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飲食業ほぼ未経験の自分が、東京を代表するレストランを経営する物語


~タイソンズアンドカンパニーのnote、はじめます〜

数々の人気店を手掛けてきた自分が、長く愛される飲食店づくりのノウハウを伝えていきます。まず第1弾として、閉店寸前だった店に入り、社長になるまでの物語から…

自分の飲食業のキャリアは、26歳だった1999年春、天王洲のつぶれかけていたレストランからスタートしました。そう、T.Y.HARBOR。今から考えると信じられない話ですが、当時は開業2年で経営難に陥っていました。

飲食業での経験はT.Y.HARBOR開業時に1ヵ月アルバイトをしただけという自分が、そんな店の経営を立て直し、31歳で広尾のCICADA、39歳で代官山のIVY PLACEを開け、今ではレストラン5店舗やカフェ、ベーカリーなど10数店舗を経営しています。

T.Y.HARBORの売上は創業から20年伸び続けて10倍になり、今では東京を代表する大型レストランとなりました。流行ることと同じくらいかそれ以上に、長く続けることが難しいこの業界で、なぜタイソンズの店はずっと混みつづけるのか… 自分が20年以上のキャリアで築いてきた店づくりのヒミツを、noteで書いていこうと思います。

目次
1.飲食業ではなく、アジアをめざした学生時代
2.中国行きと、1ヵ月だけの飲食バイト
3.運命の分かれ道
4.飲食業へ進み、そして泣いた
5.社長になる。そしてこれからのnoteでの展開

1.飲食業ではなく、アジアをめざした学生時代

今でこそ、この仕事が天職だと思う自分ですが、子供時代はレストランにあまり行ったことがありません。父は子連れでの外食を好まず、いつも家で母が作る食事を食べていました。ただ週末の朝は父がパンケーキやワッフルを焼くなど、いま考えればオシャレな朝食も… やがて高校生ぐらいになり、週末に近所のレストランに行くようになると、外で食べる食事は楽しみな世界になりました。

ただ、当時はまさかその世界に入るとは思ってもいません。シャイな性格で、初めて会う人とのコミュニケーションは決して上手ではなかったからです。

でも何かに挑戦したくて、新しい大学のキャンパスで勉強したものの、就活期にバブルが崩壊… 漠然とアジアを股にかけるビジネスマンを夢見ていた自分は、焦って就職するより知らない世界をみたいと考え、米国へ渡ってアジア太平洋専門の大学院に留学しました。(写真は米国で同級生たちと)

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2.中国行きと、1ヵ月だけの飲食バイト

日米双方で、幅広い分野を学び物事を広く見るジェネラリストとしての教育を受けつつ、英語に加えてもう一つアジア言語は必須だと思い、中国語を学ぶため1年休学して北京へも留学します。

経由で東京に滞在した時、父が開けようとしていたT.Y.HARBORで人手が足りないという話を聞き、開業から1ヶ月だけアルバイトをしました。洗い場で皿洗いをしたものの2週間で新しいことをしてみたくなり、支配人に相談したら、軽く「あ、いいよ」と表でビールを注がせてくれました。

でもまた1週間して、今度は恐ろしいことにウェイターをやってみたくなりなりました。さすがのマネージャーも一瞬躊躇したもののやらせてくれ、そして案の定色々とやらかしました… それが飲食業の仕事との出会いでした。

3. 運命の分かれ道

北京で1年過ごし米国に戻ると、卒業を控えアジアで仕事ができる日本のメーカーで働きたいと考えます。ただ98年当時はほとんどの会社で海外留学生はまだ現地採用扱い、新卒採用を行っていたのは知るかぎり唯一S社のみ。

まあ面接ぐらいいくでしょ、と今から考えれば信じられない軽さで考え、「A4一枚に何でも自由に書く」という1次の課題をパパっと書いて送りました。その後しばらくして、東京の父から夜中に電話でたたき起こされます。

「何だあ、この不採用通知は!」 

怒りとも呆れともいえない父の叫びは、それもそのはず… 祖父が倉庫会社をはじめたときS社創業者にお世話になった上に付き合いも深く、父はS社に入社してNY駐在もして、しかもその時の上司は自分が応募時の会長だったのです。

元よりそこに頼るつもりもない上に楽観的だった自分としても、さあどうしたものかと思いました。でもそれなら初めからアジアでいこうと目標を切り替え、台湾の財閥に無理をいって雇ってもらい、傘下の百貨店企業で社会人としての第一歩を踏み出したのです。(写真は台北時代の上司と同僚)

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台北では新しい百貨店のコンセプトを考える若手チームに入りました。居心地のよい場所への欲求がめばえていた自分は、飲食担当ではないのに大好きだったカフェを押し込んだり… その店はもうありませんが、オーナーとは今も台北へ行くたびに飲む仲です。

しかし、もしたまたま東京にいてバイトをしなかったら…そしてもしS社に入社していたら… おそらく飲食業に関わることはなかったし、天王洲にTYはなくシカダもIVYも存在しなかったかも、と考えると何か不思議な感覚です。

4.飲食業へ進み、そして泣いた

さあアジアで、自分の力で生きていく --- そう思い台湾でキャリアを歩み始めた自分に、飲食業への扉は突然開かれました。

アルバイトした父の店がうまくいかず、外国人マネジメントチームが立て直しのため入ったら、逆にもっと大変な事態になった…そう風の噂に聞いていた自分は、旧正月の休みで東京に戻ったとき父親にこう頼まれます。

「友達いたら紹介して。ビジネスがわかり、英語を話せ、若くて元気が良くて… 給料があまりいらない人。」

台湾での仕事を1年弱で切り上げ、そうやって始まった私の飲食キャリア。潰れかけの会社はモラルも低く、オフィスの空気感の悪さに初日から「しまった、道を誤ったか」と思ったのも束の間… まだ半分新卒みたいな自分に向かい、社内や周囲に溜まっていたガスがすべて噴き出してきました。店舗スタッフをはじめ、親会社の幹部や横の会社の社長にまで、面識があるばかりに呼び出されてありとあらゆる文句と悪口を聞かされます。

さらに入社後初めて外国人チームに頼まれた仕事は、ダブルブッキングしたウエディングの1つが従兄のだからという理由で、直前なのに別の場所でやるよう頼んでくれとの依頼… 当然、親戚だからこそ荒れます… すべてが辛すぎて、運河を見ながら思わず涙をこぼした日もありました。

(写真はそのチームとの忘年会…この時は楽しそうでしたね)

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しかも会社は経理処理が滞って半年間P/Lが出ておらず、一方で新チームが色々なことを始め、訳がわからないまま湯水のようにキャッシュが出ていく状態で、上からは3か月以内に数字をまとめろという指令… そんなむちゃなと思いつつ、学生時代の記憶と教科書を頼りに会計処理をはじめ、ほぼ休みなく働いて役員会で報告、その翌日に倒れて1ヵ月入院します。

「君のところは苦労してなくていいね」

こう某飲食経営者に言われたことがあります。ゼロから築き上げた人たちに比べれば恵まれた部分もあったかもしれませんが、潰れそうな巨大店の立て直しというマイナスからのスタートには、人知れない苦労と涙があったのです。

5.社長になる。そしてこれからのnoteでの展開

しかし今ではそれも笑い話。入社直後、めちゃくちゃな状態で無理やりコンセプトチェンジして再オープンしたティー・ワイ・ハーバーでしたが、幸いにも優秀な人たちが多くいて、店は1年もせず軌道に乗りました。そして3年目には黒字化に成功、29歳にして社長に就任したのです。

どうやって立て直したのかと聞かれることもありますが、飲食業を何も知らなかった自分は、ジェネラリストとしてスペシャリストの皆さんにいかに気持ちよく働いてもらうかを必死に考え、ひたすら間を走り回っていただけ…当時はそれしかできることがありませんでした。

しかしそこから先の20年で数々のお店を開け、学び、そして反省し、自分なりのノウハウを積み上げてきました。このnoteではそれらを3つのシリーズに分け、色々なことを織り交ぜながら展開していこうと思います。

<ケーススタディー>
その後のストーリーとして、タイソンズの店舗それぞれにおける店づくりのストーリーや裏側にある考え方について、時系列順に解説します
<長く愛される飲食店のつくり方>
自分がお店をつくる際に大事にしているポイントを、10項目以上にわたる分野ごとに、実例を交えつつ説明します
<タイソンズ式 飲食店の経営学>
お店を育てる上での考え方や、経営者として心掛けること、また最新話題・時事問題への意見などのトピック

そうした内容が、これから飲食業を目指す人や、飲食業で新たな一歩を目指す人たちにとって少しでも刺激になればと思います!ぜひ読んでみてください。

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