キュンチョメ《声枯れるまで》:揺らぎの声を聴くこと

ジェンダーと政治の揺らぎ

「ジェンダー平等」

あいちトリエンナーレ2019において掲げられたその理念は、参加作家の男女比率を等しくすることによって具現化され、大きな話題を呼んだ(1)。一方で「表現の不自由展・その後」の中止に伴う「表現の自由」対「検閲とテロ」という膠着した構図(2)の中で、ジェンダー平等に関する話題はほとんど吹き飛んでしまったかのように見える。しかし、本来これらの問題はジェンダーの問題と政治の問題として切り離されるべきものではない。むしろ地続きの問題として考えることでしか見えてこない現実がある。

ではこれらに共通して抜け落ちていた問題とは何か。それはクィアにおける境界に対する「揺らぎ」の問題である。ジェンダー平等とはそもそも「誰もが性別に関わらず平等に機会が与えられる」(3)状態を指す。ただし男女比率の平等によって実現するジェンダー平等とは、女権拡張論におけるキャッチアップ・モデル(「男に追いつき追い越せ」モデル)(4)であり、そのような性別二元論、ホモソーシャル性を前提とした機会の平等はむしろLGBTQの存在を疎外しかねない。そこには「男女という境界」に対する「揺らぎ」は前提とされておらず、LGBTQは数としてもカウントされない。もしくはカミングアウトの選択やクエスチョニングの問題を考えれば、カウントすること自体が不可能である。

しかしここではジェンダー平等の試み自体を批判したいわけではない。また、LGBTQがジェンダー平等に含まれるか否かということを問題にしたいわけでもない。男→女→LGBTQという後回しの段階問題があるという批判はありえるが、現実的に現状を認識した上で、ジェンダー平等に取り組んだことに対しては素直に評価するべきだろう。むしろ問題なのはそのジェンダー平等における構造が、そのまま芸術祭のモデルや政治の問題に適用されたことだ。それは例えばあいちトリエンナーレ2019が「国際芸術祭に追いつき追い越せ」というキャッチアップ・モデルになっていたことや、「表現の自由」対「検閲とテロ」という境界が固定化された政治論争になってしまったことに端的に表れている。そのような構造があらゆる事態を膠着状態に陥れてしまった。

アシュリー・マーデルはクィアには線形スペクトラム、ジェンダー・ホイール・カラー、ジェンダー・ユニコーンという考え方があるという。これらは例えばSOGIEにおけるSexual Orientation(性的指向)、Gender Identity(性自認)、Gender Expression(性表現)などの各相関関係にグレーゾーンを含んだ「揺らぎ」があること、もしくはそれらを境界に固定されずに認識するための手段として用いられるものだ(5, 6)。ここでそもそも「表現の自由」とは、絶対的に決められるものではなく、相対的に決定するものであることに注意したい。つまり「表現の自由」には常に境界があり、その境界は他との関係性により揺らぐスペクトラムとして捉えることができる。そのようなスペクトラムの「揺らぎ」を認識せずに、「表現の自由」対「検閲とテロ」という白黒問題として認識してしまうことこそが、膠着状態を形成している原因だろう。つまりジェンダーの問題と政治の問題が、境界に対する「揺らぎ」を前提としていないという点において地続きになっているのである。

キュンチョメ《声枯れるまで》:揺らぎの声を聴くこと

このようなジェンダー平等の取り組みに対して批判的に応答し、かつクィアにおける境界に対する「揺らぎ」の問題を前景化/作品化したのが、キュンチョメ《声枯れるまで》だ。

会場である幸円ビル2階の防火扉を開けると、赤く照らされた部屋が出現する。その受付でチケットを見せ、靴を脱ぎ、「声枯れるまで(Until My Voice Dies)」と書かれた扉を開けて中に入る。すると最初の映像作品と対面することになるが、《声枯れるまで》は三つの作品に分かれており、受付でもらった資料によれば以下のような内容になっていた。

①「私は世治」(2019)
映像11分

②「声枯れるまで」(2019)
映像45分(15分×3人)

③「声枯れるまで」(2019)
ラジカセ、カセットテープ

①は椅子に座りながら、ヘッドフォンを付けて映像を観る。①の空間と②及び③の空間は別室のように暗幕で区切られてはいたものの、扉がないので②の音声が漏れ聞こえてくる。②は大画面の映像であり、用意されたクッションなどに座ったり寝転がりながら鑑賞することができる。③は②の画面とは真逆の位置にあり、人によっては気付かずに帰ってしまうことがあるかもしれない。内容はラジカセにセットしたカセットテープを「巻き戻し」て「再生」することで聴くことができる。

身体と心を束ねる情報としての名前は性別を示唆し、名付けには親という他者による強制/愛がある。今回の作品に登場する人物は、いずれもそのような状況に対して何かしらの違和感を感じ、自らを命名し直したFTM、もしくはXジェンダーの人々だ。①では母子の合同インタビューの後、世治が昔の彩乃という名前を母親と一緒に上書きする。②では悠真、佑真、ジューンがそれぞれ名前の由来などを中心としたインタビューを受け、自ら新しく命名した名前をキュンチョメと一緒に声枯れるまで叫び続ける。③は内容的には②と被る部分が多いが、歩という①や②に登場していない人物のカセットテープがあり、悠真、佑真、ジューンそれぞれの語られていなかったエピソードなども発見することができる。

トランスジェンダーとは生まれ持った生物学的な身体と性自認の性別が異なる人々の総称であり、中でもFTMは身体は女性だが、性自認は男性の人のことを指す。またXジェンダーとは出生時の男性や女性という性別の割り当てや枠組み自体に対して違和感を感じる人々のことだ。一方で生まれ持った生物学的な身体と性自認の性別が一致する人のことをシスジェンダーと呼ぶ。FTM、Xジェンダーの人々を中心に取り上げることは、ジェンダー平等が無自覚に想定していたシスジェンダー的男女という境界に対する「揺らぎ」をもたらすという意味合いにおいて、キュレーションへの批判的な応答になっている。

キュンチョメとのインタビュー形式によって引き出される話。
母親との噛み合わない会話と共同作業。
間に挟まれるほのぼのとした意味不明な映像。(ex. 悠真(ゆずま)なので3人でゆずを投げ合う)
異様なまでの話術の高さ。
手術の金銭的、身体的痛み。
名前。
叫び。叫び。叫び。。。
近所迷惑として掻き消されそうになる声。

世治。悠真。佑真。ジューン。歩。

5人それぞれの人生とその軋轢が圧縮された時間を正面からぶつけられ、胸を打たれない人はいないだろう。何度も何度も繰り返し叫ばれる名前の反響は、大きな振動となって画面から伝わってくる。それは語られたエピソードとも相まって、直接心臓に突き刺さる。それなのにも関わらずどこか牧歌的な雰囲気を漂わせ、身構えずに長編の映像を見続けられるのは偏にキュンチョメのインタビューと編集能力の高さによるものだろう。親や社会を含めた他者との関係性において与えられるもの、その違和感に対して正面から向き合い、生き抜く人々のドキュメンタリー映像として今作は非常に秀逸な出来である。

しかし、一方で私は今までほとんどアートの話をしていない。キュンチョメ《声枯れるまで》がドキュメンタリー映像ではなく、芸術祭におけるアート作品として出品されている以上、そこにはアートの観点からみた価値判断が必要であることは明白である。もちろんドキュメンタリー映像がそのままアート作品になることはあり得るだろうし、ソーシャリー・エンゲイジド・アート的な意味では既にアートの話に触れていると言えるのかもしれない。ただここではそれらとは違った観点からキュンチョメ《声枯れるまで》に触れてみたい。以下に論点を整理したので、順番に紹介していく。

論点

1. 展示構成(親の存在/不在)

2. 出演者と観客の非対称性

3. ケースの数と多様性

4. 叫びの方法と必然性

5. 情の時代への応答

まず気になったのは、1の「展示構成(親の存在/不在)」についてだ。結論から言えば①〜③の順序と配置は全て逆であるべきであった。少なくとも①と②の順序は親の存在/不在という大きな差異があり、ここの順序は逆であった方が自然とコンセプトの深まりを感じる鑑賞体験になるはずだ。①では母親と一緒に共同作業をする反面、②では話題には出てきたとしても親が直接登場しない。

キュンチョメは他者ではあるが、理解者としてのインタビュアー、もしくは出演者と一緒に声枯れるまで叫ぶという役割があった。一方で出演者にとってカミングアウトの問題を孕む親は、圧倒的に身近にいるが故に、無限の距離を感じる他者としての親である。そこには相互的に複雑な愛と理解のできなさが横たわっている。抑圧的な他者に対する極限までの無関係性と自立を強調するのであれば、親の存在→不在というシンプルな流れに向かうよりも、親の不在と自立的な叫び→親の存在とその噛み合わなさによる無限の距離という順序にした方がむしろ関係性の複雑さを、複雑なまま伝えられたのではないか。

③は②の補足であり、ラジカセの機能として「巻き戻し」て「再生」させることや、操作ミスによって「録音」を上書きしてしまいそうになることが活用されていた(後者は勝手な推測であり、想定されていない可能性もある)。それぞれ声(名前)が何度も繰り返し「再生」されること、声が掻き消されることなどに意味を持たせているのかもしれない。ただ、単純に目立たない場所にあり、操作方法も分かりづらいために、観客にその意図が十分に伝わるような展示構成になっていなかった部分にはもったいなさを感じた。

次に2の「出演者と観客の非対称性」について述べてみたい。これに関しては特に②で顕著に感じた。②では巨大なモニターに映る出演者たちの映像を、観客がクッションに座ったり寝そべったりしながら鑑賞するスタイルになっている。あれだけ広い空間を使用しているのであれば、単純に映像をリラックスして見せる空間として使用するのではなく、インスタレーションとして内容に沿った仕掛けを施すこともできたはずだ。しかし、そこに関してほとんど何の対策もなされていなかったことにより、本来のメッセージとは真逆のメッセージを発信する危険性のある鑑賞体験になってしまっていたように思えた。

叫びというのは名前の記号性を抜きにして、既に非常に強いメッセージである。本来他者によって命名されるはずの名前を、自分によって命名し直し、それを叫びに変える。自分に向けて。その懸命な姿を座り、寝転び、リラックスしながら観る我々観客。この状態に関して非常に言葉を悪くして言えば、見世物小屋的な構造になってしまってはいないだろうか。モニターの向こう側とこちら側に、固定化された境界を引いてしまってはいないだろうか。

言うまでもなく観客もまた、何かしらのジェンダー的な役割を担っている存在である。注意しなければならないのは、モニターの向こう側以上に、いやむしろモニターのこちら側の観客の方にこそ無限の性の多様性が存在していることだ。FTMもXジェンダーもその無限の性の多様性の一つの在り方に過ぎない。そのモニターの境界における「出演者と観客の非対称性」について自覚的に考えるのであれば、そもそも②は映像作品というよりインスタレーションとして組み立てるべきなのかもしれず、そこには改善の余地がありそうだ。

次に3の「ケースの数と多様性」について考えてみたい。今回は自己に対して命名し直したFTMとXジェンダーの5人が取り上げられていた。例えばこれに関して言えば、一見すると何故MTFがいないのかを指摘したくなる。それは単純に自己で命名し直している上に、トランスジェンダーやXジェンダーであり、かつアート作品に出演協力してもらえるケース自体が非常に稀であるという事情に起因するのかもしれない。しかしこの問題の本質は、実はケースとしての数や多様性が足りないということではない。むしろどれだけのケースを追えばその多様性が満たされるのかが不明であり、そもそもそれを満たす必要があるのか、という点にある。

クィアという概念に付随するカテゴリーは現在進行形で変形/拡張し続けており、その分類不可能性は避けては通れない。千葉雅也は「性の領域において『知覚しえぬもの』であるのは、『女性』『レズビアン』『ゲイ』『トランスジェンダー』等々のカテゴリーに収まり切ることのない、多様に異なる『変態(クイア)』の諸々の断片である」(7)と指摘する。その諸々の断片は常にカテゴリーという名の境界に「揺らぎ」をもたらしており、クィアとクィア以外の本質はむしろその「揺らぎ」と固定性の対比にある。だとするならば、この先幾らクィアにおけるFTM、Xジェンダー、MTFといったケースの数と多様性を増やしていったとしても、それは「男女という境界」を揺らがした先に作られたカテゴリーを再度固定化することに他ならず、それではクィアの本質に触れられないことになる。

その意味ではむしろ①〜③の作品を1人に密着して制作した場合であれば理解し易いが、この5人を取り上げる意味と必然性はどこにあったのだろうか。それには取り上げるケースの数や多様性を増やす目的があったようにみえるが、それ以外の理由もあったのだろうか。これらの問いはこの作品が仮に発展途上であり、この先も様々なケースを追うのだと仮定すると、「何をすればこの作品が完結したことになるのか」という問いにも繋がる。今回のジェンダー平等の試みでは数というところに還元されたが、単純にケースの数や多様性を増やすことがこの作品を完成させることになるとは思わない。むしろ「揺らぎ」を「揺らぎ」のまま捉えること、つまり名指ししたことで逃げてしまうものをも捉えることによってしかこの作品は完成しないはずだ。

次に4の「叫びの方法と必然性」について振り返ってみたい。「声枯れるまで」というタイトルにもなっているように、②における出演者とキュンチョメが「声枯れるまで」叫ぶシーンはこの作品の最も核心になる部分と言えるだろう。しかし肝心のこの部分こそが、この作品における一番の問題点であるように思えた。キュンチョメによる出演者に対するインタビュー後、画面は暗転し、その暗転した状態のまま出演者とキュンチョメが新しい名前を叫び続ける。

しかしその叫びのスタイル自体は3人ともほとんど変わらない。何故か体育会系スタイルなのである。それはスポーツの応援団のようでもあり、3人で肩を組んで「気合い入れろ!」的なものでもあった。実際には画面が暗転しているので肩を組んでいたかは分からないが、叫び終了後に一瞬そのような映像が映ったりもした。これであれば「声枯れるまで」という到達点も、スパルタ的な根性論に回収されてしまう恐れがある。そもそもそのようなステレオタイプかつホモソーシャル的な型にはまらないために叫んでいるのではなかっただろうか。そうであるならば、その叫びの方法は各々全く違ったスタイルが有り得たはずだ。

さらに言えば叫びの必然性はどこにあるのだろうか。確かに叫びには「空気を読まない」意思表明などのメッセージの他に、根源的な怒り/威嚇、自己否定/肯定などのメタメッセージがそのものの中に内包されている。しかし、今回出演した人々は、むしろ叫んでも解決しない問題と人生を通して向き合ってきたのであって、その複雑性を「声枯れるまで」叫ぶという行為に単純化してしまうことの危険性と違和感がある。それよりはむしろ①の親子が一緒に筆を持つ時のぎこちなさ、会話の緊張感や距離感の方に、より深いメッセージが隠されていたような気がしてならない。

最後に5の「情の時代への応答」について考察してみたい。あいちトリエンナーレ2019のタイトルは「情の時代」である。ここで言う「情」とは「感情/情動」、「実情/情報」、「なさけ」の主に3種類の意味であり、それらを土台として芸術祭のコンセプトが形作られている(8)。それに対するキュンチョメの応答は、名前に含まれる二つの「情」、つまり親の愛情と性別という情報を認識した上で、自分で命名した名前を叫ぶことによって超越してみせることであった(9)。ジェンダー平等に対しても、情の時代に対しても、自分たちなりに解釈した上で、批判的に跳躍してみせるキュンチョメの手付きはここでも遺憾なく発揮されている。

しかしここで情の時代の英語タイトルに注目してみてほしい。Taming Y/Our Passion。これは日本語に訳せば「情を飼いならす」という意味になり、イアン・ハッキング『偶然を飼いならす:The Taming of Chance』に由来しているという。この観点から言えば《声枯れるまで》における感動や叫びの体験は、「感情/情動」を飼い慣らすというよりは、それらの発露を促す回路の強化に見えなくもない。当事者にしか分かり得ない複雑な問題を、たった1時間程度の時間で我々は余りにも分かった気になってしまっている。そのようなゼロ距離の共感と感動から主体を切断し、距離を置かせ、一旦分からなくなることの渦の中に放り込むこと。それこそがアートの役割であり、その中にこそ「情を飼いならす」ヒントがあるはずだ。その渦に飲み込まれることで、我々の境界は揺らぐのである。

キュンチョメは確かに《声枯れるまで》によって、ジェンダー平等と情の時代というテーマに批判的かつ独自の視点から応答してみせることで、鑑賞者に「揺らぎ」をもたらした。その「揺らぎ」とは性別二元論に対するクィア理論の視点であり、元の名前と新しい名前に対する親の愛情と性別の視点である。しかし、クィアがカテゴリーとして名指しすることが不可能な諸々の断片を含むのだとすれば、むしろFTMやXジェンダーを強調したり、多様なケースを追い求めることで「揺らぎ」を再度固定化してしまう危険性がある。その上で「声枯れるまで」叫ぶというステレオタイプかつホモソーシャル的な方法によって、名前についての「揺らぎ」は叫びとして固定化され、直情的な情の回路に接続されてしまった。声はまた掻き消されてしまった。

揺らぎの声を聴くこと。自らの揺らぎの声を、何度でも聴き続けること。

それこそがジェンダー平等と情の時代を飼いならす(tameする)ための技(ars)なのである。

1) "「ジェンダー平等は美術界の国際的潮流になる」。津田大介が語るあいちトリエンナーレ2019のジェンダー平等"(2019)<https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/19606>2019年9月7日アクセス.

2) "東浩紀があいちトリエンナーレのアドバイザー辞任へ「“表現の自由vs検閲とテロ”は偽の問題」"(2019)<https://www.buzzfeed.com/jp/ryosukekamba/azuma>2019年8月30日アクセス.

3) "ジェンダー平等"(2016)<https://sdgs.tv/tg_mov/goal5>2019年9月7日アクセス.

4) 上野千鶴子(2006)『生き延びるための思想: ジェンダー平等の罠』岩波書店, pp.29-30.

5) マーデル, アシュリー(2017)『13歳から知っておきたいLGBT+』(須川綾子訳)ダイヤモンド社, pp.22-33.

6) 中塚幹也(2018)『個「性」ってなんだろう?:LGBTの本』あかね書房, p.2.

7) 千葉雅也(2013)『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社, pp.65-66.

8) "あいちトリエンナーレ2019のテーマ、コンセプトが決定しました"(2019)<https://aichitriennale.jp/news/2017/002033.html>2019年8月30日アクセス.

9) "世界をグラデーションで捉える"(2019)<https://natalie.mu/stage/pp/aichi2019_pa02>2019年9月7日アクセス.

レビューとレポート 第4号(2019年9月)

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