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行儀か作法か

『徒然草』は、食事の礼儀作法に関連して、妙な一段(第四十八段)を記している。

話の主人公は権中納言の藤原光親と、そのかれが仕える後鳥羽院。光親は、院が主催する最勝講の行事において大事な役を務め、そのご褒美の一つとして特別に一膳を提供された。恭しくこれを完食した光親は、そのつぎに取った行動がここの眼目である。「食散らしたる衝重を御簾の中へさし入て罷出にけり」と、食べ散らしたまま、食器調度ともども御簾の中に返して退出したのだった。これに対して、伺候する女房たちは非難の言葉を容赦なく口にしたが、しかしながら後鳥羽院本人はかえって作法に叶ったものだと感心しきりだった。

例によって、この記述の内容は、江戸時代の絵師によってビジュアル的に再現された。ここに二例ほど紹介しよう。

『なぐさみ草』(松永貞徳、1652年)は、光親の行動にのみ焦点を当てた。彼が手にしたのははたして「衝重」と呼ぶに相応しいかどうかはさておくとして、確かに食器は空っぽになっている。そしてそれをそっと御簾の中へ入れようとしている。御簾の中に女房たちが構えているだろうが、画面の上では光親一人しか人の姿が見えない。

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これに対して、『つれづれ草絵抄』(苗村丈伯、1691年)となれば、描写の内容が一変し、はるかに詳しくなる。それは僧侶たちが並ぶ最勝講の行事から始まり、光親の周りの様子も饒舌に描かれた。かれが手にしたのは複数のお盆であり、しかも振り返りながら立ち去る女房の手にはさらに一枚捧げている。加えて画面の一番右側にわずかに姿を覗かせたのは、畳みの上に端座する貴人であり、後鳥羽院その人までこの場にいたとの解釈になってしまう。

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もともと『徒然草』のこの一段の意図するところは、必ずしも簡単に分からない。はたして食べ散らした衝重をそのまま返すような作法があったのか、その詳細、そしてそれが意味するものとはなんなものなのか、現代の学者たちもかなり分かれた見解をしている。江戸時代の注釈に遡ってみても事情はそうは変わらず、一例として、『野槌抄』(林羅山、1621年)では、「タトヘバ君ノ前ニテモ甲冑ノ士ハ蓙拝セザルガゴトシ」と、光親の行動に合理さ、ひいてこの作法の根拠などを説こうと、突飛な連想まで持ち込んだものだった。

いずれにせよ、兼好の文章に戻りたい。つぎは、この段の全文である。

光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御を出だされて食せられけり。さて食散らしたる衝重を、御簾の中へさし入て罷出にけり。女房、「あな汚な、誰にとれとてか」など申合はれければ、「有職の振舞、やんごとなき事なり」と、返々感ぜさせ給けるとぞ。

ここに登場した人物は三人以上、かれらの行動は行事、食事、御膳返却、批判、称賛とすくなく五つと数えられる。なのに文章はわずかに百二十文字。洗練された描写には、ただ感心するほかはない。

『徒然草』の文章は、声に出して読んで味わってほしい。さっそく試みに朗読を録音した。(リンク)ご一助になれればと願う。

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