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頭を使いすぎる

頑張るとその分だけつらいことが起きる数が増えるんだけど、それを捌く時間を計上しないで頑張ろうとしてもキャパが足りないんだよね。

みたいなことをひとりでに考える事が増えた。たぶん22歳からで、大人ってもしかするとそういうもんなのかもしれない。こういうことをネットで呟くと周りの友達が影響を受ける(ように見える)のが今まで居たたまれなくて、この気持ちをどこに吐き出したらいいのかわからずにいた。今も分かってないので、結局誰にもフォローされてない鍵垢でこぼすことにしている。

語る意味のないことは語らないのがポリシーみたいなところもあるのかもしれない。だいぶnoteがたまってしまったけど、これでも全ては吐き出せていない。人の見ていない所で僕もいろんなことを考えている、いや考えてしまう。やりたいこと、今の僕に足りてないもの。基本的にはそのふたつだが、たぶん僕の原動力は自信のなさなんじゃないかと思う。いつもこう、これだけは言いたい!となる気づきの瞬間と人を抉りかねない説教じみた文書が100字くらいで脳裏に浮かぶのだ。本を読んだり企画を練ったりして、疲れが取れなくなってふと散歩すると出てくる。人間はそういうサイクルで動いているらしい。そして、自分が思っているほどその言葉にはパンチがなく、同じ事を人生の内に考え終えた人からすれば何の傷にも栄養にもならない無意味なフレーズである。

基本的にはこの上に今の生活の悩みとか人間関係とか社会の謎とかが乗っかってくるので、いつも僕の頭の中はこれからどうしようかでいっぱいになっている。おそらく仕事を頑張った所でこのモチベーションの階層のようなものは性格上なかなか崩れない気がするから、単にモチベーションのままがむしゃらに労働時間を増やしても却って均衡は崩れてしまうと思う。

社会人が耐えていること、僕にも吐き出せば耐えられるようになるかもしれないのに、ため込んでつらくなることが多い。だからといってわちゃわちゃした呑み会で話せるわけでもないし、僕のこの瞬間の悩みに即答できるできた隣人とは勇気がなくて付き合えない。僕がひねくれているか、思考の1箇所を突き詰めると反論が出てきてそのノックバックに僕が耐えられていないかのどちらかだろう。

大人になってから呑みの場について思うことがある。あれは本来ただ親睦を深めるための場ではなく、いつでも酒場が使えるようにお金のある人がビジネス的に呑み会を開き、心を開いた所でビジネスの話を持ち込む。僕はそんな打算で酒を使うことは殆どないが、世の中にはそういう作為もあるらしい。もちろん単純に酒が呑みたい人の集まりであることに変わりはないと思うが、最近僕が経済の循環について思いを巡らせているから、今朝はそう捉えた。

たまにそういう僕の純粋さでは思考の追いつかないことを自然とやっている人達を目にすると、なんて器用なんだと憧れることがある。未だに世の中には僕の憧れるものが山程ある。だけどいちいち気にすると病むので、最近は1日分の刺激しかもらわないようにしている。

あ。考えすぎなんじゃないのってそういうことか。こういう散発的な文章が出る時って大体大したことを言っていない。人に読ませたいものでもないのだがしゃべりたくて書いてしまうものが殆どなのだ。もしかするとこの状態になったら僕は正しい結論を出すまで考え続けるのではなくて、1回考える行為自体を辞めればいいのではなかろうか。…そういえばそれが昔は暴走してできなかったのだが、最近は刺激のない生活に戻したのでその制御ができる。テキストにしておけばここを見た人しか僕の思考も見ないし、口頭で隣人がこんなのずっとしゃべってるよりははるかに行儀が良いだろう。

テキストって便利だ。


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