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「才能」という怪物

私の思う「才能」とは何か、について語ります。ポエムです。図を描いて説明しようとも思ったのですが、ポエムなので、それはまかり間違って反響があったときにします。

「才能」の定義

私が思うに「才能」と呼ばれるそれの正体の1つは、「勘が鋭い」ことです。

ある問題を解決するために、ある目標に達するために、多くの人は色んな試行錯誤をし「正解」を見つけます。しかし、才能がある人は、その勘のよさや感性によって、それに辿り着くまでの速度が異様に早い。

では才能がなければ天才と同じことができないのか、そうではありません。回り道は必要になりますが、多くの試行錯誤の上に、それに辿り着くことはできます。

経験によって、同種の問題や目標への到達にかかる時間を短くすることもできます。いわゆる、対にされがちな「努力」と言われるものがこれに相当します。

「能力」の強化

「才能」と近い性質にあるものが「極めて強化された能力」です。それは多くの場合に環境によって与えられ、また才能と同じように、自らは得難いものです。

恐らくこれを読む人の多くが納得すると思いますが、たとえばピアニストの子供がピアノを上手く弾けることに違和感はないでしょう。

要因は 2 つあります。1 つは、元よりそういう能力が培われた親から生まれ出た子であるため、多くの人より正解へ至る能力が高いこと。もう 1 つは、幼少期からピアノに触れる環境があることです。

前者は才能によるもの、後者は環境による能力の強化です。ピアノになぞらえましたが、これは別に走ることであっても、計算することであっても、絵を描くことであっても同じと思います。

何かを熟練する、高度なものにするには、若いうちからそれに触れておく方がよいのは、共通の認識と思います。それは若さゆえの学習能力の高さはもちろん、それにかける時間の長さがあるからです。先の「努力」です。

生まれ持って環境に恵まれず、あるとき突然としてそれに触れたとき、優れた結果を残す事象は「才能」でしょう。もっとも、そんなことが多くはないことを私たちは知っているはずです。

「好き」こそのもの上手なれ

「好きこそものの上手なれ」とはよく言いますが、これはかける時間の長さが長くなっていくことから説明ができます。

「好き」であることは、能力を強化する要因の 1 つです。好きであることは学習意欲を向上しますし、それに集中することによって、より効率的に能力を強化することができます。人によっては、他者から得られる評価によって、さらにそれを好きになり、学習意欲を向上することもあるでしょう。

前者は、それを好きであることが、正解へたどり着くための学習意欲に繋がっていることを生まれ持って知っている、つまり才能によるもので、後者は環境によって与えられるものです。

後者は、私たちの誰でもが与えられるものです。なので、誰かの成果を、さらなる学習意欲のために評価することは、大変よいことだと私は思います。

努力する天才

天才の努力はときに見落とされがちですが、努力する天才は存在します。ある正解に辿り着いた後で、さらに高度な正解を探し始めるのです。

それは多くの人が最初の世界にたどり着くまでに費やされる時間が過ぎる間、努力する間も行われていて、こうして「才能」と言わしめたる能力差が開いていくように思うのです。

そして努力という意味のとおりに、それは本来は苦労を伴うものです。ところが「好き」であることは、その苦労を少なからず軽減します。好きであることを大事にしていきましょう。

「正解」とは

これまでに「正解」と繰り返しに使っています。正解なんて 1 つではないと思うでしょう。そのとおりです。もちろん正解は 1 つではないですし、一方で多くの人に共通する正解もあります。

たとえば足の長さや手の長さが異なれば、同じ走るにしても体の動かし方は違ってきますね。ところが効率のよい動作方法や、いわゆるセオリーという正解もあるわけです。もしも高度な正解や才能というものに近づきたければ、私たちはそこから目を背けてはいけないと思うのです。

もっとも、才能ある人は新しい正解を見つけてくるのですが。そして、その道を多くの人が通れるとは限らないのですが。

得手不得手

私たちが生物である以上、能力には限界があります。たとえば生まれ持った身体的特徴を超える運動能力を発揮することができないのは自明です。

ところが、たとえばバスケットであれば、素早く走れる以外に、高度なドリブル技術やシュート技術によって、評価されることがあるでしょう。それが「得手不得手」です。

もっとも、ただ走るだけの競技の上では、自身の身体で成し得る限界の速度、そのための体の動かし方、そのための練習方法、そんな正解を探す必要があるわけですが。

それにしても、走るだけの競技を選ばなくても、なんであれば運動でなくても、私たちは自分の能力を発揮する場を選ぶことができます。得手不得手ってそういうものです。

もう1つの才能

得手不得手は、才能のもう1つの正体といってよいように思います。多くの人よりも正解へと早く到達しやすく、また多くの人よりもより高度な正解へ到達する可能性があるためです。

分かりやすさのために身体的特徴にたとえれば、身長が高ければ、バレーボールなどの競技においては、他のそれがない人たちよりも多くの成果を上げやすいことは自明ですね。

「努力する天才」でも述べたように、一般的な人が高く跳ぶための努力をする間に、身長という才能を持った人は、相手をかわすような、より高度な正解へ到達する可能性があります。

さらに、どれほど跳べるようになったところで、同じだけ跳ぼうとする天才には、絶対に高さではかないません。物理的に、ある高さに到達するまでにかかる時間も敵いません。才能は怪物です。

才能に「勝つ」ために

「勝つ」ために必要なことは、これまでにも述べてきました。正解はいくつもあるから、別の正解を求めるのもよいし、あるいは、複数の正解によって勝ってもいい。ようするに、勝つポイントをずらすのです。

超強力なキックの才能はないけど、それなりなドリブル技術と、それなりな脚の速さがあれば、十分にサッカー選手として勝つ可能性があるといえるでしょう?

えぇ分かっています。これを詭弁と思うことでしょう。勝つポイントをずらすとは、ある側面から見た「逃げ」や、負けを認めることに等しいですから。そう、逃げるしかありません。才能は怪物です。

でもきっと、勝てるところで勝負することは、それほど悪いことではないと思います。

「勘」の正体

「勘」とは、言語化することが極めて難しいものの、生まれ持った感性か、積み重ねられた経験から知覚できる、わずかな情報の高度な積み重ねです。

前者は獲得すること敵わないですが、後者に関しては努力によって強化される見込みがあります。

もちろん、確率的に、運よく正解に辿り着くようなことはあるでしょう。ただ、何かの正解にたどり着くまでに、多くの場合には勘が働いているように、私は思うのです。

それでも

才能がないのは分かった、それでも才能ある人たちに届きたい、どうしたらいいんでしょう。能力を強化するか、あるいは、狂気に身を委ねるしかありません。

「極めて強化された能力」を持った人が、特殊な環境下にあった、なんてことを見聞きしたことはありませんか。少なくとも環境によって得られるものは大きく、同じ環境にあって得られるものは、今得られているものから逸脱したものにはなりません。よく捉えれば、安定しているとも。

能力を強化するために、環境を選ぶことはよいことと思います。あるいは環境を用意することによって、誰かの能力が強化されることは大いにあるでしょう。職場や学校を選ぶのだってその1つです。ただし、多くの場合に、ただ特殊であればよいわけではない点にだけ注意が必要です。

あるいは、狂気に身を任せることです。才能ある人たちと異なり、それが正解であるような勘も働かぬまま、本来ならあり得ない選択をした結果、たまたまそれが正解かもしれない。そんな方法。

リスクはもちろんあります。見えている正解へ到達するためのエネルギーや時間を使うことになります。そして、そうしたって何も得られないかもしれないし、天才を含む、ほかの多くの人は、今この時だって、そのエネルギーをもっと効率よく使っています。

おわりに

余談1:実際のところ、私は狂気の選択をしたタイプです。そうすることでしか、自分の心が納得いかなかった。非合理性的な選択の下に、1つだけ人生の目標を達成しましたが、それが幸福な選択だったのかは未だもって分かりません。死ぬまで分からないでしょう。

余談2:実際のところ、天才よりも、極めて強化された能力を持った人の方が多いように思います。彼らの努力は称賛されるべきで、そこに憧れがあるなら、自らもまた努力をしなければならないですが、努力とは本当に大変なものですね。天才も極めて強化された能力の持ち主も、息をするようにそれをしていて、まったく彼らはすごいですね。

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