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【歳時記と落語】年の瀬

いよいよ旧暦でも年の暮れになってきました。昔やったらいまごろは、年の瀬の忙しい盛りということになります。何が忙しいかといいますと、昔は商売というのは大体が掛売りの節季払いというやつでして、大晦日が一年の支払いの最後ということいなってますんで、これをとりっぱぐれますと、商売人の方はエライ損です。払う方は払う方で、どないかしてこれを乗り切ってやろうと考えるもんも、まああんまりおらなんだとは思いますが、ないわけではなかったんでしょうな。それが落語の「掛け取り」の笑いの根底にはありますな。

「掛け取り」も元々は上方噺で、賑やかなハメモノが入りますが、東京でもこれはハメモノが使われることがあるようですな。噺の眼目は、奇想天外に借金取りを撃退すること、それ自体ですんで、中身は噺家によってアレンジがされます。

この噺は、その辺を楽しむもんやとも言えますな。それでも、ほぼそのままやられるんが、次のところです。

おかみさんが外を見ますと、醤油屋の姿が見えます。
「醤油屋か、醤油屋は何が好きや?」
「あの人はあんた、芝居が好きや。もぉ役者の真似ばっかりしてはるわ」
「芝居か。よっしゃ、ちょっとお前三味線持っといで」
おかみさんに三味線を弾かせまして、男は路地を花道に見立てて、醤油屋に声をかけます。
「お掛け取り様のお入りィ~」
醤油屋は男はなんぞの企みでやっているのは感づいているんですが、芝居好きですから、「あいつも案外、芝居気がないな」てなこと思われたらムカつく、というので敢えて乗ってやります。
「お掛け取り様のお入りィ、ちゅうたなぁ、わしを上使に見立てたとこやな。よっしゃ、風呂敷を肩へ掛けて、これでええやろ」
「これはこれはお掛け取り様には、遠路ご足労に存じまする。がしかし、そこはドブ板、いざまず、これへ」
「掛け取りの儀なれば、正座ご免」
「これはこれはお掛け取り様には、今日ご上使の趣、仰せ聞かしくださりょうならば、ありがとう存じまする」
「掛け取りの趣、謹んで承れ。月々溜まる味噌・醤油の代金、積もり積もって二十三円六十と五銭じゃ。丁稚定吉をして再三督促におよぶといえど、いっかな払わぬ。今日こそは大晦日、きっと算用いたしてよかろうぞ」
「恐れ入ったるご催促、その言い訳は、これなる扇面にて」
「何? 扇をもって言い訳とな。『雪晴るる 比良の高嶺の夕間暮れ 花の盛りを過ぎし頃かな』こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって言い訳とは?」
「こころ矢橋に逸れども、頼む方さへ堅田より、この身に重き雁金の、明日日に迫る痩せ瀬田ィ、元手の代は尽き果てて、膳所はなし。貴殿に顔を粟津なら、今しばらくは唐崎の」
「ほう、松てくれと、いう謎か?」
「今年も過ぎて来年の、比良の高嶺の雪も消え、花の弥生も過ぎてのち、あの石山の秋の月」
「九月下旬か?」
「三井寺の鐘を合図に」
「きっと算用いたすであろうな?」
「それまではお掛け取り様」
「この家の主。明春お目に、かかるでござろう」
醤油屋は丸め込まれて帰ってしまいます。

こういう金が絡んだあわただしさというもんは、色んな話を生み出します。落語でのその傑作のひとつが、三遊亭円朝作の「文七元結」でしょうな。これは噺の芯が江戸っ子気質の生粋の江戸噺ですんで、上方ではあんまりやられません。

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