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それは、いつか終わるから。

株式会社エクシングのクリエイティブ・ディレクター、野村です。

少し前に、チームの作品を非売品の絵本にしていただく機会がありました。制作に携わる者として、書籍というパッケージには愛着があります。本は単なるテキストデータの集積にあらず。装丁、紙質、レイアウト、文字サイズ、書体など、制作・出版側で検討すべきことがたくさんある。『ノルウェイの森』と聞いて僕がストーリーよりも先に思い出すのは、赤と緑のカバーとゴールドの帯、そしてかすれて消えそうな本文の繊細な書体です。

一方で、パッケージを持たない電子書籍による小説の読書体験が新鮮だったのは、購入した時点で本としての物理的な厚みがイメージできず、いま全体のどのあたりを読んでいるかの見当さえつかないことでした(それを表示させる設定はある)。紙の本の場合、手に取った時点で物語の大まかな長さがわかってしまうし、読んでいるときはつねに右手と左手で抑えている紙の厚さの感触から、「まだまだ序盤だ」「このへんから後半か」「そろそろ締めにかかるな」という気配をどうしても感じ取ってしまいます。

電子書籍では、そのような進捗状況、いわば現在地の情報が伝わってこないので、物語の中に放り込まれたような臨場感が強くなると感じました。しばらく前に話題になったSF小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を夜な夜なKindleで少しずつ読み進めていたときは、自分が作品全体のどのあたりにいるかの感覚をすっかり失ってしまいました。話は今すぐにでも終わりそうでもあり、永遠に続きそうでもある。重力のバランスが崩れたストーリー設定と相まって、主人公とともに宇宙空間に投げ出されたような、よるべない浮遊感をベッドで味わうことになりました。

フィクションと現実世界を最も大きく隔てているのは、いわゆるリアリティがあるかないかよりも、終わりが見えるか/見えないかではないかという気がします。5年ほど前、大学病院に入院して予定外の処置による苦痛に全身を苛まれたことがありました。そのとき、もし神様がいるのなら、「今すぐ治してください」とお願いするのは虫が良すぎるとしても、この苦しみがいつまで続くのか、あと何日耐えれば終わるのかを教えてもらえないかと切に願ったものです。

映画で主人公がどれほど辛酸を嘗めていても、視聴体験としてそれが3時間も続かないことを僕たちは知っています。そんなに続いても困ってしまう。対して、それぞれのリアルな人生では、さまざまな経験や感情が「いつかは終わる」ことは明確でありながら(すべては遅くとも100年後には終わっている)、いつ終わるのかわからない。とりわけ社会人になってからは、そう実感することが増えてきます。それでも、いつか終わることを信じて苦境に立ち向かったり、いつか訪れる終わりを予感することで眼の前の幸せを噛みしめて生きていく。そこには小説や映画では描けない輝きがあるのではないでしょうか。


雲の厚い日曜日の午後でした。


初版刊行は自分が17歳のときでした。本も音楽も、この時期に接したものは心に長く留まりますね。
ストーリーとひとつになって物語の世界観をつくっていた「精興社書体」(参照記事)。