語を話せる者もおり、サマリアやガリラヤなど各地に福音を伝道(布教)する旅に出ています。ユダヤ教の素養がないとイエスがメシアであると説かれても理解できませんから、初期の伝道はユダヤ人やサマリア人に限られたようですが。

転機となったのは、ペテロが「海辺のカイザリア」へ布教に赴いた際、コルネリウスというローマの軍人が信者になったことです。彼は割礼を受けない非ユダヤ人でしたがユダヤ教の神を信じており、ペテロの話を聞いてイエスを信じるようになりました。保守的なユダヤ教徒からすれば問題ですが、ナザレ派にとっては大きな後ろ盾となりますし、ヤハウェは万人の神であって「異邦人(非ユダヤ人)も救う」と聖書に書かれています。ナザレ派はこれを機会に非ユダヤ人への伝道を推し進めました。

始めに言葉ありき、というように、布教をユニヴァーサル&グローバルに行うなら、アラム語での伝道には限界があります。当時のローマ帝国からパルティアにかけては広くヘレニズム世界でギリシア語が通用しましたから、目端の利くユダヤ人ならギリシア語を習得しています。彼らは「ヘレニスタイ(ギリシア語話者)」と呼ばれ、ユダヤ教を知っていてもユダヤ人ではない多くのギリシア語話者をナザレ派に取り込んで行きます。

しかし、ナザレ派はユダヤ教の一派です。ユダヤ教に改宗するなら(男性であれば)割礼を受け、律法に従った生活をしないと祭司や律法学者にますます睨まれます。平信徒なら割礼を受けなくてもいい、洗礼だけでいいという意見と、いや割礼を受け律法を守らねばならないという意見が当然対立し、教団は分裂していきます。

そしてついに、ヘレニスタイの代表であるステファノがファリサイ派の怒りに触れ、サンヘドリンにしょっぴかれて石打ちの刑で殺されます。ローマによる裁判を経ていない私刑ですが、過激なユダヤ人を怒らせるとヤバイのでローマ側は黙認したようです。これを契機にファリサイ派はナザレ派を迫害にかかりますが、そのひとりサウロ(パウロ)は逆にナザレ派に転向し、熱心に異邦人への布教を進めることになります。

◆魚◆

◆魚◆

【続く】

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