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レストランを水の上に建築せよ!難題を3年かかっても実現できた理由とは

【ケーススタディ #4】 T.Y.HARBOR River Lounge

2006年にできた東京初の水上店舗、リバーラウンジ。法的に難しかった「係留された船舶での飲食店営業」を実現するには、複雑に重なる規制をクリアしつつ、水に浮かぶ船なのに建物として建築する必要がありました。多くの課題を乗り越え、熱き心で共に進んだ仲間たちの3年以上にわたるストーリーを初公開!

バブルの時代を生きた人たちはよく知るホイチョイ・プロダクションズ。映画「私をスキーに連れてって」や漫画「気まぐれコンセプト」と同じく有名なのが、1994年に出版された「東京いい店やれる店」。この名著は2012年に新版が発行され、いまではアプリもでき、自腹で食べているという店情報はいつも参考になります。

まあ本のタイトルの意味は、レストランとしてもデートスポットとしても総合的にレベルが高く、連れていった女性が喜んでくれる店のことだと認識していますが、そこで「猿でもチューできるお店」として書かれたのがこのお店。静かな水面を目の前に二人掛けソファに並んで語り合い、食後にライトアップされた橋を渡って歩いていたら…という美しいシチュエーションをとらえた表現であり、光栄なことだと思っています!

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完成当初は「WATERLINE」という名称の独立したバーラウンジでしたが、今では「River Lounge」としてT.Y.HARBORの一部になっているこのお店、どのような構想で企画され、どのようなプロセスで生まれたのかを振り返ります!

■目次
1.陸と水をつなぐ
2.東京都と運河ルネサンス
3.プロジェクト始動!
4.あらゆるレベルで起きる問題…
5.そして完成

1.陸と水をつなぐ

97年オープンのT.Y.HARBORを2年後に引継ぎ、立て直しにメドがついた02年頃。翌年に開くシカダの構想を練る一方で、自分にはもう一つ想っていたことがありました。

東京はかつて多くの運河をもつ水の都で、そのほとんどは開発で失われたり魅力を失ってしまいましたが、銀座など今も残っていたならどんなに美しい街だったろう ー 東京に辛うじて残る水辺も、TYのテラスにいると気持ちいいものの、目の前の運河を見渡すと人が歩かず名ばかりの「親水」護岸という無機質なコンクリートに囲まれ、ビルはみな運河側を背を向けて建てられているような状況。

もともとTYの前には寺田倉庫が係留権をもち船を停めていたので乗る機会がありましたが、TYのテラスよりも水に近くて風も抜け、そこで飲むビールの味は格別… この気持ちよさをお客さんとも共有したいと考えた自分は、もっと水に近づけないか、陸と水をつなぐ場所をつくれないかと考えます。

そんな時にたまたま聞いたのが、東京や横浜では「はしけ」(運搬船)が余っており、使われずに繋がれたままという話。風の噂でかつて芝浦には隠れ営業していたボートバーがあったと聞きましたが、そうやって泊めた船でお店をできないかと考え、さっそく視察に行きます。

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02年3月、横浜ではしけの見学。ボートに曳かれるのでエンジンもなく、運搬船なので内部には広大なスペースが広がっています。倉庫を改造したTYのイメージにつながる???

海外では運河や河川の活用が盛んで、パリに行けばセーヌ川にはボートを改造したレストランやオフィスにクラブまであったし、米国時代に行ったテキサスのサンアントニオや、最近でいえばシンガポールなど、綺麗に整備された本当の親水空間がある運河は、都市の重要な観光資源になっています。

東京でもやる!と意気込み東京都に問い合わせてみたところ、船を係留して営業するには水域占用という許可が必要で、ただ運輸や荷役以外の用途には下りないとのこと。じゃあ船に災害用の食糧備蓄などをするからその上部を使わせてほしい、などと提案してみましたが当然ダメ…

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参考までにパリ・セーヌ川に浮かぶオフィス船。05年撮影。まさにはしけを改造していてカッコよかったのですが、日差しが入って夏は暑そう…

そんなとき突然あらわれたのが都の護岸補強計画でした。天王洲の他のエリア同様、TYの周りにも護岸とともにデッキをつくって天王洲一周をつなげるという計画を聞き、TYのテラスの前を人が歩き始めたらあの環境が失われてしまうという危機感と、もしかしてこれをきっかけに水上店舗を実現できるのではないかという期待感が自分を動かします。

でも30歳の坊や一人では何もできず… 運河関係に強い寺田倉庫の小泉取締役に相談すると、社内に強力な援軍がいることが判明。自分もよく知る閑野(しずの)という若者が、日本大学理工学部のウォーターフロント研究室でまさに浮体施設を研究していたとのこと! 研究室の横内先生・岡田先生を紹介してもらい、小泉・閑野ともに行政に提案を行うチームができあがりました。

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スーツを着たコックさんではありません。造船所でヘルメット装着前の閑野高広氏。06年のラウンジ完成から3年後に寺田倉庫を辞職、熊谷市議会議員を10年務めたあと今秋の熊谷市長選に立候補しようとしています。市長になって、ぜひ荒川や利根川にも水上レストランを… がんばれ、しずぅ!

2.東京都と運河ルネサンス

そして始まった協議。まずは02年12月、東京都港湾局と護岸整備に関する情報交換から。03年にかけ、先生たちの協力もえて様々な提案をしますがなかなかうまく行かないなと思ったとき、すい星のように現れたのが「運河ルネサンス計画」でした。

もともと船好きだった石原慎太郎都知事(当時)の発案か、東京の運河を活性化する目的で03年度中には計画をまとめ、04年度から始動するとのこと。03年12月26日の東京新聞でもその計画が明かされています。

東京新聞 2003-12-26

実は都知事と父親はスポーツクラブのサウナでよく一緒になったそうですが、密室でいったいどんな会話が交わされたのか… ついには04年3月、都議会での答弁で寺田倉庫の名前まで登場しました(汗)

(04年3月6日の都議会議事録より)
運河など水辺の魅力づくりの推進についてでありますが、江戸時代から、運河は人々の生活に深くかかわっておりまして(中略)、この運河を利用して、江戸時代から日本の首都はにぎわっておりました。
 幕末に江戸を訪れたヨーロッパ人は、江戸の下町は東洋のベニスであるともいったそうでありまして、初代の日本の商工会議所の会頭の渋沢栄一氏は、東京をアジアのベニスのようなまちにしたいと念願したと聞いておりますが、しかし、現在、非常にそのずさんな建設行政で、これは主に国の責任ですけれども、運河はコンクリートの護岸で囲まれ、建物はすべて、運河や川からの上り口はありませんから、水辺に背を向けて、非常に不粋な川なり運河に成り下がっております。
 実は、私の親友の寺田倉庫の社長が、この間、天王洲で彼がやっております、かつての倉庫を利用してやっておりますレストランである催しがあったときに、非常にいいサジェスチョンをしてくれましたが、今、流通が変わって、東京と横浜を合わせますと、使ってないバージ(筆者注:英語ではしけのこと)が五百隻ぐらいあると。これを二つ続けると、かなりのスペースでレストランが建ちます。これを、川なら問題があるけれど、運河のような平静な水域で、ぜひ活用したいということでありました。
 先般、ほかの用事で、東京の幹部と国交省の幹部と会食しましたときに、その話を私、持ち出しまして、今の国交省、昔の建設省の河川局は、まだ昔のように意地を張ってつまらぬことをいうならば、私はそれを無視してでも、とにかくその運河を活用するぞと、訴訟が起こったときにばかを見るのはどっちかわかるだろうといったら、苦笑いして、よくわかっていますということでした。
 そこからですね、この何というんですか、運河ルネッサンスなるものの発想が出たんだと思いますけれども、いずれにしろ、その持てる財産を、私たち、観光のためにも活用する必要があると思います。まさに、埋もれた宝でありまして、運河は、その魅力を現在の東京の観光だけではなしに、経済の活力再生のために利用、活用することが必要だと思っております。(後略)

東京都の動きと見事にタイミングがあい、そこから動きは一気に加速します。

3.プロジェクト始動!

さあプロジェクトが始まりました。ただ色々と考えた結果、当初は余っている「はしけ」を使おうと思っていましたが、巨大なはしけは景観に影響がありそうだし、そもそも開放感あふれるTYのパーティースペースとしても利用したかったので、「平台船(ひらだいせん)」を使うことに変更します。

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見学した平台船。写真にある鋼管など様々なものを載せて運ぶ平らな運搬船ですが、その特徴を活かして花火の打ち上げ台として使われたりもします。

この船の上にガラス張りで開放的な空間をつくり、一方で公共性をつけるべく当時流行していたFMローカル局のスタジオを設置、ビールが飲めるバーだけでなくライブなどもできるイベントスペースという企画を立てます。

俯瞰図1

03年12月頃、井出玄一さん(BOAT PEOPLE Association 代表理事)に描いてもらった最初のイメージ案。運河ではよく東京水産大学(現東京海洋大学)のボートチームが練習していて、ボートレースやるのもいいねと話していました。

その台船案をベースに、建物の基本計画と内装はTYのインテリアデザイナーに頼みましたが、実際の設計やプロジェクトマネジメントで協力してくれたのが、当時天王洲のテナントであった梓設計さん。公共工事にも強く、設計や進行のとりまとめで最後まで大活躍していただきました。ここでも、このプロジェクト向きな専門家がまさにご近所にいたのです。

行政側でも手続きが整理され、04年度に立ち上がる運河ルネサンス計画にあわせて地域の協議会を設置、04年度中に対象地域としての提言にまとめて申請、05年度早々には許可が出て初夏にはオープン、というスケジュールが見えました。そして「運河ルネサンス構想天王洲地区協議会」が発足、近隣からの提案も出してもらい、すべてが順調に進んでいるかと思われました。

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04年8月頃、当時あったテラダ設計室の江尻さんに描いてもらったイメージ第2案。具体的な配置図をもとにしているので、桟橋を含めてだいぶ現在の形に近づいています。

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4.あらゆるレベルで起きる問題…

ところが、事はそんな簡単に運びません… 次から次へと問題が起こります。

第1の問題:父親

最初の問題は家族内で発生しました。ポイントは、はしけでなく台船に切り替えたこと。父の頭の中では、はしけの中にもぐって丸窓が見えるようなオコモリ系を想像していたらしく、台船をベースにしたプランを見て「俺が考えていたのと違う」とキレます。

もともと自分の会社に船をつくる資金などなく、寺田倉庫が建造した船を借りる予定だったので、最後には父が「誰が金を出すと思ってるんだ、あいつの言うことは聞かずに作れ」と言い出す始末… そもそも誰が考えて進めてきた企画だよと反発し、お互い頑固な2人が正面衝突。大手商社出身で要領のよい兄には、「だからアイツはちゃんとした会社で修業した方がよかったんだ」と言われたとか。

しかしそのままでは本当に父親案が進んでしまうので、急いで寺田倉庫側の設計チームに依頼して、はしけの入った図面にして説得会です。はしけもつくるから何とか許してくれということで、辛うじてこの場を乗り切ることができました。しかしこれはまた後で次の問題を引き起こすことに…

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どう考えても手ではしけを描き足しただけの、図面とも言えない図面… これを使って必死に説得しました… 

TYパース1

その後できた2隻のCGパース。はしけは船内でプライベートパーティーができる、隠れ家的なスペースを企画していました。最後に現在の全景写真が出てくるので比べてみて下さい。

第2の問題:法規制

さて家族レベルでの小さな問題と並行して、もう一つ国家レベルでの問題も発生していました。

客船や屋形船と異なり長期係留された状態で不特定多数の人が利用する「浮体構造物」は、国土交通省でも3つの局が法律で規制していたのです。海事局が船として船舶安全法、港湾局が係留について港湾法、住宅局が建築物として建築基準法… つまり実現するためには、船を建造して登録、許可をえて係留すると同時に、建物として建築し法律をクリアする必要がありました。

その結果、船は地震の影響などほぼ受けないのに当時「姉歯事件」で話題になっていた構造計算や、潮の満ち引きで上下動してもバリアフリー対応が必要、さらには運河なのに市街化調整区域といって建物を新規に建てることが難しい地域に該当してしまうことまで判明… それ以外にも、例えば建物の避難とは外へ逃がすことですが、船の避難は沈む船から上に逃がすのが原則なので、その両方をクリアせよ!といったことが起きます。

それまでも横浜港のぷかり桟橋など浮体構造物のケースはあったようですが、民間で行われるのは異例らしく関わる人すべてにとって初めての経験。頭を抱えつつ進む私たちの味方は、実は東京都でした。時間ばかりかかって焦るなか、都の担当者が様々な調整に尽力してくれてプロジェクトは進んでいきます。ありがたいことでした。

第3の問題:建築費用

05年度に入ってすぐ申請を出し、6月に天王洲地区の計画は芝浦地区の計画とともに東京都で初めて認可されましたが、しかしここで最後の大問題… コストです。

何しろいくらかかるか不明なまま始まり、計画が進んでも全然見えません。しかも親子ゲンカの結果、台船に加えてはしけもつくることになり、さらには古い船を改造する予定が、載せるものが物か人かで安全基準が異なるため大規模改修が必要で、新造した方がまだ安いということが判明。桟橋や地上工事などすべてあわせた費用は想定の数倍にふくれあがります。そして今度は兄がキレます。

小泉取締役があやうくクビになりそうなところを何とか切り抜けつつ、数か月かけてプランを練り直し、最終的には工事を二期に分け父親のはしけを後回しにする形で何とかゴーサイン。結果的にシメシメでしたが、ようやく台船は東京都の対岸、千葉の袖ケ浦にある小湊造船で造船されはじめました。

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建造中の姿。移動を前提としない設計なので、水の抵抗が強そうな… そして下は進水式の様子。

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いざ水に浮かんだ瞬間は、感慨深いものがありました... 涙

5.そして完成

完成した船は06年2月、曳航されて東京湾を横断し天王洲に到着。閑野は船に乗り、寺田は天王洲で待ち受けていました。TYがある場所は水門で囲まれているのですが、幅はもちろん高さも潮が一番引いた時にしか通れないギリギリサイズの船が、水門を通過して到着したときは涙が出そうでした。

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天王洲に到着、水門を通過後にふれあい橋の下を通る姿。その頃にスマホがあったなら動画で撮影してたな―、惜しいです。下はその後の工事の様子。

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そして2月14日のバレンタインデー、都知事や関係者も招待して盛大にレセプションが行われました。同時に認可された芝浦アイランドは翌年の完成予定、天王洲地区の他計画も進んでおらず、運河ルネサンス計画にもとづく東京都第1号のプロジェクトとしてスタートできた瞬間でした。

ただ、道を切り開いたのにその後の計画は桟橋の設置ばかりで、いまだに水上飲食店は一つもできません。ただ思えば、このプロジェクトは条件的に恵まれていました。そもそも後ろにTYという集客力の強い店があり、何もないところで始めるより事業リスクが低く、また電気や上下水道などのインフラがすぐ近くにきていました。特に下水は地面を掘って引くコストが高いのですが、ここでは1-2メートル掘っただけでポンプ接続できたため費用を抑えられ、くみ取り船を呼ぶ必要もありませんでした。

そうした利点を活かして実現したこのプロジェクト、誰も経験のないことをするにあたり、成し遂げるんだという意思の強さや実行力はもちろんですが、色々なタイミングやサポートしてくれる人たちとの出会いという運も必要でした。一人では絶対にできなかったし、振り返ってみてあらためて、周囲にいた多くの人たちに支えられて実現できたのだとつくづく思います。

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左下のリバーラウンジは今も運河に浮かび、右側にある隈研吾さん設計のT-LOTUSなどができるきっかけにもなりました。上空から見ると美しい!

実はこのお店には明確な住所がありません。「品川区東品川2番地先」という表記は「地先」とよばれ、つまり2番地の先にある場所だよ、という意味。運河を埋め立てて造られた銀座の商業施設などでも使われ、まあ船に住所がないのも不思議ではないですが、そのあたりにもこのプロジェクトの複雑さが表れています。

でも、昼が夜…そしてカラーがモノトーンに変わる瞬間、水際が一番色気を出す夕暮れ時にここのデッキで飲むビールの味は、やっぱり格別だったのでした!

参考資料:運河ルネサンス推進地区(東京都HPより)

次号予告:
【長く愛される飲食店のつくり方 #3】インテリアデザイン
かっこいいだけではない、よい空間のつくり方とは。(8月下旬予定)

次々号予告:
【ケーススタディ #5】 breadworks
2010年にTYの横の倉庫が空いたとき、いくつかの選択肢から自分が選んだのはベーカリーでした。そこから3店舗までの立ち上げ話。(9月上旬予定)







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